第2章 消えた子どもたち
 

 聖堂に参った後は入り口の段差に腰掛けて、慈善活動の焼き菓子を食べながらやってきた村人となんてことのない世間話をして貰い物をし、お返しとして手土産を渡す。そんなゆったりとした時間が流れ、聖堂に明かりが灯る時刻となった。
 燃える空に大きな黒い鳥の姿。夕暮れのロジエはまるで異界のような幻想的な赤と紫に染まり、ゆっくりと夜の闇に沈みゆく。粒のような光は瞬く間に星となって空を覆い始める。
 ウルスラとグウェンと合流するために村の入り口に行き、しばらく待っていると聞き慣れた荷車の音が聞こえてきた。淡い色の羽織りものを頭まですっぽりかぶったグウェンが白い手を振っている。
「ごめんなさい、遅くなって。寒かったでしょう?」
 荷車に乗り込んだコーディリアは「いいえ」とグウェンに微笑んだ。
「お二人とも、お疲れ様でした。聖堂で焼き菓子を買ったので食べてください。仕事をしていてきっと空腹でしょう?」
 ウルスラが口を開く前に「私のお財布から出しました」と言うとグウェンはくすっと吹き出し、コーディリアから菓子を受け取った。
「ありがとう、アデル。帰り着くまでもう少しかかるから早速いただいてしまうわね。ほら、ウルスラも」
「グウェンの悪い癖が移ったようだね、アデル。あんたこそこんな無駄遣いをしている余裕はないだろうに」
 悪態をつきつつ、そこの、とアデルの傍らに積まれた箱を示す。
「葡萄酒が入っているから、飲みな。焼き菓子で口が渇いて咽せることもなくなるだろうよ」
 コーディリアなりに訳してみると『春の夜の帰り道は冷えるから葡萄酒でも飲んで身体を温めなさい』という感じだろうか。
 ありがたくいただこうとしたときには早々とグウェンが封を開けていた。コーディリアも一口飲み、酒精と果汁の甘苦さと緩やかに生まれた熱に心地よく息を吐いた。
 行きと同じくのんびりと、空を目指すように山を登る。地上の光に乏しいロジエの空は満点の星で飾られ、コーディリアがこれまで見たどの夜会のどんな令嬢のドレスよりも美しく輝いている。
 滑らかな手触りの布地、緻密なレース飾り、きらめく宝石や華々しいドレスとは無縁の日々を送るいま、コーディリアの心は人生で一番凪いでいた。雄々しい山嶺と澄んだ空、古い街並みと豊かな自然に囲まれていると、婚約者に見向きもされなかったこれまでの自分はなんて虚しいものだったのかと思うのだ。
 しかし一方でこうも思う。
(婚約者に愛されなかった、ただそれだけであの恵まれていた生活がこんなにも無価値に思えてしまう……)
「そういえば今日は先々で『アデルはいないのか?』って聞かれたわ。みーんな、殿方よ! 誰も彼も若くて可愛い働き者が好きなのよねえ」
「若くて丈夫そうで自分の言いなりになる小娘、ってことだろう」
 早くも酔っ払ったようなグウェンの浮ついた声と低く鋭いウルスラの呆れ声が夜の山道に響く。それを聞いて困って笑いながら思うのは。
(私は、もう二度と誰かを愛することはないのかもしれない)
 帰り着いた山の上の家は留守番がいないために真っ暗で、すぐ燭台の明かりを灯し、暖炉に火を入れて室内を暖めていく必要がある。それが終わったら片付けだ。 コーディリアが外套と羽織りもので着膨れした身体をえっちらおっちら動かして荷物を運び入れている間、ウルスラは調達した材料を作業部屋に収納に行き、グウェンは食事の支度を始める。
 漬けていた黒パンをバターでじゅっと焼いた甘い香りが漂う頃には、身体も家も十分に温まっている。首回りの汗を拭おうと、コーディリアが巻きつけていた羽織りものを解いたときだった。
 ごんごん、と荒々しく扉の叩かれる音が響く。
(こんな時間にお客様?)
 コーディリアたちは顔を見合わせた。急患を診るために呼ばれることはこれまでに何度かあったが、それ以外に日が落ちてからこの山道を登ってくる者は皆無だ。
「私が出ます」と小声で言い、コーディリアは少し緊張しながら扉の向こうに声をかけた。
「どなたか、この家に御用ですか?」
「夜遅くにすまん。鍛冶屋のコッヘルだ。ちょいと困ったことがあってな、いまいいかい?」
 振り返るとウルスラが頷いたのでコーディリアは扉を開けた。果たしてそこに立っていたのは大柄な鍛冶屋の親方で、背後の闇の中には想像していたような何者かが待ち構えていることはなく、わずかに肩の力が抜けた。
「こんばんは、コッヘルさん。どうされました? 急病人ですか?」
「よお、アデル。こんばんは。いや、いまのところ病人じゃないんだが事によっては来てもらうかもしれん」
「はっきりしない言い方だね」
 吐き捨てるように言ったウルスラがコーディリアの隣に立ち、コッヘルを睨むように見上げる。
「いったい何があったんだい。病人か怪我人が出てくる可能性がある状況ってのは?」
「村のがきどもがいなくなった。ヨハンとエリオとフィリスだ」
 よく見ればコッヘルはうっすら汗をかいていた。急いで馬を飛ばしてきたのだろう。身体が冷えるからとひとまず家に招き入れ、温かい飲み物と休息を取ってもらいながら話を聞いた。
 ――ヨハン、エリオ、フィリスの三人組が騒ぎを起こすのはそう珍しくはない。
 そうやって何かと問題を起こすせいで門限が決められ、破れば食事抜きや外出禁止など厳罰を科すようになると帰宅時間は一応守っていたそうだ。
 だから今日、日が暮れても帰宅しなかったのをおかしいと思った家族が近辺を訪ねて回り、いつもの三人が揃って戻っていないとわかって、何かしでかしたに違いないという考えに至ったのだという。
 だが家族と近隣住民が村中を探し回っても姿がない。誘拐か事件に巻き込まれたのか、次第に関係者の顔つきが強張ってきた頃、誰かが山を降りてきたウルスラたちのことを思い出し、この頼りない縁に縋る形でコッヘルが急行してきた、というわけだったらしい。
「エリオたちなら遊びに行くところをすれ違いましたよ」
「本当か!?」
 温めた葡萄酒に口をつけたコッヘルはそれを吹き出す勢いで詰め寄ってくる。大声にも強い態度にも慣れているコーディリアは落ち着いて、昼間の出来事を説明したが、聞いていたコッヘルが冬眠から目覚めた熊でもこんな顔はしないという険しい表情になるのにはさすがに後退りしそうになった。
「いまを逃したらいつ行けるかわからない、そう言ったんだな?」
「はい」と肯定した途端、コッヘルは肩を落とすようにして呻く。
「さてはあいつら、『廃城』に行きやがったな……!」
 途端にウルスラが鋭い一瞥を投げつけた。
「廃城だって? あそこには近付くんじゃないと常々言い聞かせているんじゃないのかい」
 コーディリアはそっとグウェンに問いかけた。
「『廃城』って、山間にあるあの廃墟の? あそこは確か……」
「ええ、『翼公(よくこう)』の居城よ。先代の事件があってから新しい公は着任されないまま閉ざされて、廃墟になっているあのお城」
 翼公――神鳥の血を引く特別な一族から選ばれた存在。翼の君とも呼ばれる。
 この世界には人の敷いた国の境とは異なる、魔力領域をもとに画した版図がある。それを治めるのが翼公だ。聖地である神殿島に暮らす神鳥の一族から選ばれた、神の近しい魔力を持つ翼公は、その力でもって魔力を巡らせる役目を負って各国各地に置かれるという。
 だが人の世に介入してはならないという決まりがあり、城を持っていても一国の王のような権限を持たない。神鳥の一族が介入するのは我が身に危険が及んだときなど、理由が必要なのだそうだ。他にも無数の掟があると言われている。
 掟を破った場合、たとえば国王のように振る舞うなどして権力を得た翼公は「堕ちた」と言い表され、どこからともなく同胞がやってきてそれを討ち取るという。そのときその土地の魔力は汚れたり減少したりなどしてしばらく荒み、穏やかな暮らしに適さない状態になるのだとか。
 そしてロジエこそ、百年以上前に当時の翼公と結託した領主家が討ち取られ、王国の一部でありながら神殿島の預かりとなった、堕ちた翼公の土地なのだった。この領域はアルヴァ王国全体を覆っているため、この国は長らく翼公の恩恵を失い、乱れていると宗教家たちは語る。
(翼公の城があって神殿島預かりの土地であることが逃れてきた理由だったけれど……)
 知識以上のものが迫ってきた気がしてコーディリアは少し困惑した。
 翼公がいる、あるいはいたというそれが単なる過去の出来事や知らない国の話ではないというが、なんだがあまり現実味がない。
(城はこちらに来た頃に見に行ったけれど、外観はただの寂れたお城だった。中に入らずとも、長く誰も住んでいないのが見た目でわかるのだから内部の想像はつく)
「村には門番がいたはずだけれど、誰も止めなかったのかしら?」
 グウェンの疑問にコッヘルはますます脱力した。
「街に行商人が来ていたのを見なかったか? どうせ誰も通らんだろうと持ち場を離れて品物を見に行ったらしい。それを聞いたときはまさかと思ったが、嫌な予感が当たっちまった」
「番のできない門番なんて怪物像(ガーゴイル)に劣るね」
 ウルスラが吐き捨てるとコッヘルも「まったくだ」と同意した。捨て鉢のように葡萄酒を一息に煽ると外套を巻き付けながら急いで出て行く。
「早速村に戻って他の連中に知らせてくる。慌ただしくてすまん、葡萄酒をありがとう」
 そうして訪問者がいなくなると、しんと静かな家のなかでウルスラの深いため息が聞こえた。眉間に刻まれた皺を揉み解すような仕草で頭の痛みを和らげようとしている。
「よりにもよって廃城かい。まったく」
「けれど廃城は封印されているはずです。魔法を使えなければ開くことができませんから、中に入れず引き返した可能性もあります」
 翼公の城だけあって魔法による封じが施されていたのを確認している。見に行ったときそれがわかったから無理に中に入らなかったのだ。
 コーディリアの言葉に、グウェンはふと外を見るように視線を遠くに投げた。
「この暗さでは探す人間の方が迷子になるわ。今夜の捜索は早めに打ち切って、明日の早朝から始めることになりそうね。あの子たち、ちゃんと寒さを凌げているかしら。きっとお腹を空かせているわね……」
 可哀想に、と祈るような言葉はまるで己の声だった。
 ならば、コーディリアは動き出す。解きかけた羽織ものをしっかり身に着けている手をウルスラの声が刺した。
「お待ち。何をしようとしているんだい。まさか探しに行くわけじゃなかろうね?」
「そのまさかです、ウルスラ。春といっても夜は極寒です。寒さと心細さに震えているに違いありません」
 大丈夫です、とコーディリアは微笑む。
「廃城まで一飛びして様子を見てきます。そこにいなくても手がかりが残っているかもしれません。そうすれば少しでも早く見つけてあげられる」
「……そうね」と近付いてきたグウェンが手袋に包まれたコーディリアの手を縋るように握った。
「アデルの力があれば、気の毒な子どもたちや不安な大人たちが救われるかもしれない。アデルにしかできないことだわ」
「グウェン。あんたね」
「けれど約束して。何も見つからなければすぐに戻ってくること。封印されているとはいえ翼公の城だもの、何が起こるかまったく想像がつかないわ」
「はい。……すみません、ウルスラ。今夜はひとまず様子を見に行くだけですから」
 ウルスラは睨み目で押さえつけようとしたが、コーディリアが折れないと知ってふんと顔を背けた。
「どんなに帰るのが遅くなっても時間が来ればあたしは寝るからね」
 それを了承と受け取り、外に出る。真冬めいた夜気に身体が震え、エリオたちがこの夜の危険な山を彷徨っているかもしれないと思うと心が痛んだ。
 無事を祈って目を閉じ、魔力を集めた瞳を開く。青い光がコーディリアの木靴を取り巻きささやかな翼をもたらした。



 

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