第十章
 夜籠む よるこむ
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 別宮へ向かうことを決めたのは、満月まで残り七日という日だった。一週間以上も図書室に籠り、合間にミザントリの心を読んで外の情報を知り、食事をして眠った後はその繰り返し。薄暗い世界で文字を読むことには慣れつつあったが、これでヴェルタファレンに戻った時、目が弱っていないかが心配だ。
 夜が訪れて月が膨むごとに、土地の力が増してきている。物が見やすくなってくるのだ。合わせて、オルギュットの力も増しているのだろう。
 やはり仕掛けられるのは満月の祭礼の可能性が高い。
 庇護が必要だ、といちるは考えた。オルギュットよりも立場が上の、力ある存在の庇護下に入り、立場を保証されねばならない。アンバーシュに会って、エリアシクルに出てきてもらうつもりでいたが、あの神が頼みを聞いてくれるだろうかと懸念していた。アンバーシュの件で、すでに一度やんわりと拒否されている。結果的に助力を得たが、それでも腰が重いのは確かだ。もういちるは、何も与えることができないのだから。
(アンバーシュに、やってしまったからな)

 外に出るため護送役の者たちを従えながら外に向かっていると、軽快な蹄の音が聞こえた。高いところから「姫!」と呼びかけたのはミザントリだ。大分と走らせていたのだろう、頬が上気し、汗をかいた額に髪が貼り付いている。
「離宮へ? わたくしもおともしますわ」
「なりません。陛下より、千年姫お一人でと申しつかっておりますゆえ」
 居丈高に侍従の男が言う。ミザントリは下馬し、軽く息を吐きながらいちるを窺う。それに向かって首を横にした。逆らっても利点はあまりない。
 軽く手を挙げて、案じるな、と示し、外へ向かう。外と言っても、宮殿内部まで馬車をつけるので、王宮の敷地外へ出ることはない。ミザントリが苦しげに見送っているのが分かるが、慰めは決して口にしない。
 後は、いちるとアンバーシュの目論みが成功することを祈るだけだ。


       *


「お嬢様、お気をつけくださいませね。その馬、きっと神馬ですわ」
 前掛けを渡しながら、女官が言った。
 イバーマ国の人々は、大なり小なり、能力を持っている。最近王宮の住人となった馬に、何か感じるものがあったようだ。
 水をやって、汗を拭い、汚れを落としてやる。ミザントリひとりの仕事だ。女官たちは、少し離れたところで、この大きい生き物を眺めている。作業にあたって汚れてもいいドレスがないのかと尋ねると困ったような顔をされたので、歓迎されていないことは分かっていた。
 髪はひとくくりにし、前掛けをし、裾を上げて帯で留めると、空だった馬房の手入れを始める。己の身勝手で連れてきたのだから、せめて居心地をよくしてやりたかったのだ。
「……あら。わたくしのことは気にしないで、走っていていいのよ」
 馬場へ出した馬が、馬房の入り口に立ち止まって、ミザントリのことを見ている。お行きなさい、と促すと、素直に言うことを聞いた。外の風を受ける自由には勝てなかったのだろう。定められた敷地の中でも、彼が生き生きと目を輝かせて、空気を吸っているのがよく分かった。
 夜の、星の光を含んだ風。不可思議に巨大な樹木から流れる緑の気。ほんの少し乾いた地面に、冷たい温度。
 本来ならミザントリは彼の世界から弾かれるはずだったが、住まいを整えてもらったと考えてくれているのか、近づいても激しく抵抗される様子がない。最初の数日は様子を見ていたようだったが、そのうち、彼から寄ってきたのには驚いた。神馬だというなら、決して人に馴れないはずだったからだ。
 そんな風にして、美しい友を得て、数日が経っていた。
 先ほど、いちるが来てアンバーシュに会いにいくと言っていた。彼女の目も彼を一瞥して、軽く頷いたから、素晴らしい友だというのが見て取れたのだと思うと、誇らしかった。
(動物に好かれると、余計な自信を持ってしまうわね)
 鼻面を掻いてやると、うっとりと彼は目を閉じる。
 名前は、つけなかった。なんとなく「あなた」でいい気がしたのだ。ミザントリがここを去ってしまえば、彼は帰される。どこかへ。本当に戻れるのかは分からない。でももし可能ならば、ヴェルタファレンへ一緒に来てほしいと考えるくらい、ミザントリは彼に親しみを感じていた。
 思う存分、馬場に置いてやる。好き勝手に草を食んだり、動いているのを見るのも楽しかった。何もない大草原を思い浮かべて、そこに一人暮らす自分を想像してみたりもする。
 森へ分け入って季節事の食事や生活に必要なものを集め、冬に向けて食料を作り、嵐の夜には風の音を聞いて眠り、次の日には家や畑の修理に奔走する。実りを失えばひもじくも思うだろう。一人暮らすのならば無頼ものに襲われるかもしれない。それでも、そこには平穏と少しの冒険が秘められている。
(だめね。家を離れているからこんなことを考えてしまうのね。戻ったらお見合いになるでしょうし)
 だが、娘を攫って妃にするというオルギュット王に連れ去られた自分は、本当に結婚できるのだろうかと首を傾げてしまうのだった。ある種の箔がついたことは認めるが、そんなものは容易に剥がれ落ちる。
 しかし、父である侯爵は余計に輿入れを速めようとするだろうという予感があった。適齢期を過ぎてふらふらしているミザントリは、もう一年もすれば、問題があるのではと噂される嫁き遅れ予備軍だ。
 甘い痺れを感じて、溜め息をついた。慣れたと思っていたが、やはり、終わりが近付くにつれて後悔ばかりがある。告げてしまった方がよかったかもしれない。
 あの夜。
 たった、一夜。話しただけだったけれど。
(綺麗になった……って言ってくださったけれど、今の姿を見たら目を丸くされるかしら)
 忍び笑う。
 助けてくれるかとも尋ねたら、もちろんだと言ってくれた。実現されなくとも、回答としては満点だったと思う。
 柵に腕を乗せて、顔を埋めた。結局、痺れが痛みに変わってしまったのだ。
「……でも、わたくしのこれは、きっと憧れね」
 呟いた後ろ頭に、太い息がかかった。見上げると、彼がミザントリを覗き込んでいる。
「ごめんなさい。こんなところに連れてきて。いつか帰してあげられると思うから、しばらく、我慢してちょうだいね」
 雄々しい体つきを見ながら、もし彼が人型を取るならきっと麗しい男性になるのだろうと想像する。楽しくなって、笑った。
「あなたのような美しいひとを、子どもの頃に見たことがあるの……。子どもの頃、わたくしは身体が弱かったせいで、国でもかなり田舎に住んでいたの。外の話はできなかったけれど、お客様が多かったし、本も好きだったから、仲間はずれにされない方法をそうして学んでね。そんな時、そのひとに出会ったの」
 毎日時間が余っていた。昼寝なんてすれば夜に眠くならない。けれど蝋燭がもったいないと知っていたから、大人しく寝台に転がっていた、七歳のミザントリ。イバーマほど明るい星明かりはなかったから、時々、祖母の邸をこっそり歩き回るくらいだった。
 かつて社交界の花だった祖母は、付き合いを控えめにすると植物の花を育てることに執心するようになっていて、表の庭はどの季節も素晴らしい絵画のようだった。昼間見慣れた景色が、時間や空気が変われば違うもののになるのだとミザントリは知った。
 そして、いつものように庭に出てじっとしていると、空を何かが横切ったのだ。
「天馬だったの」
 馬相手にまるで子どもに戻ったようにはしゃいで言った。
 動物に何か混ざりものがある場合は、神々の眷属、または半神半獣だ。空気の清浄なところ、人々が立ち入らぬ聖域に生息する彼らは、人から隔てられた世界に生きている、とミザントリは書物で読んだことがあった。
 次の日も見られるのではないかと張っていると、また来た。ミザントリは腕を大きく上げて手を振ってみた。すると、その馬が大きく迂回したのだ。
 ――どうかしましたか?
 やってきた馬は庭のただ中で、花を散らさぬようそっと翼を畳むと、そう尋ねたのだった。
 思いがけず人の言葉で語りかけられてしまい、ミザントリは部屋へ逃げ帰った。思えば失礼なことをしたものだ。
「逃げてしまったけれど、興味はあったから、次の日は部屋から覗いていたの。すると、やっぱりその夜も彼が来て、窓の側のわたくしに気付いて大きく羽ばたきをしていった。その次の日もそうしてくれた。三日目になって、やっと外に出て謝ったわ。すると不思議そうに[何がでしょう]って言うから、おかしくって。なんて優しいひとなんだろうって感激したわ」
 夜中に笑い転げる子どもに、途方に暮れていた。けれど、どこへ行くとも言わずに、ずっと側にいてくれた。そうして[もうおやすみなさい]と促したのだ。
 ミザントリは改めて気付く。
 ――十年経っても、あの方はわたくしに同じことを言うのね。
「……天馬を見たという噂は、すでに近くの人たちに広がっていて、そこでわたくしは、彼が誰に会いにきていたのかを知ったの」
 村一番の、美しく、気だてのよい娘。
 彼女は足を怪我しており、人々に甲斐甲斐しく世話をされていた。動けなくなったところを、天馬に救われたのだという。他人の親切に頬を染めて申し訳なさそうにしている、十も年上の女性は、瑞々しい羞恥も、伸びやかでしなやかな体つきも、七歳の少女とは己と比べられないほど美しいものだった。
 天馬が会いに行く人。美しく可憐な乙女――わたくしではない。
 けれどある日、訪れは止んだ。娘はいつの間にか村の男と結婚して、ミザントリは夜空を見上げなくなっていた。王都に戻ってきて、結晶宮の美しい輝きに目を見張ったけれど、何度も、祖母の庭に天馬がいる景色を思い返した。
 やがて、訪れる度に思い出の庭のことばかり語る孫に、祖母は、田舎暮らしをさせるのではなかったわね、と諦めたような、憐れむような言葉を漏らして、ミザントリを慈しんでくれた。
「憧れを抱いたまま、大人になってしまったわ。魅力的な貴婦人になってみようと努力もしてみたけれど、なんだか毎日がむなしかった。あの天馬が王の側近だということも知ったけれど、何も変わらなかったわ。あのひとはやっぱり綺麗で、優しくて、わたくしはこの憧れの行き場を探している……」
 ぱっと顔を上げて笑った。
 わしゃわしゃと、逃げようとする馬の顔を撫でる。
「なんて、ね! あなたに言っても仕方のないことだったかしら。でもきっと聞いていてくれたのよね。わたくしの言葉を分かっているのでしょう?」
 息をする、温かい生き物。触れていると、ミザントリは自分が飢えていると気付かされる。安寧を手に入れたいと思っている。寄りかかり、自分をどんな攻撃からも守ってくれる絶対的な存在が欲しい。
「寂しいわ」
 呟いた。不覚にも、込み上げた。
「なんだか、寂しい。わたくしも自由に。……幸せに、なってみたい」
 いちるに再会して気付いたことがある。
 彼女が、まろやかな雰囲気を帯びたこと。触れれば手を傷つけてしまう鉱石が、岩が割れて、真珠玉のような淡くまろい宝石に変わった。微笑みが多くなり、もっと、強くなった。
 変えたのは、アンバーシュだ。
 そういう結びつきに出会えたらいいのに、と年甲斐もなく夢を見てしまった。あの人は罪深い。平凡な自分には決して与えられない物語を紡ぐ。神殿が定める、神話のような激しく美しい、厳しい人生。そこには、乙女が夢見る神と娘の恋と愛がある。
 こんな風に肩を小さくして、何も出来ないと泣いていたら、空からやってくるのだろうか。助けてほしいと繰り返していれば、誰かが救いの手を。けれどミザントリは顔を上げて、涙に濡れた顔を手の甲で軽く拭うと、ごめんなさい、と彼に微笑むのだった。
「わ」
 鼻面を押し付けられたので、抱え込むように撫でてやる。慰めてくれているのだ。本当にいい子だった。
「あなたとどこまでも行けたらいいのに」
 呟いた、時だった。
 音もなく何かが割れるような感覚がした。
 空耳のはず、だった。誰も出てこないし、騒ぎも起きていない。だが、直感のようなものが騒いだ気がしたのだが。
「……どう、したの?」
 急に首をもたげた馬が、激しく耳を動かしている。興奮を抑えられないかのように荒く息をし、前足を動かして周囲を探っている。
(何か、起こっている?)
 手を伸ばしたときだった、馬は向きを変えて、手綱をミザントリに投げるようにして泳がせると、じっとこちらを見つめて何かを訴えている。尋ねたのは直感だった。
「乗れ、ということ?」
 鼻息。ミザントリは柵を蹴ってその背に飛び乗る。
 その瞬間だった。足下で白い風が巻き起こり、渦を巻いて何も見えなくなる。身体が後ろに倒れたので慌てて前に体重をかけ、しがみつく。鐙が、急に吹きさらしの風に泳いでいるような気がして、恐る恐る目を開けて、悲鳴を上げかけた。
「な――これ!?」
 遥か下方には、藍色や紫色に照らされる、イバーマの街の平たい屋根が見える。洗濯物を広げていた各屋上の女たちが、驚いた様子で手を留め、空を見遣って言葉を交わしている。
 鹿毛の馬には翼。だが、単なる鹿毛だと思っていた毛並みは、金色の輝きを零している。瞬きすると二重写しになるそれは、もしかしなくとも目くらましの魔法だろうか。
 空を走っているというに抵抗感はなく、不思議な乗り心地だった、背中はしなるものの、振り落とされる激しさは感じない。だというのに、みるみる地上の景色が変わる。街を抜けて森に向かっていた。ミザントリは、恐る恐る呼びかけた。
「……クロード様?」
 返事はなかった。引きつりながら、間違いであることを祈った。
 しばらくして[……申し訳ありません]と声がした。
[その……全部、聞いて、しまい……]
 ミザントリは顔を伏せた。
「嫌ですわ嫌ですわっ。恥ずかしい! わたくし、飛び降ります!」
[それだけは止めてください! この通り謝りますから!]
 いくら魔法で本当の姿が見えなかったとは言え、本人を前に昔話と心情を吐露してしまっただなんて、そんなひどい辱めがあるだろうか。
 視界が塗りたくったような赤に染まり、指先は今から崩壊するかのようにぶるぶると震えた。もうすぐ心臓が破裂する。
 クロードはミザントリに余計なことを考えさせぬために、早口に事情を語った。
 アンバーシュたちの目的は、まずミザントリの救出だった。ミザントリを庇っていちるが動けないことを案じたのだ。そこで潜入の機会をうかがっていたところ、ミザントリに動物が用意されていると聞き、羽を出現させない馬の姿でのクロードを送り込むことにした。オルギュットが目的を果たす段階になれば、ミザントリは手放して問題がなくなる。その直前に全員が間に合えばいい。いちるには、すでにこの予定は伝わっているという。
[本来ならばもう数日、余裕があったはずなのですが……どうやらすでに読まれていたらしく、イチル姫に何かあったようです。呼び声が聞こえましたから、今頃アンバーシュも動いているでしょう。私たちは、先に脱出してヴェルタファレンに戻ります]
 ミザントリは竦む思いだった。
 また、自分が彼女を危険に晒すのだ。
「わ、たくし……」
 きっぱりとクロードは言った。
[まずは戻りましょう。日の光を当たらねばなりません。光を浴びて、世界が見えるようになれば、きっと、出来ることがあるはずです]

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