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 星は冴えていた。雨が降っていないが、空気が澄んでいる。海から谷へ風が抜けていくシーベルという土地は、潮が満ちるとその匂いで密になる。不快なほど濃いわけではなく、ふとした瞬間に感じられる甘く湿った水が、大気に満ちて、空の光をまるで海の底から見上げるような淡い輝きにした。
 窓を閉めた後、帳を下ろして横になった。眷属たちによって整えられているが、慣れない寝台は固く、上質な牢獄のような閉塞感で気を重くさせる。人の気配がしないからなおさらだ。ヴェルタファレンの城は、常に誰かが動き回っている。
 疲れ切った身体に悪夢が下りてこないのは幸いだった。何度か夢に落ち、覚醒することを繰り返して、ますます気分が悪くなりはしたが、アンバーシュの心を占めているのはいちるのことばかりだった。
 あれほど触れたいと思って叶えられたものは、結局容れ物は変わらないという喪失感に変わっていった。知っていたくせに欲しがった。飢えを満たされればそれでいいのか。自分は、いちるの言うように『馬鹿者』だった。
 まだ、彼女が戻ってこないか、あるいは手に入らないかと考えている。
 ――与え奪い合った口づけは、以前と変わらぬ、怯えと、優しさと、甘い熱に満ちていて、目を閉じれば錯覚さえした。自分に口づけを与えているのは、変わらぬ彼女ではないかと。
 指で唇をなぞる。
 口づけが欲しい。彼女の口づけが。
 今頃は眠りの中だろうか。眠れない夜を過ごしているといいなんて、意地悪いことを考えた。自分を思って胸をざわつかせているといい。今の彼女なら顔に出る。それを見ると、薄暗い悦びを感じて、また己を嫌悪した。
(……イチル)
 夢の中に彼女を探す。
 ヴェルタファレンの暁の宮。かつての主を失った部屋は、今の住人の意志を反映して、年若い娘らしいものを排除するように努力しているらしかった。壁にかけられていた絵が変わり、帳の色が変わり。短期間で印象を変えてしまうことにとても驚いた。結果的に妙に審美眼のある小物が増えて、そこに居座っているいちるは女主人の風格だった。
 アンバーシュの訪れに嫌な顔をして、追い返そうとするくせに、自分からどこかへ行くことはなかった。単に他人が部屋にいるのが嫌だったのかもしれない。お茶の一杯を飲む猶予くらいはくれた。一時間に満たず、余計なおしゃべりをして怒りを表されることもしばしばだった。
 部屋にいない時には彼女を捜した。向こうにはその気がないとしても、遊んでいるようで心が弾んだ。
 当たり前の景色が、色と形を変えて広がる。手に取ってみることもできる。思いがけないことを現す時もある。彼女がいる。
 甘い香りが燻る。蜜のように濃いものではない。近付いてようやく感じられる、煙のように彼女を取り巻く、赤い果実を思わせる香り。彼女の肌に染み付いている。
 人の気配を感じる。誰かがこちらを窺っている。
[……イチル?]
 影は少し惑うように動きを止めてから、そっと寝台の脇へ立った。敷布に手を滑らせると、ゆっくりと上に乗る。覗き込むようにしてアンバーシュの頬を撫でた。
 これは夢ではない。ようやく我に返って目をすがめた。いったいどういうつもりなのだと叱るつもりだった。何を考えているのだ。婚約者であって宙に浮いていたヴェルタファレンでのこととは状況が違う。彼女はアンバーシュを受け入れた。きっかけがあれば、同じことを強いない自信がない。
 飢えている。
 時間さえあれば、触れて、抱きしめて、息が出来ないほど腕を回して、髪に口づけて耳に、頬に唇を寄せて、囁いて、止めろと言われても離さないつもりで可愛がって、閉じ込めて、甘やかして、無抵抗になるくらい愛でていたい。
 甘い、香りがする。
 吐息が掠める。抵抗した。緩く。駆け引きだった。彼女がそのつもりならと、いちるの望みに欲求を隠して、美味なところだけを味わおうとしている。ずるく、汚い男がいる。
 近付いてくる。愛する獲物が触れている。アンバーシュの頭には霞がかかっていた。意識の半分がどこかへ放り投げられ、ぎりぎりの縁で爪をかけたまま、今にも落ちていきそうだ。ぐらぐらと視界が揺れ、鈍い頭痛がして目が痛む。
 香りがする。喉が渇いた。最後には悲愴感しか得られないというのに、アンバーシュは触れた手を払いのけられないでいる。


     *


 星を見上げていた顔を戻し、瞼を下ろして熱に耐える。動かねばよかっただろうかと考えている。
 後悔はしない。だが、善き振る舞いではなかった。残ったのは倦怠感と決定的な隔たり。オヌが、彼の知る女ではないから。
(もう思い出すことはないのだろうか)
 記憶を取り戻せば――アンバーシュは、わたしを見るようになるのだろうか……?
 持ち去られたという記憶の感触は、オヌにはない。目が覚めて、突然見知らぬ人間のことをお前なのだと教えられ、今ここに存在するという実感がないまま、お前ではないと瞳で訴える男を想っている。この心の動きこそが記憶の名残なのだろうか。ただあの青い目を見ていると、身体の内側が震えるような心持ちがして落ち着かなくなるのだ。恐らくは、あんな顔を向けられたことがかつてないから。
 卑屈な懇願でない。欲望に任せた欲求もない。高みから見下ろし、オヌが、欲する者と異なってしまったので痛切に悔やんでいる。つまりは後悔。多分、あの男は何かを間違えて、オヌであった女とすれ違った。そのまま女は消えてオヌになった。伸べた手は触れられることなく、掠めて、繋がらなかった。
 この先、どうしようか。呟き、冷えてきたので露台から離れる。室内へ身体を返して、驚いた。
 椅子に男が座っていた。銀髪を零し、肘をついて、背後からオヌを見ていたのだ。
「誰だ!」
[様子を見に来た。どうやら本当に記憶を失っているらしいな。摩耗していない、無垢な娘に戻っている]
 異質なものに対してするように、身構えて叫ぶ。ゆっくりと立ち上がり、こちらへ足を向けると、星明かりの中に姿が浮かび上がる。オヌは訝しんだ。色こそ違えど、男はアンバーシュによく似ていた。
 ただ、穏やかで包み込むような雰囲気は、絡めとり溶かされてしまうと恐れを抱いてしまう威厳と迫力に変わっている。
[アンバーシュと関わる者?]
[オルギュットという。アンバーシュの兄だ。話し方もまるで拙い。無垢な形に戻ったようだ]
 微笑むと、軽く曲げた指先でオヌの頬に触れる。身を引いたのを、また笑った。
[アンバーシュに用事が]
[私が会いにきたのは君だ。ずいぶん、傷ついて見える]
 ぎくりとし、また直接的にそれを指摘するこの男はどんな人物なのか探ろうとした。だが声は、意志でもってオヌの内側を慰めるようにいたわって響いた。案じている、という心が緩やかに伝わってくる。触れる指先にも表れている。
[私とおいで。憩う場所をあげる。アンバーシュは君を振り回し続けるだろう。そして何度となく君は傷つく。純粋で無垢な心は、以前のように君を守ってはくれない。痛めつけられるのは忍びないのだよ]
[何を知っている?]
 拙い言い方で、すり抜けるようにして逃げる。アンバーシュとは違う感覚で、背に冷たいものが這い上がってくる。この男の意識は触れれば包み込まれるようなほど広く、暗い。冷たくて、触れていると心地いい。花の内側に毒を隠したような、官能的な心が触れてくる。
[逃げるの。それでも追うが]
 くすくすと笑うその声が、熱を生んで頬を染めさせる。
[ひどいな。私の贈り物の耳飾りをつけてくれたというのに]
 はっとして耳に手をやった。いつの間にか穴が開いているのには気付いていた。今までなら必要でないものなので気を留めておいたのだが、指摘されたのは初めてだった。
(この男のために開けたのか……?)
 近付いてきた男は、まるで夜の支配者だった。オヌに覆い被さるように、漆黒の衣が風に揺れる葉のような音をたてて耳に残る。紫紺の色をした瞳は薄闇を思わせる。零れる銀の髪が、地上に投げかけられる月と星の光の帯のよう。触れれば指先を傷つけるような美貌の男は、誘うようにオヌの無意識の感覚を掠めていく。
[アンバーシュはどこまで話してくれた?]
[……何も……]
 神々の戦において、戦利品として連れてこられたオヌの保護者となったと言っていた。今となっては真実かどうかも怪しい。そう考えていることを容易に読み取ったらしい。馬鹿にするようにオルギュットは笑い声を上げた。
[君はヴェルタファレンを離れてここに来たのだよ。アンバーシュとの関係に、とても疲れていたから]
[……分からない]
 だがこの男の言葉もまた、信ずるに値するか、分からない。絡めてくる影を振り払いたくて、露台に向かって足を下げた。だが追ってくる。本当に、影のごとき男だ。すぐ近くにあって、離れない。光がある限り、傍らにあるもの。
 風が吹いて、自身の身体が冷えきっていることに気付く。肩を抱いて、手のひらから伝う己の熱に気を保つ。男の言葉は温い水だ。身を横たえれば広がって、心地よく包んでくれる。何もかもを溶かしきって委ねさせるもの。一度囚われれば抜け出すことが困難な毒物のようだ。
[君を迎えにきた]と男は言った。
[永久の平穏を約束する。私の妻になりなさい]
 触れた手を、オヌは打ち払っていた。
 だが直後怯えた目を向けたのは誤りだった。相手に嗜虐心が芽生えたのを見た。同時に脇をすり抜けようと動いた。簡単に囚われる。
「アンバーシュに訊く!」
[逃がさない]
 獣が移動するように、鳥が舞い降りるように、オルギュットが立ちふさがり、たちまち獲物を捕らえる。夕闇のようだと思った瞳は、今は最も強い熱をたたえた炎に変わっていた。
[私のものに]
(アンバーシュ)
 腕が張れないほど引き寄せられ、唇を寄せられて思うのは、決して優しくはない男の名前だった。よく似ている男は、似ているからこそ明らかな違いを思い知らせる。彼は晴れた日の雨と、少し冷えた夜に閃く稲光のような男だった。アンバーシュは、こんな、冷えきったところに凍り付かせるような魔性ではなかった。
 あなたが欲しいという望みを抱いているのはこの男も等しい。自分もオルギュットのような顔をしてアンバーシュに近付いているのかと思うと怖気がした。それでも、一つの名前しか浮かばない。

「アンバーシュ……アンバーシュ、アンバーシュアンバーシュアンバーシュ――!」

 声が響き渡る。音となって。また、自身が意識していなかった限られた者のみしか触れることのできない領域まで。際限を知らなかった、反射のままの声が力を伴って、響く。

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