第一章
 運命来る さだめきたる
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 遠く――風の音に季節の訪れを聞く。
 きしきしと鳴る降雪の音色。袖口から忍び寄る冬の息づかいは、しかし部屋を十分に暖めようとするいくつもの火鉢から爆ぜる火の花によってかき消されてしまう。それでもなお、いちるは外に出たいと思っていた。金糸銀糸の衣を捨て、足袋すら捨てて、裸足で雪原に出て、神々の戦で霧に煙る海へ至る、西へ。そのさきに何があるとも知らずとも。
 いちるは唇を舐めた。
(もう知っているとも。西の果てには妾たちとは違って薄い色の髪や色付きの目をした人間が住んでいて、妾たちとは異なる言葉で話し、ずっともっと軽い衣服や、固くて丈夫な履物を身につけている。国があり、城があり、石で造った家に住み、そこには飢えも寒さもある……)
 革表紙の本を手に取って、同じような本とともに重ねる。積み上げたそれには、紙を綴じただけの東国の本も混ざっており、触れるだけで世界が違うのだということが感じ取れた。薄く丈夫な東国の冊子と、生き物の皮で作ったらしい西国の書物。東の書は虫食いを気にしなければならず、西国のものは手入れをしなければすぐに傷んでしまうのだった。
 室内には他にも巻子本や、折本もあり、西国の絵画や、趣向を凝らして金の糸で縫い取りをした上で宝石をはめ込んだ重い本もある。すべて、五十年、百年とかけて揃えてきた、いちるだけのものだ。
 このように、いちるは書物を食んで暮らしていた。城の姫よりも豪奢な着物を身にまとい、離れを与えられ、腹が膨れるほど白米を口にし、けれど外に出ることは叶わない虜の身なれば、それくらいの贅沢は許される。
 目を閉じる。
(さて、次は何が見える?)
 熱のせいではない目眩に襲われながら、銀色と灰色の渦の中心に飛び込む。耳を澄まし、聞くべき声を拾う。いちるはこれを予兆と呼んでいた。この城に来てから卜師に教えられた、この世の力を読み取る術で、その予兆から予言を紡ぎ上げることができた。
 訪れがある、と織り上がったものは告げた。
 いちるは立ち上がり、鈴を鳴らして侍女を呼ばわった。
「予言がある。城主を呼びやれ」

 すぐに城主が現れた。撫瑚の国の主、鉦貞は三十五歳。五年前に父から国を譲られ、城主となった。いちるはこの男を生まれたときから知っている。小柄なことが悩みで、武力をつけんと鍛錬を積んでいたことも。身体が弱かった母に似ず、むしろ父に似て神経質で偏執的なところがあることも。
「撫瑚の救い主、いちる姫。次はどんな災厄がこの国を襲うのでしょう?」
 びくびくと平伏し、上目遣いになる鉦貞をいちるはとがめない。
「西の隣国、美花の国から使者が来る。美花の使者はさらに西の国からの知らせを携えている。内容は尋ね人。巫女から国へ、美花から撫瑚へ渡って、何者かを探している」
「何者か……とは?」
 渦に耳を澄ます。
 力、支配、争い。海と異なるもの。渦を巻く嵐。
(風が泣き声のようだ。ぶつかり合う神々の力のせいで)
 東と西の境となる遠海で、東の神と西の神は争いを続けている。引き合う暗色の石のように、反発し合い、ぶつかり合い、離れては近付くことを繰り返す。天地を創造した三つの御柱はそのように両神を創った。この戦いのために両の島は深く関わり合うことなく、別の世界のように存在している。時折、気まぐれのように海を渡って品が届き、人間たちは網の目をくぐるようにして海を渡ろうとするものの。
(知らせの元はそこにあるのか?)
 銀の海に近付く、落ちる視界は転じて水平の空と海の境目を見定める。空が光る。こがねとしろがねの火花が、星が落ちるよりもはっきりと尾を引いて散らばり、波間に潰える。
 雲間に何か見える。鳥ではない。
(馬が車を引いている。誰かが乗っている)
 青毛の馬が二頭。力強く空を踏んでいる。人影が右腕を一閃させると、辺りが急に暗くなり、雲が轟いた。鳴り物のごとく幾度も閃く雷の中、いちるの予兆はこの人物に集中しようとする。
 引き寄せられる。絡み付く。手を伸ばした途端に掴まれる危険を察知して距離を取るが、その時、相手の瞳がこちらを見た。
 息が止まった。
 ――天空青。
「ああかでぃあぶる……とは?」
 無粋なほど間抜けに響いた問いかけに我に返る。
 自身の失態をこれに気付かせるわけにはいかない。無意識に発していた口を閉ざし、じっと鉦貞を見据えた。何も言わずとも、相手は泡を食って平伏した。
「来るのは、境の海に由縁する知らせじゃ。使者は疲弊している。休息の用意を整え、重臣たちを集め、巫女を呼べ」
「み、巫女殿をですか? まさか、その知らせはこの国に災いをもたらすのですか!?」
「それは聞けば分かる。お下がり、鉦貞。何かあったら呼んでやる」
 再び鈴を引けば侍女が現れる。背を向けたいちるに、鉦貞はいったいどうすればいいのかと震えていたが、部屋を出た直後、乳兄弟で側仕えの男を大声で呼び始めた。声がだんだん遠くなるのを聞きながら、いちるは己の失態にようやっと唇を噛む。
(予兆に引きずられるなど、何十年ぶりか)
 十年ではない、百年かもしれない。それほどまでに強い力があった。神々の姿は遠くからしか感じたことはないが、踊る風めいた激しい交差で意識を打たれた。その源は、ひとつに収束していた。
 空の色――天空青の瞳の男。
 黄金の糸のような長い髪を遊ばせ、こちらを見て不適に笑った。鷹が翼を広げたような迫力と、獣が駆けるような力強さを感じた、あの男。
 そのせいで予兆の糸が切れてしまったのだ。おかげで完全に予言を与えることができなかった。
 いちるは脇息にもたれかかり、ため息をついた。
(まあ、よい。むかしほど、勤めを果たせなければ痛めつけられるということはなかろう。鉦貞は妾に手出しできるほど度胸ある男でもなし。日を見てまた探ればよい)
 撫瑚の国の城には妖魔が棲む。災厄を予見し、国を動かす女がいる。
 誰にも見とがめられない一人きりの部屋で、いちるはあくびをふかした。
 使者の到着まで半日ほどある。外界のことは鉦貞がやればいい。自分が表に出る必要はなく、それでもあの臆病な城主はいちるを呼ぶだろうが、それまで微睡んでいても支障あるまい。
 日が暮れる前に、侍女が明かりを持ってきた。火鉢をかき混ぜ、膳を運び、退室した。今日の夕食は、白根と人参と茹でた卵を醤油と出汁で煮たものに、大豆の甘煮、汁物には豆腐が浮かび、青菜が添えられている。白飯の付け合わせは塩で漬け込んだ昆布だ。季節柄身体が冷えることを厭ってか、どれもあたたかいものばかりで、一献、清酒も供されている。
 ちびりちびりとやりながら、煮物をつつく。手持ち無沙汰だったので本を引き寄せた。台に載せた双書をゆっくりとめくる。
 とさり、と屋根から雪が落ちた音がした。
 物語が中頃まで差しかかり、ここから怪傑が現れるという段になって、本を閉じた。再び鈴を鳴らし、膳を下げるように言うと、恐れながらと言葉が続く。
「分かっておる。城主殿がお呼びなのであろう。支度を手伝っておくれ」
「かしこまりました」
 袴は緋色に。ともすれば時代遅れになる袿は、紫色に光る黒織りのものにする。微妙に色の異なる黒で織った模様が、動く度にちらちらとした。紅を塗り、扇を持って立ち上がる。
「案内を」
 明かり取りが下方で捧げ持つ灯明に導かれ、座敷へ向かう。いちるの歩みを、城に住まう者たちは足を擦るようにして後じさり、頭を下げる。素早く足を運びながら、その者たちに目を走らせた。誰も彼も、こちらの顔など見ていない。
 ふと、叩頭する男に言った。
「針は畳の二つ目の縁、右隅にある。あの娘の針は巧みゆえ、手放すのが惜しい。疲れているようだから、里下がりと称してしばらく暇をやるがよい。それで手打ちにおし」
「は……はは!」
 男は拳を握り、額をつけたが、いちるは見ていなかった。
 先触れを待たずして大座敷に踏み入る。
「あっ、お待ちを! まだ……」
 廊下ですれ違った者たちと同じく、大臣たちはぎょっと息をのんで目を伏せ、鉦貞に対峙していた美花の使者も、居竦んで凍り付いた。いちるは微笑った。

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