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 長椅子に寝そべり、だらだらと書物を繰っていると、レグランスが現れた。
「祭礼」といちるは異眸の女が告げた言葉を繰り返す。
 監視役の女どもが正気を疑う顔でレグランスを見ているのに、気付かぬわけではなかろうに。
「はい。千年姫様には、我が国の祭礼にご参加願いたいのです」

 説明によると、一ヶ月に一度、祭日として神殿で祈祷を行うのだという。満月の日までに、都の神殿に供物を捧げ、祭司が集って祈祷を挙げる。先日が朔日。もうすぐ月が満ちる。当日、夕刻の鐘が鳴った直後から祭礼が始まり、国民が神殿に向かって拝礼を始める。

 この国が最も明るくなる日だとレグランスは微笑ましげに語った。だが、何故それにいちるが参加せねばならぬのかが分からない。
「我が王が、お客様をおもてなしするために、ご参列いただきたいと申しております」
 いちるがひどく追及する前に、御璽御名入りの書面が手渡された。西語の、特に東寄りの言葉ならば読み書きもできるが、以南であるイバーマの言葉並びは少し不得手だ。特に公文書に使用される文字並びには親しみがない。正しく完璧に読み取る自信はなかったが、招待する、というようなことを書いているのは分かる。
「公的に返信が必要ですか。『参加しない』と。理由は体調不良」
 予想していたのだろう、レグランスは困った様子で眉根を下げるが、無理に慣れているのか退いたりなどはしなかった。
「千年姫様が、呪詛のために具合が悪いことは聞き及んでおります。ですが、この祭礼は浄化の日でもあります。オルギュット様は明確なことはおっしゃいませんでしたが、千年姫様の呪詛を、封じる術をお考えなのかもしれません」
 レグランスは続けて言った。
「――我が王から千年姫への、求婚の贈り物です」
「ならば余計に受け取るわけにはいきません」
 女の影が膨らんだように見えた。注意深く眼差しを注ぐと、レグランスの両の目から光が消えた。意識的に抑え込んだのだろう。いちるの強情が彼女の感情を逆撫でしたのだ。いちるが知らず、この女が知っている、オルギュットの苦悩や労を思えと言いたいのだろう。
 ふと、引っかかりを覚えた。
(あの男は一ヶ月滞在を命じたのに。祭礼は、約束の一ヶ月後ではない。だが、妾に用があるというのはその日のことなのか?)
 一ヶ月という日付に意味があるのだと思っていた。目くらましで多めの日数を口にしたのだろうか。有り得る、が、月が満ちるごとに行われる祭礼にさほどの意味はないように思われる。それこそ、一年の祓えが行われる年の暮れならば、警戒してしかるべきだろうが。
(それとも、ミザントリの言うように、王妃として迎え入れる女として妾を連れてきたのか。ひと月あれば籠絡できると)
 今更ながらにオルギュットの言葉が重い。大人しくしていれば痛い目を見ることはない。だが、何も知ることができない。やはり真正面から問いただすべきだったのだ。最初のことがことだったため、心身が萎縮してしまっているのを自覚する。
「オルギュットに会わせてもらいたい」
「申し訳ありませんが、お断りするよう申し伝えられております。祭礼の準備、神殿とのやり取りなどで、この半月は多忙でいらっしゃいます。代わりに、アンバーシュ王に一度だけ面会を許可する旨をいただいておりますが」
 先んじて断ってきた。本当に忙殺されているのか怪しいものだった。目の前にアンバーシュとの面会という甘い餌をぶら下げられたのも警戒心を引き上げる。だが、オルギュットから情報を得られぬのならば、アンバーシュの方がこの国の祭礼や王について詳しいだろう。いちるに何をさせたがっているのか、知らなければ対策の取りようがない。ミザントリを逃がすことばかりを考えていて己を二の次にしてしまっていた。このままでは足下をすくわれる。
 いちるはレグランスを見た。静かな眼差しを、直接目に触れないようにわずかに伏せている。
(……ミザントリの方が、聞き出しには適役か)
 最初から親しくしていたようだし、任せることもあるかもしれない。だが今は優先すべき事項がある。
(ミザントリを縛められるわけにはいかぬ。やはり、妾が対決せねばなるまい……)
 いちるは頷き、図書室へ向かった。まずは、その満月の祭礼とやらについて知らねばならない。アンバーシュとの面会という一枚札を切るのはその後だ。


     *


 女が手にした盆の上を、じいっと見つめる無垢な瞳。紅玉もかくや、光を秘めた眼差しは思わず見とれるほど透き通っている。
 薄く切って塩と甘辛いつけ汁で香ばしく焼き上げた鶏肉を挟んだ麺麭。赤茄子と玉葱を分厚い卵でとじたもの。いちるの夕食を持ってきた女は、くりくりと目を動かして後ろをついてくるフロゥディジェンマを、まるで鳥の雛を見るような顔をして見ている。半笑いになって机の上に食事を並べていくのだが、これが他人の食事でなければ食べるかと尋ねているだろう。
 床の上に足の内側がつくように座り、湯気が立ち上る食事に興味を示している。[しゃんぐりら]
 ねだられてしまい、いちるはやれやれと呼びかけた。
[『ください』もしくは『ちょうだい』は?]
 こてんと首を傾けた。
[チョウダイ?]
[半分だけな。妾も空腹なのだよ]
 麺麭と卵をそれぞれ半分に切って取り分けてやってくれと告げると、女の一人がもう一組、同じものを盆に乗せて持ってきた。どうやらフロゥディジェンマが食べ物を求めていることは伝わってしまっていたようだ。
 この国の人間は、昔は手を使って物を食したらしい。今では食器を使うことが一般的だが、ヴェルタファレン宮廷ほど作法にうるさくないようだ。恐らく、その他の儀礼に山ほど束縛があるのだろう。女を奥に囲う習慣は、東島にも西寄りにあるが、ここは現在奥宮に主がいないせいか、何をしても批難こそ向けられど束縛されることはない。
 だが、オルギュットはそこにいちるを据えようと考え始めている。戯れと切り捨てればそれで終わるものではない。いちるの立場も、出自も、不安定なものが多すぎて、力あるものが登場すれば何もかも書き変わるようなものなのだ。
 麺麭を中身ごと千切り、口に運ぶ。フロゥディジェンマは両手で持って大きな口を開けてかぶりつく。見ているうちにあっという間に口に入れてしまった。口の端に屑がついているので布巾で払ってやり、汚れた両手にそれをかけて拭くように言う。次に卵の固まりを見つめていたが、思い出したように匙を手に取って、もたもたと切り崩していく。元の姿に戻れば一呑みだが、一生懸命に人の道具を使っているエマは愛らしい、といちるは思った。
 力を補充する神酒は、安価らしい葡萄酒になっていた。赤葡萄の甘く爽やかな飲み心地は、香ばしく焼いた鶏肉によく合った。
 いちるはゆっくりと物を食べるたちだ。時間が溢れんほどにあったため、そういう習いになっている。調理されたものをそうして咀嚼しても、心を読むことは出来ないが、同じ場所でしばらく同じ人間の作ったものを口に入れ続けていると、何とはなしに調理者の考えが読めるようになってくる。忙しないと味付けは大雑把になるし、調子がいいときは見事な味になる。神経質になっていると、意図が突き刺してくるような加減になったり。イバーマ王宮の料理人は担当が変わるのか、あまり気配を感じない味だ。いちるがまだ文句を付けたことも、褒めたこともないからだろう。
 フロゥディジェンマはすでに飽きてしまい、いちるの葡萄酒を眺めていた。いちるはそっと杯を遠ざける。気付いたフロゥディジェンマは、そこでじっと立っている女たちに近付いていった。一人の女が、下から見上げられ、びくんと棒立ちになる。そうして、ふと気付いたように内側から包みを取り出した。
「あの……これを……」
 薄紙で包んだ、飴か何かのようだ。差し出されたものを受け取り、いじっていたが、包みを剥いて口の中に放り入れた。うっとりと目を閉じて、その甘味を堪能している。
 そうして、今度は別の女に近付いていった。この女は察しがよく、すでに手の中に菓子を手にしていた。
「どうぞ。崩れやすいですから、紙に包んだまま食べてください」
「エマ。『ありがとう』は? それから、物欲しい顔で食べ物をもらうのではない。ちゃんと『ください』と言ってから、いただきなさい」
 こっくりと頷いた少女は目から目を逸らさずに言った。
[アリガトウ]
 そして別の女に、首を傾けた後、両手を差し出した。
[チョウダイ]
 女たちの心が、一人残らず少女神に撃ち落とされた瞬間だった。
 そんな風にして、いちるの食卓を片付けて早々、フロゥディジェンマに餌付けという貢ぎ物を持ってくる女たちが部屋の隅に固まっていた頃、ミザントリがやってきて驚いた顔をし、やがて苦笑した。

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