<< ―
■ ―
>>
「ヴェルタファレンではあまり見られない光景ですね」
何故かと問うと、恐れられているからだとミザントリは答えた。
今ほど世慣れていなかった頃、王宮の中で一暴れしたようだ。年を重ねている者ほど彼女を遠巻きにし、物を知らない若者たちは興味だけで近付いてしっぺ返しを食らうらしい。中にはうまく付き合っている者もいるようだが、あまりおおっぴらにはしない。その人物も恐れの対象になるからだ。
「やはり、アンバーシュ様もフロゥディジェンマ様も特別な方々ですから。親しくなることによって特権を得たと考える者も出てきます。陛下はその辺りを把握して、人事を図っていらっしゃるようです。ただ、親しくなされる方々が何かしらに秀でていることは確かですね。騎士団などでは運試しのようなものもあるのだとか」
騎士団と聞いて、セイラのことを思い出した。そういえばずいぶん顔を見ていない。
「叙勲式の際、晴れなら普通、曇りならまあまあ、雨ならばそれなりに。大雨ならば大成する。雷が鳴ったならば百年に一度の逸材……とか」
「験を担ぐことによる吉凶占いか。セイラ・バークハードはどうだったのですか」
「虹が出たそうです」
らしい、とにやついた。験担ぎまで捻くれている。あの女らしいことだ。
「女性の騎士団長がいなかったわけではありませんが、それでも、バークハード騎士団長様はお若いし、お綺麗な方だから、特別な感じがしますわ。普段は艶っぽい方ですけれど、同じ騎士に言い寄られたとは聞いたことがありません。実戦ではよほど恐ろしい気迫なのでしょうね」
確かに、セイラはいくつも顔を持っているような気がする。ヴェルタファレンに戻れば、知ってみるのも面白そうな事柄かもしれない。
「戻ったときの楽しみができました」
少し、間があった。
「何か」
「……オルギュット陛下が、また、いらしたと」
ミザントリは両手を握りしめる。
「わたくしは、おそばにいた方がいいのではありません? すぐに遠ざけられるとしても、多少なりとも守りにはなります。だからこそ女は群れるのです。姫は、そういうのはお嫌いだとは知っていますけども」
少し考えた。何故ミザントリがこんなことを言い出すのか。
(……妾の操について案じているのか。オルギュットを相手に、一人だと勝ち目がないとも分かっている)
それほど目に見えて粉をかけられていただろうか、と思い返してみる。
玩具と判じられてだいぶと遊ばれていた。二人並んだ時にオルギュットの眼中にあったのはいちるの方ではあった。やり合う盤上に据えられたのだから、関わりが多くて当然だ。だが彼女は、最初からいちるがオルギュットの目に留まらないかを心配していた。
「それほど、オルギュットはわたくしを目的とする発言をしていましたか?」
指摘されて、ミザントリは物思う顔になった。
「姫を呼ぶためにわたくしが呼ばれたのだと、そう説明を受けました。その他は、何となくの勘です。姫の輝きは強いです。東の方の容姿というだけではなく、立ち姿に力があります。口を開けば更に強くなる。自然と目を惹かれてしまうのです。オルギュット陛下はそこに目を留められるだろうということは分かりました」
個性の強さということか。続けてミザントリは言った。
「わたくしなどがヴェルタファレン貴族の中心にいたのは、誰もが平均的な個性をお持ちだったからでしょうね。騎士団長様も飛び抜けて美しい方でしたが、あの方はどちらかというと王の側に侍る官僚の気配が濃かった。剣を取らなければ、あの方が中心にいらしたはず。ですから、それこそ、ネイゼルヘイシェ夫人のような強烈な人があの狭い王侯貴族の世界を激しく回すのです。だからわたくし、姫がネイゼルヘイシェを参考にした衣装でお出ましになられたと聞いて、立場を譲ろうと考えたのですよ」
「余計なことを」
「はい?」とミザントリが目を瞬かせる。
「おかげで、わたくしの仕事が増えます。面倒な上に手間なので、あなたの手を借りたいのですが?」
彼女は目の奥の光を膨らませて、微笑みを浮かべた。
「お手伝いいたしますわ。お友達ですもの」
「その『お友達』からもう一つ頼みがあります」
はい、と物柔らかく微笑むミザントリ。いちるは彼女に向けて同じく微笑を浮かべながら告げた。彼女の顔が強ばっていくのがはっきりと見えた。
「逃げられると思った時、わたくしのことは一切考えず、己が逃げることだけを考えなさい」
*
(あれは……どういう意味だったのかしら)
周囲に聞こえる声で、裏表のない眼差しをして、言い切った。――自分を見捨てて逃げろと。
まるで、逃げることができないと言ったようなものだった。あれほどの人がそこまで口にするのならば、きっとそうなのだ。
しかし、ミザントリは別のものを見ている。
いちるが逃げられないと言ったのは、ミザントリが目に映すことのできない神霊の類いに関わるものなのだろう。見えないが感じることはできる。ここは清潔で、常に清められている。まるで神殿だ。騒ぎも穢れも一切拒絶する、息が詰まりそうなほど密な場所。
神々の在り方を、ミザントリは神殿から公布される神話書でしか知らない。実際に会ったことがある神はアンバーシュ以外におらず、それは他の貴族たちも同様だった。神の前に出ることができるのは宮廷管理官くらいのものだ。神々も、ヴェルタファレンを訪れた際は結晶宮から出てくることはあまりない。向こうもなるべく接触しないよう振る舞っているようだ。
だが、いちるは違う。ただの人ではないと聞いているが、それにしても彼女は神々の領域に足を踏み込みすぎている。どちらにもなれるし、どちらにもいられない、その曖昧さが彼女自身を危険に晒すのだと思う。
内宮の廊下で足を止める。虎や獅子といった動物の浮き彫りが、廊下に延々と続いている。
(確かに、とても整頓された場所。乱れがあればすぐに見て取れる。そういうところほど、綻びやすい。いつまでも気を張っていられるほど、人は強くないから)
ミザントリは夜の森を知っている。人の手が入らない、大地と緑と風と影の世界は、夜が訪れると、清浄というよりも虚ろに近い。手を入れれば身体ごと飲まれると錯覚するほどだ。
しかしこの国は、夜と言っても廊下に出たとしても辺りが青紫色に照らされているし、部屋には灯りが入る。見てきた街も、魔石を入れた街灯が設置されている。意図して神と人の英知を灯しているのだ。この街は、人の手で容易に崩すことが出来る。すべてをオルギュット王に担っているからだ。
この場所は人の領分だ。
(だからこそ、付け入る隙がある。だって、ここは神々の国じゃない。人の世界。壊れるとしたら、人による行いによってだわ)
先んじて滞在することになった自分には、それなりに話をしてくれる女官たちも出来たし、今では監視はつくが自由に出入りすることができる。親しく笑いかけて挨拶をすれば、一日で打ち解けずとも少しは心が緩む。付け入るとは表現したくないが、知っていると知らないでは世界は変わる。自分は、そういうところを上手くやれる。
合わせた手を握る。
(でも、当の本人に逃げる気がないのでは、やりようがないわ……)
アンバーシュはどう対応したのだろう。彼が様子をうかがっているのは知っている。監視の目を気にしているのかミザントリに連絡を寄越しもしないが、東の神を連れていちるに面会を取り付けたと聞いた。東神は、たいそうな美形なのだそうだという娘たちの叫び声付きで。
(いったい、何を考えているのかしら。わたくしは後回しでいいから、早く姫を……)
「お嬢様。例の商人が、詫びを携えてきたそうですよ。入り口に待たせてあるそうです」
女官が笑顔で呼びかけた。世話をしてくれ、監視も兼ねた娘たちがミザントリに合わせて足を止めた。ミザントリは考えることを止め、にっこりとした。
「本当? ありがとう、早速行ってみます。行って……いいのよね?」
窺うと、娘たちはくすくすと忍び笑いを漏らした。
「いつもそうなさっているじゃありませんか。わたしたちなど気にも留めず」
「恥ずかしいところを見られてばかりの気がするわ。この国の方々のようにお淑やかにしていられなくて、ごめんなさい」
明るく言って、気を引き締める。
(姫がああ言うなら、そうする必要があるのね。今はとにかく、わたくしは普通に、気を配りながら機会をうかがわなくては)
本宮を通り、人の出入りが多い入り口まで来ると、気配は一変する。ミザントリはそれを、早朝の街のようだと思う。人が目的を持って動き、忙しなく働いている場所だ。許可された商人たちは官吏とやり取りをする。面会を求めた者が門のところで待機する。兵士たちが任務を帯びて外へ出て行く。
ミザントリに約束を取り付けていた商人は、品物が品物だったので門の外にいた。女官たちは簡単に外に出ないものだが、監視という名目で少しだけ身なりを整えてついてきていた。
「先日はありがとうございました」
「こちらこそ。皆様にお怪我がなくてよかったですわ。とても大人しい馬だったのに、急にああなるなんて、こちらの王宮はとても不思議なところですね」
暴れ馬騒ぎに、幽霊騒ぎも合わせて思い浮かべると、商人は恐縮し切った様子で頭を掻いた。ミザントリより縦にも横にも幅のある、父親ほどの男が背中を丸めるのは、きっと意図してだろう。商人は演技力がなくてはならない。
「まことに申し訳ありませんでした。お詫びに用意させていただいたものなのですが、本当に偶然、良い物が手に入りまして」
巨大な檻を乗せた荷車が運ばれてくる。ミザントリは思わず一歩踏み出していた。引き寄せられたのだ。
(なんて大きくて、綺麗な……)
「見事でしょう」と商人は声を弾ませた。
「馬がお好きだということでしたので……用意させていただきました。東の国境付近の主ではないかと狩人は言っていましたが、イバーマ宮にいらっしゃる御方にはこのくらいのものでなければ」
きちんと聞いていればこの人は自分が王妃になるものだと勘違いをしていると苦笑いしているところだった。だが、ミザントリは檻の中でじっとしている馬に目を奪われ、息を詰まらせるほどだった。
毛色は一口に言えば鹿毛だ。だがその茶色は、生き物が持つ生気を込めた輝かしいものだったし、鬣や尾は金属で作ったように艶やかだった。顔は小さめだが、脚が太く、逞しい。背はゆったりと波うち、大人しい呼吸に合わせて、けれど強い活力が流れてくる。顔を見れば女性的だが、かなり体力も根性もある強い馬だ。群を率いるものなのだろう。
「……昔見た馬(ひと)を思い出すわ。彼も、とても綺麗で」
子どもの頃、預けられていた地方の館での出来事だ。
それは、手を伸ばそうとして、自分の手が短いと思い知ったときでもあった。自分が幼く、なんの力もない、子どもだということを、まざまざと思い知らされた。あの時から、ミザントリは心のどこかで劣等の思いを抱いたのかもしれない。
――わたくしは、ありふれた、普通の生き方しかできない。
今でいうならば、いちるのように、戦うがごとく生きることはできないのだと。
それは、恋であっても。
脳裏に思い浮かぶ、不思議な色形の目に柔らかく心を縛られながら、ミザントリは微笑んだ。
「わたくしに扱えるかしら……客の身なのに」
不相応なことを頼んだ自覚はあったので、見事な鹿毛を前に気後れする。だが、女官たちはそんな様子を微笑ましげに見守っていた。
「千年姫様にお願いしておけば、オルギュット陛下にも伝わります。お世話は宮中の者がいたしますから、お好きに乗られればいかかですか?」
「馬場もありますしね」
「気になさらずともよいのですよ。お嬢様は少しくらい気晴らしをなさらねば。あの姫様に毎度呼ばれてばかりですもの」
そこまで口を添えてくれる。
転じて、目を見る。彼はとても美しい目をしている。
微笑んでしまう唇を噛む。ここはヴェルタファレンではない。ミザントリの、侯爵令嬢らしからぬ振る舞いを咎める者はいない。正直に言う。自分は今、安らぎと温もりに飢えている。別邸のように逃げ込む場所もないせいで、ひどく疲れていた。
囚われて連れてこられたという彼は哀れだ。けれど、ここを出て行くまでのひとときだけ、物言わず寄り添ってくれるものが欲しかった。
(少しだけ。……居場所になってくれる?)
――あのひとによく似た、あなた。
胸の内で訪ねただけだったというのに、馬は緩やかに瞬きをして、ミザントリを見つめ返していた。
<< ―
■ ―
>>
―
INDEX ―