猫の首に鈴 ねこのくびにすず
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 いつもより視界が広かった。
 朝から午後にかかっていく日差しがまったりと暖かく、空気は少し尖って、目覚めていく一日を感じさせた。仕事は特に立て込んでおらず、官の面々にいつもより遅い速度で動いているようで、皆、今日は暇だと感じている気配だった。城中にある植物も、あちこちに住み着いている犬や猫たちも、静かな一日を満喫している。街の様子は分からなかったが、城が平穏だということはそちらも静かな朝なのだろう。
 訪問の予定があると言われていたため、アンバーシュは執務室で待機していた。急ぎでない仕事を、手慰みのようにゆっくりと進めたり、時折手元に書物を引き寄せてめくったりしていた。予定がなければいちるの部屋に行くこともできたが、人が来ると言われていては離れることもできない。壷の中の黒墨の香りや、久しく開いていなかった書物の革と埃、開いてある窓辺から漂う、風や日向の匂いなどを感じながら、椅子に深くもたれかかって目を閉じた。
 そうして、目を開けると視界が広くなっていた。がさがさ、と近くで物音がしたが誰もいない。すると、すぐ近くで話しているかのように、声がした。
「今日は暇だなあ」
「雨でもないのにめずらしいですよねー。午後から忙しくなったりして」
「平穏に終わる一日ってないよなあ。王宮勤めの身としては仕方ないことだけどさ」
 あれは扉の向こうにいる衛兵の声だ。何故そこまではっきり聞こえるのだろうと首を傾げ、やっと気付いた。
 視点が低い。手足がいつもより短い。胴が長く、すぐにくねる。鼻先に近付けたように大気の匂いが濃く感じられ、鼻の近くの感覚が、びしびしと鋭くなっている。耳はよく聞こえ、驚いたことにそうして意識すると大きく動いた。そうして、下を見て納得した。
 磨いた木の机は、常に磨く者がいるので鏡のようになっている。
 そこに映っていたのは、明るい茶色の毛並みをした、長毛の雄猫だったのだ。
「うーん」と唸った声は猫の唸り声になった。意外に美声だと場違いな感想を思ったのは、特にこの状況に不安を覚えなかったからだ。
 アンバーシュ自身にも覚えがあるが、神々がお互いに悪戯を仕掛けるのはよくあることだ。先頃行き過ぎて処罰が下った事例があったために静まっているものの、それでも誰かがつかの間姿を消した、異界に迷い込んだ、見るものがみんな花に見える、などの長期に影響しない些細な悪戯は行われていた。だから、猫に変身しているのは、誰かがちょっとした悪ふざけを行っているのだと分かっていた。
(効果は一日か二日くらいか。まあ、その程度なら問題ないでしょう。さて、誰の仕業かな)
 机を飛び降り、扉に向かったが、開けることができないのに気付き、猫の顔で苦笑しつつ窓に向かった。手では届かない木の枝は、今の身体ならば身体ごと乗り移ることができる。胴が伸びる感触が心地よく、身体がずいぶん軽かった。けれども小さくとも思ったよりも重量があったらしく、枝をがさりと揺らした。尻尾が、びんとそそり立つ。少しひやりとしながらも、爪を木の表皮にかけながら、枝と幹を下っていく。
 尾を使うと身体が安定することが分かった。髭もあるため、身体に手足がもう二三本増えたような感じがする。身体が小さいのは不便だが、身軽で感覚が鋭いのはなかなか面白い。
 休憩時間を与えられ、アンバーシュが行くところは決まっていた。
 果たして、いちるが、庭に近い場所に椅子を出して座っていた。両手で本を持ち、少し膝を立てて背表紙を支えている。彼女もこの日和を心地よく思ったらしい。庭先で読書をしているのだ。
 建物に巡らせてある花の木と、花壇や鉢を置いてある庭を隔てて眺める彼女は絵のようだった。少し伏せた目、瞼が青白く、瞳がゆっくりと上下しているのが猫の目で捉えることができた。指先は、重い本を支えるために白くなっており、唇は時々読み上げるように暖かな吐息を漏らしていた。薄物の裾が波間や雲、貝殻のような襞を描いて白く輝く。室内は黒く、だから彼女の姿が、清らかな光に縁取られて見える。
 綺麗だな、と素直に感嘆した。そこには可愛がりたいとか閉じ込めたいという欲求はなく、景色をそのまま心に取り込んで生まれでた言葉だった。
 黒髪の異国のひとが、西の様式の宮殿と庭にいる風景。芸術家が飛びつきそうな主題だと思う。いちるは不思議な美貌の持ち主で、西の女性のように何もかもが大きくはないし、一般的には「不思議な」というのが妥当な評価だった。けれど、繊細な筆で描いたような睫毛、縁がほんのりと淡い桃色の目元や流麗な印象の目、花弁を置いた唇、それぞれがさだめられた配置になっているのだ。そうすると全体の印象が、しっとりと濡れた白い花、黒い羽、雪や夜を思わせて、その雰囲気を人は「美しい」と評価する。アンバーシュは彼女を美しいと思う。だからこそ、その唇から放たれる言葉が強烈であることに面食らってしまうのだが。
 だが今は言葉はなく、静寂に満ちている。左右に揺れるサルスベリの花の白が彼女を覗き込もうとしているようだ。
 そこで、おかしいなと思った。
(イチルなら気付くはず……ですよね?)
 近付くものがあるなら彼女はそれを知覚する能力の持ち主だ。猫の姿になっているとしても、気付いていないはずがない。
(イチル)
 呼ぶ声は言葉として発されなかった。にゃーん……と遠くから呼ぶような甘い声になって、庭の花を揺らす。いちるが顔を上げた。目が、険悪に見えるほど細められる。
(あれ?)
 首を傾げた。目を逸らしたのだ。見なかった、という様子で。
(これは、無視されたんじゃなくて、俺だと分からないようになってるのかな。うーん、高度な魔法だな。誰の悪戯だろう)
 だが人間の顔だとしたらアンバーシュはにやにやと笑っていた。
 いちるに近付き放題ではないか!
 鼻歌でも歌い出しそうな勢いで庭を越えていく。柔らかい土と草の感触が心地いい。庭と建物を隔てる縁まで来て、そこからいちるを見上げた。下から見る彼女は、やっぱりとっても綺麗で可愛い。
 わざと、にゃあん、と鳴いてみる。
 しかし、いちるは反応しない。
(……変だな? 気付いてないはずないでしょうに。もしかして、猫が嫌いなのかな)
 結構美猫なはずなのに……と我が身を省みる。
 髪と同じ濃い金の毛で全身が覆われ、下方に向かって長く伸び、顔は小さく、耳は大きく三角に尖っている。尾は同じく長く、まるで箒のように豊かで大きい。恐らく目は薄い青、どちらかというとつり目の派手な顔立ちをしているはず。城内の鼠捕りなどで飼われている猫とは違って、飼い猫の見た目だが、嫌いでなければ好感を抱いてもらえる容姿をしていると自負している。
 だが、いちるは書物の方がいいらしく、見向きもしない。
(本の方がいいんですか?)
 にあん、と問いかけてみると、彼女はようやく目を上げた。だが、本はしっかりと持ったまま、目だけを向けて顔を不機嫌に歪める。もっと大きく反応したのは、室内で動いていた女官たちだった。
「あ、猫」
「え? どこ?」
 ジュゼットが気付き、ネイサが顔をしかめた。こんにちは、と挨拶をすると、いつも迎えられる礼儀正しい顔はされず、ジュゼットは子どものようなきらきら輝く目で近くに来てしゃがみ込み、ネイサは嫌そうに屈みもせずに見下ろした。
「すごく綺麗な猫! どこの猫ちゃんだろう?」
「ジュゼット、しゃがみ込まないで。仕事中」
「えー。猫嫌いなの?」
「好きでもないけど嫌いでもない、ってそんなこと言ってるんじゃないの! 姫殿下の御前でしょう!?」
 はっとジュゼットが居住まいを正す。いちるはそれについて何も言わなかった。本をジュゼットに預け、裾を持って席を立ち、「着替えをする」と言った。レイチェルが現れ「どちらへお出掛けでしょう」と尋ねると、少し歩いてくると言う。
 いちるが隣室へ消えると、ネイサも続いていき、ジュゼットが残って途中の仕事を任された。だが、彼女の意識は猫に向いており、庭先から微笑みかけるアンバーシュに目元を和ませた。結果、そこそこに片付けを終えるとこちらにやってきて、布で足を拭いてくれた。
 そうして下から抱え上げられて、かつてない感触にアンバーシュは硬直した。胴をすくいあげられて宙ぶらりんにされることなど、人間体では有り得ない状況だ。ジュゼットはそのまま女官服の膝の上に抱き上げると「もふもふー」と嬉しそうに言いながら、アンバーシュの背中に顔を埋めた後、あちこちを撫で回し始めた。
(あっ、そこ、う)
「可愛いね君ー。どこの子? いいにおいするねー。うちの子になるー?」
 指先で顎元をこしこしと撫でられると、むずがゆいようなじれったいような感じがした。
(あ……気持ちいい……撫でるの上手ですね、ジュゼット)
 顔を動かすと気持ちのいいところが増えて、身体が弛緩する。揉みほぐされているのに似た感覚で、とても心地いい。眠くなってきそうだ。
(気持ち、いいなあ……うん……とっても……)
「気持ちいい? ふふー。本当に可愛い。可愛い可愛い可愛いぃい」
(いけない……これでは浮気だ……)
 しかし毛を巻き込まれながらぐりぐりとされると、暖かさと柔らかさと心地よさが合わせて感じられて、本当に気持ちがいい。人間の身体ではここまで翻弄されて撫で回されることはない。
(イチルに……こうやって撫でてもらいたいなあ……)
 扉が開く音に顔を上げる。
 白い部屋着だったいちるは、袖のぴったりとした青のドレスに着替えをしていた。胸元と袖に同じレースが施されており、特に胸元を彩る白いそれは肌に吸い付くように繊細なもので美しい。頭に耳から耳へかける飾りをドレスと揃いの飾りをつけると、どこかの令嬢のように可憐だ。
 いちるがちろりと視線を投げた。アンバーシュはびくりとした。
「誰でもいいのか」と言っているようだったのだ。
 ジュゼットの腕の中で身体を起こし、凝視しているのを、ネイサの身体が遮った。防御の体勢で、アンバーシュはむっと抗議した。
(爪を引っかけたりしませんよ!)
「お付きは必要でございますか」
「必要ありません。一人で行きます」
 レイチェルに答えて預けていた本を受け取り、胸の前で両手で抱えると、扉を開くネイサやレイチェル、ジュゼットの「行ってらっしゃいませ」という言葉で送り出される。ジュゼットが立ち上がった拍子に地面に降り立つことのできたアンバーシュは、扉が閉められる前に廊下へと滑りでて、いちるの後ろについた。あーっという、残念そうな声が聞こえたが、扉が閉まると同時に叱りつける声がしたようだった。

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