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 自室のある宮殿から出ると、アンバーシュは、いちるが読書に使っている場所を思い浮かべた。建物の間、庭とも言えない小さな場所の木の下。奥まった北庭の東屋。東翼の図書室。仕事場である結晶宮の誰も使っていない小部屋。
 しかしいちるが向かったのはそのどれでもなく、諸官の中でも身分の低い針子たちのところだった。彼女らを統括する意匠師イルネア・キュネイルは文官の地位を与えられているが、王妃専属とはいえ、針と糸と布を扱う彼女たちは政に関わる者たちに下に見られている。
 いちるはその一室の扉を何の躊躇もなく叩くと、返事が返ってきたのをいいことに開き、内から叫喚を受けた。
「ひ、ひ、ひ」
「イルネアは在室ですか」
「い、今っ、えっと……」
「まあ、姫殿下。主任は現在仮眠中ですが、何の御用でしょう? どうぞ中へ」
 二人目の声は副主任だ。落ち着いた物言いをする、前髪を真っ直ぐに切りそろえた娘だった。
「それには及びません。頼んだ衣装の進捗を聞きにきただけだから。足りぬものがあれば申し付けるように。提案などを聞くつもりでいるから、何かあれば言付けてきなさい」
「ご配慮ありがとうございます。そのように伝えておきます」
 にこりともしない顔でお互いに言い合って、いちるは背を向けた。すると、後ろにいた猫に気付いた二人の娘がおやという顔をする。アンバーシュはなーんと挨拶をして、いちるの後ろを再び歩いていく。
 いちるは衣装部から、城内の北庭をぐるりと巡るようにしはじめた。時折姿を見せるいちるはこの庭を定位置にしている貴族たちには見慣れた姿になりつつあるようで、静かな会釈で見送られる。いちるは目礼だけを返すが、そのいちる基準の愛想の良さはアンバーシュには意外なものだった。こういう交流は、まったく意に介さないと思っていたのに。
 でも、後ろにいる自分に愛想を向けてくれないのはいただけない。
 北庭の奥まった東屋に人気はなく、花を失った紫陽花や、花の萎んだ朝顔の蔓が青々とした葉を揺らしている。道以外の大地は芝に覆われ、東屋の椅子には落ち葉が一枚落ちていた。いちるは白い手でさらさらとそれを払い、腰を下ろす。アンバーシュは、その足下から、彼女が本を開く様子を見守っていたが、机を回ると向かいの椅子から机の上に飛び乗った。
(ん? これは……)
『……男は悲しみすらたたえていた。跪く女の目には同じように悲哀があった。許されざる恋ではない。ごくありふれた、最初から結末を知っている愛だった。しかし、恋が叶う刹那の結びつきは、そのように相手の思いを一度静かな悲しみに浸らせるのであった。……』
 逆転して読みづらいが、これは。
(れ、恋愛小説……?)
 恐る恐るいちるの顔を見ると、書類を読むのと変わらない薄い顔をしている。決して、内容を自分に当てはめて夢想したり、状況を想像して顔をにやつかせたりはしていない。面白いのかすら読み取れない顔だ。もしかして間違った本を選んできたのではないか。
『……「月が満ちるように静かに、あなたへの愛が打ち寄せてくる。どうか声を聞かせてください」囁きになった求めの言葉に、女は一度唇を引き結び覚悟のようなものを見せた。愛とは覚悟だ。幸福を得る覚悟、その代償をいつか支払わねばならない。それが分かるようにこの女は、かつて大いなる愛を失ったことがあるのだった。……』
「わたしが恐ろしくはないのか?」
 台詞のようだった。
 読み上げたかのような言葉に、アンバーシュは顔を上げた。髭と尾がぴんとした。いちるが、真っ直ぐにこちらを見ていた。ゆっくりと力を抜くと、長い尾がゆっくりと波打って動き、机を叩いた。
(どういう意味ですか?)
「動物は、わたしには近付いてこないはずなのだが」
 そこで、やっと思い出した。彼女は以前、動物は自分を遠巻きにしていたと話したことを。
 本能と直感の鋭い生物は、特殊な能力者、異質な存在を見抜き、近付かぬことがある。東島では神の交わりが少なく、中でも高い能力者であったいちるは、生き物に恐れられていたのだ。敵意がなくとも発される雰囲気で、動物を間近にしたことがなかったのだろう。だから、猫が何の怯えもなく近くにいるのは、いちるにとって不可思議な出来事だったのだ。
 いちるは少し首を傾げた。
「神の使い、というわけではなさそうだな……ただの猫に見える。本当に、ただの猫か?」
 疑わしい口ぶりの割に、口元には笑みが浮かんでいる。アンバーシュは喉の奥を震わすようにして、ぐるると鳴いた。いちるはしばらく目を合わせていたが、本の背表紙から手を離し、右手を伸ばしてきた。アンバーシュはじっとして、頬に添えられた彼女のほんの少し冷たい手の平を受け止め、温もりを分けるようにこすりつけた。激しく頭を動かすと、触れるところが増えて嬉しい。無意識に喉を鳴らしているといちるが小さく笑う声がした。
「ずいぶん人なつこいやつだな」
 少しためらっていた手は、求めると己の好きなようにしていいと分かったらしく、遠慮なくアンバーシュの小さな頭を撫で回した。そのうち、両手を伸ばして耳から頬、顎をくすぐる。身体を撫でさすられ、ぐるるると鳴いたら「鳩か」と笑われた。
「お前は変わり者だな。わたしの手がいいのか?」
(あなたの手が、いいんです)
 じっと、撫でられるので目を細めながらいちるを見つめる。いちるは笑っている。穏やかに。楽しそうに。
「お前はあたたかいな。生きているものは皆、あたたかい」
 伸ばした両手がアンバーシュの身体を抱き上げる。ぶら下がった猫を抱き上げると、手元に引き寄せて覗き込む。猫という生き物を、興味深げに観察しているのだ。アンバーシュはごろりと反転して腹を向けた。なーんと鳴くと、いちるが腹を撫でた。嬉しい意味でまた鳴くと、いちるが笑った。鈴を転がすような愛らしい笑い声に、胸があたたかくなる。
 顔を近付けると、鼻先が触れ合った。
 ちゅっちゅっ、と小さくキスを繰り返す。
 いちるが笑った。子どものように。
(猫の姿も、結構いいかも……)
 こんなに笑ってくれるなら猫でもいいかもしれない。いやいや、やっぱり人間の身体でいちるを抱きしめたい。相反する思いに葛藤し、しかし気持ちいい手の動きにうっとりし、頭を起こして腕に身体を擦り寄せる。
 いちるはその身体を抱き上げると、肩の上に乗せた。ずり落ちそうな下半身を華奢な身体の上に載せることは困難だったので、そのまま、支点を腹にしてだらりと下がる。いちるが右手で支えながら立ち上がり、もう一方に本を持って移動を始めた。どこへ行くのだろう。
 肩に見知らぬ猫を乗せたいちるは、今まで以上に珍妙な姿で、行く先々で注目を浴びているのが、後ろを向いているアンバーシュに分かった。首を傾げ不審そうに噂話を始める貴婦人。首を傾げ、まあいいかと納得する侍従。
(ふうん……でもみんな、いちるのことをきちんと受け入れてはいるようですね)
 特に目立った騒ぎの気配もないので上手くやっているらしいとは分かっていた。実際、あるい程度の敬意を払われるくらいには彼女はヴェルタファレンに溶け込んでいる。出来ることなら、地方領主や国外の君主などにも尊重される存在になればいい。そうなれば、大神とて滅多なことでは手を出せぬ存在になる。人に周知され、尊敬を集め、支持を集める者というのは、神に近い崇拝の対象になりうるのだ。例えば人間が後世に聖者に祭り上げられるのはその証とも言える。
 見知った廊下に行き当たって、アンバーシュは首を傾げた。何故こちらに向かっているのだろう。
「イチル姫」
 エルンストの声がした。顔を振り返らせてみると、必死の形相で、だが、猫を見た途端怪訝になった。
「……猫?」
「姫!」
 続いてクロードが姿を見せ「……猫?」と同じことを言った。いちるが、むっと眉間に皺を寄せた。
「あなた方は、わたくしより先に猫へ挨拶をするのか」
「し、失礼しました……申し訳ありません、アンバーシュの姿が見えなくて」
 エルンストが眼鏡を押し上げる。
「いい歳して窓から逃げ出すなど、どこのぼんくらですか」
「ご存知ありませんか? 馬車も使っていないようだから、近くにいると思うのですがなかなか見つけられなくて困っているのです」
 そういえば、猫の姿で窓から外出したため、衛兵に声もかけず姿を消したことになっているのだ。二人が苦い顔をするのは当然だった。特にエルンストは子どもかと吐き捨てそうな勢いだ。
「今日は顔を見ていない。見つけたら戻るよう言っておこう」
 言いながら、いちるは振り向いて下へずり落ちている猫を肩に担ぎ直した。クロードがじいっと視線を注いでいる。神獣の血を引く彼はなんとなくただの猫ではないのが分かるのだろうか。だが、特に変わったことは感じ取れなかったらしくそのことには触れず「どこの猫ですか?」と尋ねた。
「知らない。庭を覗き込んでいた。それからわたくしの後ろをついてくる」
「馴れているようですね。なんだかアンバーシュに似ているように思います。ほら、毛並みや瞳の色が」
 ああ、とその時いちるは納得したような、腑に落ちた溜め息を漏らした。どうなさいましたか、とクロードが尋ねるのに首を振る。
「なんでもありません。アンバーシュを見かけたら声をかけておく」
「よろしくお願いいたします」
「早く戻るよう、厳命をお願いいたします」
 エルンストがむっつりと後を押し、いちるは微笑んだようだった。来た道を引き返すと、アンバーシュの背中を撫でながら、今度は結晶宮に向かっていく。
 ここで最初に遭遇したのはロレリア女史で、彼女は先ほどの二人のような愚は犯さなかった。ごきげんようと柔らかい声で挨拶をし、何かありましたかと尋ねたのだった。
「アンバーシュは来ていますか」
「今日はお姿を拝見しておりません。陛下をお探しでいらっしゃいますか?」
「姿が見えないと言われました。誰か来ているのならこちらに寄っているかと思ったのですが、その様子では訪れもないらしい」
「見てきましょう」とロレリアが歩き出すのに、アンバーシュはいちるの肩を後ろへ飛び降りた。ロレリアの足下をすり抜け、動きを止めた二人にそこで待つように鳴く。後ろから「イチル姫、ロレリア様」と官が姿を見せたのはちょうどよかった。二人の足止めに偶然の助けを得て成功し、アンバーシュは結晶宮の奥の間へ向かう。
 大きく飛びつき、把手を引き、細く開いた室内へ滑り込む。鼻を動かし、見知らぬ者の匂いがすることを確認してその主を探すと、上の方でごろごろと乾いたような笑い声がした。
「よい姿ではないか。アンバーシュ」
 椅子の上に、腹の白い、長毛の黒猫が、まるで肘をかけるようにして枕にもたれかかっていた。
「ケト」
 呼ぶ声はきちんと言葉になっていた。呼ばれた猫は真っ青な目を細め、首をひねるようにして枕に転がると、また人間の声で笑った。
 猫の王。魔法の猫。呼び名は様々あり、猫という生き物の性質から最も近しい神獣として人々の口や伝説や物語に語られる存在。長い名前があるが、今では誰もが親しみを込めて猫王ケトと呼ぶ。神獣といってもそのように語られるものであるから、起源は精霊に近しい。彼の力は神の他に概念という補強がある。強力な神獣だった。
「あなたでしたか。この悪戯は」
「ふふ、私もしばらく退屈していてね。キッサニーナが面白かったと話をしてくれたものだからこちらに寄ってみたのだよ。ただ訪れるだけではつまらぬからと、お前を猫の姿にしてみたのだ。さて、愛する者の本当の姿は見れたかね」
 アンバーシュは髭をそよがせる溜め息をした。
「まあ、いつもと視点が違って興味深かったのは確かでしたが」
「なんだ。よい顔を見たのか。つまらぬ」
 頭を元の位置に戻し、ふうっとケトは大きく息を吐いた。
「恋人の裏の顔を見て険悪になるのが楽しみだというのに……」
「どうしてあなた方古い者はこじれるのがお好きなんですかね。まったく。何かあっても責任を取る気もないくせに」
「分かりきっておろう。面白いからだよ」
 ケトが、長く、高く鳴いた。耳の奥を掻き回されるような地響きに近い声にぐっと堪えた瞬間、目を開いた時、ケトと彼の座っている椅子がずいぶん低い位置になっていた。
 手を動かしてみると、白い皮膚に包まれた五本の長い指が意識に従って拳を作り出す。二本の足で真っ直ぐ立つ感覚につかの間馴れることができず、ふらつく。
「猫もなかなかいいものだと思いましたけど、やっぱり人間の方がいいですね」
 ケトが笑った。
「見下ろされるのが気に食わないが、お前にはその姿が似合いだ。間違ってもお前のようなものを眷属にしたくはない。雌が寄って騒ぎになることが目に見えるようだわ」
「それは褒めてるんですか?」
「好きに取れ」
 扉を叩く音がする。アンバーシュが返事をすると、姿を見せたのはいちるだった。目を見張り、ここにいたのか、と漏らす。
「どうかしましたか」
「エルンストとクロードが探している。……邪魔をしたか?」
 椅子から降り立った猫を見て、いちるはそう尋ねた。この宮殿にいる、紺碧の衣をまとっていない者は、そのほとんどが訪れ人だ。例えそれが優美な猫の姿であっても、崇拝を集める存在でないとは限らない。
 だが、ケトは言葉を発しなかった。にゃあん、と甘えて媚びを売った声で鳴くと、するりとすれ違って行ってしまった。楽しんだので後は好きにしろ、そういうことらしい。
 いちるが首を傾げている。
「客ではなかったのか?」
「イチル。猫、飼いましょうか」
 こちらを向いた目が丸くなり、続けて不審に細められる。
「何の話だ」
「嫌いですか、猫」
「嫌いではないが……向こうが好んで近付いて来ない」
「神獣の血を引く猫なら大丈夫です。俺の馬も別に嫌がっていないでしょう?」
 いちるは少し考えたようだが、ふと、勢いよく顔をあげると、両手を伸ばして顔を包み込んできたものだから「わっ」と仰天してしまった。そのまま、髪を巻き込むようにして上下に、頭の上まで撫でられるので呆然とする。
 これは――猫を撫でているのでは。
 気付かれているはずがないのに同じようにしばらくわしわしと音を立てるほどにそうしていた。やがてアンバーシュの髪が乱れ放題になったのを見て、いちるはひとつ、大きく頷いた。
「猫は今はいい――お前を撫でるので今のところ満足だ」
「お、俺も」と言った声は絡んだ。
「あなたを思いっきり、思いっきり! 撫でたい、です……」
 いちるの大胆な行動に、まるで恥じらうような態度になってしまった。いちるはふんと鼻で笑い、細く開いた扉の向こうへ姿を消してしまう。
 その姿は、人を翻弄する猫のような動きだった。
「…………ケトに」
 擦られた頬を撫で、呟いた。
 いちるを猫にしてもらったら思う存分撫でられるかなあ、と、当人に聞かれれば殴られそうなことを考えるアンバーシュだった。


20131111初出 リクエスト:アンバーシュが1日呪いをかけられ猫になる話

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