序章
 幾年降る いくとせくだる
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「神よ」切れて血が滲む唇で娘は呟いた。
 ――どうしてこのようにつくられたのだ。

 深い森だ。動物たちも息をひそめるような、羊歯と苔に覆われた、水と湿った土のにおいがする陰に覆われた場所。人里からずいぶん離れており、子どもたちは決して立ち入るなと言われる奥地。今はそこに、大勢の人々が列を成し、手に松明を持って進んでいた。
 男たちは疲労と興奮が混ぜこぜになった荒い呼吸をしている。森の道が悪いというからだけではない。彼らの中心にいる人物に因るものだ。
 彼らが捧げ持っている丸太には、ひとりの娘がくくりつけられていた。すり切れた荒縄で全身を縛り上げられ、履物はなく、殴りつけられた頭部からは血が流れている。髪はざんばらで、ずれた着物の合わせから白い肌が露になっていた。
(なぜ。どうして)
 声なき声で呟き続ける娘を見る村の男は、手足の白さにつと息を細くし、しかしやはり気味悪そうに目を逸らすのだった。
 夕暮れ時、懸命な者なら立ち入ることを考えもしない闇の中、彼らはぎらつく炎を手に、娘の庵へ押し入った。箪笥の引き出しを漁り、行李をひっくり返し、普段から彼らに分けてやっていた薬草や薬石を懐に入れ、丁寧にしまっていた晴れ着までもさらった上で、口々に言った。
「魔性め。村に呪いをかけやがって」
 行列は、ようやく村の広場に到着し、柱が建てられ、娘は張り付けにされた。女たちが憎々しげにこちらを見ている。いくつか知っている顔があった。
(わたしは何もしていない。薬を作り、時々やってくる者の相談に乗ってやっただけ。来者が夫の不貞や他人の秘密を喋るけれど、わたしが聞きたいと言ったわけじゃあない)
 疑心暗鬼に陥った者たちがその不満をぶつけた。そうして庵を襲い、裁きにかけようというのだ。訴えは無駄だろう。口端に嘲りをのせた娘に、怒りの声が噴き出した。小柄な老人が進み出たのをうっそりと見遣ると、誰よりも着物の仕立てがいいので、この村の長だと分かる。
「お前に聞きたいことがある。先日から、この村に病がはやっていることは知っているか?」
「…………」
「胸を圧迫し、呼吸を乱させ、寝込んだりする者も出た。薬は聞かず、寝てもいっこうによくならない。朝、熱が出たかと思うと昼に下がるが、夜や朝にまた上がる。村の者たちは、これをお前の仕業だという」
「…………」
「申し開きしないということは、罪を認めるか?」
「村長、まだある」
 声を上げたのは村長より十歳ほど年下か、というそこそこの歳をした者だ。毎日の畑仕事で肩に肉がつき、背中は少し丸くて、よく日焼けをしている。
「覚えている者もいるはずだ。おれは子どもの頃、あの森の奥深くで迷ったことがある。……誰にも言ったことはなかったが、その時、小さな庵に住む女に帰り道を教えてもらった。もう、三十年近く前の話だ」
 青ざめた顔でこちらを見た。
「あれは十七、八の若い娘だった。けど――その女だ。三十年経ったけど、何も変わっちゃいない。あの時のまま、こいつは年を取っていない!」
 あっと誰かが声をあげた。
「みんな見なよ! あの女の顔を!」
 感情のぶつけどころを抵抗しない獲物に見出せなかった者たちは、娘に拳を振り上げていた。娘が血の混じった唾を吐いたところを更に殴った。そのせいで頬は腫れ上がっていたが、それがみるみるうちに元の白さを取り戻したのだ。
 引きずられてできた手足の汚れや、縛られたままの場所はそのままだが、乾ききった血がこびりついているだけで、娘の容貌は元通りになっている。
 そんな顔をぐっとあげ、娘は村人たちを見下ろした。乱れた黒髪が意志をもったように蠢き、歪んだ唇が、はっと切れ味の鋭い嘲笑を吐き出した。
「――そうさ。覚えている、お前」
 名指しされた男は後じさる。
「雨が降り始めた夜だった。山猪が里に下りてきている時期で、お前はそれを狩るために用意も整えず森に入ったんだったね。雨が降り始めて、暗くて、怖くて、心細くて。そんな時に庵に招いて、汁物をやった後、村に帰る道を教えてやった」
「お前」
 笑う。
 髪が帳となって笑みは隠される。風が止み、娘の顔の周りに夜が影になって落ちる。静けさが胸に吹き込む。
 信心深い年寄りが、数珠を鳴らしながら東神の守護を祈願する。
 東の神の一族は、この世のすべてを司る。流れや動き、形が変わるあらゆるものを治めるものたちだ。尽きることのない命を持ち、ここではないどこかに美しい宮殿や城を建てて暮らしている。そこから大地のあらゆるところにいる巫女たちに呼びかけ、願いを叶えてやったり、あめつちを治めたりする。
(神よ)
 娘は呟く。
 この世に産まれ落ちて、どれだけの月日が経ったのか、もう数えることも忘れてしまった。
(どうして、このようにわたしを)
「火を」
 誰かが言った。その声が波を、紅い波涛を呼び寄せる。
「火をつけろ」
「妖魔を焼き殺すんだ」
「呪いを解くんだ。でなければみんな呪い殺される」
 娘は嘲笑う。
「お前たちのそれは、病じゃあない。お前たちは病になっていると思い込んでいるだけ。思い込みは最も強い病であり、呪い。自分で自分に呪いをかけているたぁ世話はない」
「口を塞げ! 呪いの言葉を口にさせるな!」
 猿ぐつわを噛まされ、頭まで縛り付けられる。身動きがまったく取れないまま、誰かが松明を持って近付いてくるのを見た。
 滅多なことでは身につけることはできない緋袴の女を見て、滝が流れるような冷たさを味わう。
(神よ、それがあなたの意志か)
 神の意志を告げる巫女の女は白い顔をして、娘の足下に積み上げられた藁に火を近づける。この世を創り給いし大地神を焼き、太陽と月の神々が隠れるに至った要因である、死と罪をもたらす熱だ。がつんとした衝撃に、娘は細く目を開く。
 石が転がる音した。まなじりを越えて滴った血が視界を汚す。
 アルカディア、と呟いた。
(海を隔てた、西の国のさらに向こうに、傷つくことも、飢えることも、寒さに震えることもない、あたたかな場所があるという……)
 蒼穹と白雲、緑萌える大地。風の香りも、雲のたなびくさまも、春のにおいがしてとこしえに穏やかな場所。澄んだ水に咲く花は香しく、花を摘む娘らの手は白く、鳥のさえずりと笑う子の声が響く。歌う者には音楽が、踊る者には喜びが、愛する者たちには幸福があり、永久に眠る者には静寂と平和が訪れる……。
 何十年も生きていれば聞きかじることもある噂話だ。ほとんど他国人の行き来がない内地では、多くの人間はその単語すら知らない。自分とて、その言葉が本当に理想郷の意味を持っているのか真偽を確かめる術がない。
(いつ終わるとも知れない命を持ち、東の神々に見捨てられ、ここで本当に潰えるか分からぬけれど、もしわたしが生きる場所があるのなら、それはきっとここではない……)
 暗黒の空に、灰色の煙が立ち上る。ぱちぱちと耳障りな音を立て始め、祈りを呟くうめき声と、怨嗟の声が礫となって額にぶつかった。
 深い闇穴を形作る囲いは、その瞬間、破られた。
 馬の嘶きと怒声が響き、驚いた人々が一気に逃げ去る。現れたのは輝く兜に太刀を佩いた若武者で、男は他の者に指示すると、燃え移り始めていた火の手を消し去った。
「これは、何事だ。何故このように若い娘を火にかける」
 下肢に火傷を負った娘は立ち上がることができずに崩れ落ちた。村長が、弁解にまろびでる。
「恐れながら! この女は村に災厄を呼びました。人を弱らせ、仕事を滞らせ、子どもをさらいました」
(子どもなど知らん)
「それに、それにこの女は、人間ではございません!」
 若武者は鋭く光る目で娘を見、なんと、と言った。
「ではこの娘が、卜師(ぼくし)が見たという者。とこしえの命とその力でもって、我が国に繁栄と勝利をもたらす者か」
 聞き捨てならない言葉に目を上げる。
 何かが起こっている。例えば、自分がひとでないのだと悟ったとき、すぐに逃げ出したように。炎と血のにおいを嗅ぎ取って、都から人里離れた不自由な田舎へ隠れ住んだように。肌に感じ、胸を焼き、視界を白く濁らせる、不安と予感が全身を苛む。
 下馬した武者は、娘の前髪を掴み、引き上げた。う、と呻いた娘に向かって笑ったのだろうか、顔を歪め、告げた。
「命を救われたことを恩に着るがいい、娘。先日、我が国の抱える卜師によって、ひとつの預言がなされた。北の山脈、深い森に妖魔のごとき美しき女が住んでいる。この女は不老であり、人の運命を視ることができる。その力でもってこの国を繁栄させることができるであろう、とな」

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