日々の眺め 四 ひびのながめ よん
<<  ―    ―  >>

 何を考えているか分からない人物をそのままにしたのは、いちるにとって初めての経験だった。己の立ち位置を相手の配置によって組み立てる己にとって、腹に何を抱えているか分からない人間は危険なものだ。取り込むか、静観するか、利害で結びつくか、様々な手法を用いて陣地を作り上げねば己の望む安らぎの場所は持ち得ないもの。
 例えそれが世話係の女たちであっても、主の命令を一身に受けているというだけではない。ジュゼットは素直すぎる童女のような娘だし、ネイサはよく働き真面目の気らいが強い。その他、世話に増えた娘たちも、髪結いの得意な者、衣装に考えを持つ者、すぐに結婚したいと考えている者など、己の我欲や性格に忠実である。皆、人形などではない。
 しかしその中の頂点に立っている、レイチェルという女についてはさっぱり情報が得られぬのだった。彼女とて人であり、家族があるだろうし、家があろう。白花宮に自室を与えられているはずだが、彼女の人らしい生活を嗅ぎ取れたことがなかった。食事をしているかすら怪しいくらいなのだ。ひっそりそこにいて、しかし存在感を消しているわけではなく、少しのやり取りで微笑むこともよくあった。実務よりは監督、差配を主にしているが、それにしても有能で、かつ慎ましく出しゃばらない。女官の鑑のような女だ。
 それで尋ねてみたのだ。あなたは、何故この仕事を選んだのか。この先どうなりたいと思っているのか。ここでいちるが抱いていたのは、何らかの優遇や措置を施してやっても構わないという親しみに近しい厚意だった。時刻は夜、部屋の始末にジュゼットとネイサは別の部屋で動いており、レイチェルが一人、いちるの髪に固い毛の櫛を当てていた。片手で髪を掬い、丁寧に梳る。いちるが動くと、毛が艶めき、レイチェルの手からさらさらと零れ落ちた。レイチェルは、つかの間いちるを何の感情も窺えない顔で見返していたが、唇を解くようにして微笑んだ。
「何故この仕事を選んだのか、でございますか。それはもちろん、この仕事がしたかったからでございます」
「その理由は」
「ある程度の年齢になったとしても続けられる仕事だからです」
 いちるはその意味を考え、思い切って口にした。
「結婚する気がない?」
「別段必要に迫られておりません。ならば、最も充実した毎日を送るためには仕事が最良のものだと、わたしは考えております」
 仕事を好んでいることは分かった。ならば将来の見通しはどうなのだ。女の安定は結婚だという考えは強く、いちる自身もそれは大きな防御になると感じている。世の気風というものは、なかなか立ち向かいづらいものだ。すると、レイチェルはふわりと微笑むのだった。
「わたしの余生の目標は、台所と居間があるだけの小さな集合住宅に、一匹の猫と暮らすことです。時々、近くの子どもの家庭教師などをして、いわゆる『ただものじゃない婆様』になることなのです」
 その光景を思い浮かべ、いちるは言った。
「あなたは、ひどく無欲なようですね」
 レイチェルはにこりとした。
「これ以上強欲なことはないと思っております」
 すべて見通すのは容易いが、それではまったく面白くない。底知れぬからこそ面白いものもある、彼女はその突出した例であると感じる。平穏を強欲と言い切る深さにも、物怖じしない佇まいにも感心した。彼女は大変面白い。
 いちるは微笑み、席を立った。寝間着用の外套を肩にかけられる。
 彼女の思い描く未来の場所に、寂しさはない。彼女自身が積み重ねてきた時間と関わり合いが織りになって、辺り中を暖かな光で覆っているからだ。王宮に勤めれば出会うものは多かろう。そうした記憶を思い返し、揺り椅子の上でレイチェルは微笑む。気まぐれに、やってきた子どもに世迷い言のような物語をしたりなどをするのだ。そこには恐らく、いちるの物語も含まれる。
「わたくしの物語が、最も壮大なほら話になりそうだ」
 レイチェルは微笑んだ。
「事実に勝る物語はございません。毎日が楽しゅうございます」
 いちるは声を立てて笑った。
(出来ることなら、老婆になっても底知れぬ女であってもらいたいものだ)
 老いたレイチェルは己の友人を招くようにしていちるの訪れを歓迎するだろう。それがやがて周囲の人間に『ただものではない』と広まっていくのだ。それを見届けられるのは快いことだ。
 就寝の挨拶をし、レイチェルは音を立てぬよう寝室へ続く扉を閉めた。


20131113,1115,1118,1120初出 リクエスト:いちるやアンバーシュの日常を女官の3人やクロード視線で

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―