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しくじった。
思ったのは同時だった。アンバーシュは休む時間になって彼女がまた図書室に来ているとは思わなかったし、彼女もまたこちらが上手に避けていることを知っていた。相手の行動を予測すれば、まず鉢合わせすることはない。どちらも巧みで、食事や、廊下ですれ違うこともなかった。
しかし日が落ちて夕食も終わり、深夜という時刻になって、ようやく気を遣わずに動けるかと思った時に、図書室で遭遇した。やりたいことと、回避すべきだという二つで、アンバーシュも彼女も自身のことを優先してしまった結果だった。
お互いに考えていることが手に取るように分かり、次にどう動くか、また相手がどのように行動するか見極めようとした。瞬間は長く、アンバーシュは扉に手をかけたままでいたが、このまま立ち去ってはあからさますぎるだろうと、短く言葉をかけることにした。
[もう遅いですよ。早くおやすみなさい]
黒々とした瞳は、研磨された魂を失って、若々しく、傷つきやすいそれが見て取れる。脆い光を宿して、いちるはそっと目を伏せた。
調子が狂う。お前はさっさと寝ればいいと、いつもの彼女ならアンバーシュを追いやろうとするのに。言葉が通じないというだけではない。爪先で触れるようなじれったさを感じるのは気のせいだろうか。
感触を追い払うために、アンバーシュは机に近付いていって、本を見下ろす。絵本だった。三柱とアストラスの創世物語。誕生を言祝ぎ、愛を贈る、だから生まれてくる人の魂も言祝がれるものなのだ、という、人々の間、特に家族間で用いられる物語だ。神はあなたを愛している、と繰り返される、簡単な語彙の文章だが、何もかも忘れている彼女には読めるかどうか。
手を伸ばして本を閉じ、棚に戻す。椅子に座ったまま、いちるはじっとそうするのを見ている。
[何、知りたい?]
あやふやな意志が伝わる。彼女自身、どう問いかけていいか分からないからそんな言葉になるのだ。だが言葉よりも明確に、感情が流れ込んでくる。疑問、不安。怯み、手探るような。知りたいという欲求。明確にできない好奇心。興味。疑問。疑問。疑問。
[何を調べているのか、ですか? 昔のことですよ。俺の個人的な調査です。あなたには関係がないことです]
感情の色が変わる。後悔。聞かなければよかったと。怒り。でもぶつける方法が分からずに、怯えている。何故。疑問。
アンバーシュは苛立っていた。こんなに手に取れるほど、彼女の能力は強い。だというのに、欲するものを忘れ去った、脆い心。
[わたしは、分からない。なのに。ない。理不尽]
何も覚えていないのに冷たくされるなんて理不尽だ、その通り、彼女の言うことは正しい。
[分かっています。すみませんでした]
言い切ってしまうと、沈黙が落ちた。いちるは、席を立たない。
ぽつりと、耳に届く声がした。意志と感情が寄せてくる。
[わたしを嫌っているのか?]
がつ、と固い音がしたのは、アンバーシュが彼女の椅子の背もたれを思いきり掴んだからだった。
拳で殴るほどの音が出て、片側を机に、もう片方をアンバーシュの腕に阻まれ、いちるが青ざめた顔で唇を引き結び、何が起こっても耐えようとしている。いっそ哀れなくらい、怖がっている。
かがみ込んでいたアンバーシュは、挙動から目を離せぬ彼女の両の手のひらを掴むと、耳に当てさせながら言った。
[今から、とてもひどいことを言うので、いいと言うまで耳を塞いでいてください]
耳を塞ぎ、手を添えて。
しっかりと聞こえないことを見届けてから、ため息をひとつ。
「――どうして嫌えると思うんですか」
唇の動きを読み取ろうと、いちるの目が動く。だが口の動かし方、発音の仕方が違うのだからまったく分からないはずだ。記憶を失ってから彼女が遭遇した西の者は、アンバーシュ一人なのだ。それをいいことに、まくしたてる。
「どうしてあなたを嫌えるんですか。あなたは記憶をなくしても俺の前からすぐ立ち去ろうとしない。そのことに期待して、いけないと思いながら、俺はとてもじゃないけど余裕がないんです。……お願いだから、そんな、心を掻き乱すようなことを言わないでください」
声が届くほど近くにいるのに、瞳を震わす彼女は違う。
ここにいて、ここにいない彼女に乞う。
「あなたに触れたい」
青白い瞼。花びらのような、湿った唇。言葉を探して、見つからず、途方に暮れた、子どもの顔。
「あなたに触れていたい。あなたがいなくなって、乾いて、ひび割れて、仕方がない」
心が変わるだけで表情はこんなにも異なる。
彼女の一側面だと喜ぶ余地はない。失われてしまったのだというもどかしさがアンバーシュを駆り立てる。
いちるの言葉が聞きたい。彼女の言葉は魂に由来する。
「あなたが何者であろうと、どんなものであろうと、俺の花嫁はあなただけなのに。これ以上失うのが怖くて。どうしようもなく恐ろしくて。この世から消え去るよりもましならそれを選ぶ方がずっと楽で。でも俺は、あなたが間違っていると怒ることを知っていて」
雲の晴れ間から光降る。解かれた雲から名残の雨が地上へ下りて、地上の草の原と川を光の色の薄い幕で包み込む。空は雨上がりの真昼の黄金。風が生命の盛りを伝える香りがしていた。
手を伸べて、微笑むあなた。
――妾を、幸せにしてごらん。少しでも長く。永く……。
あなたの決意の言葉を、蔑ろにする真似をしようとして。
言葉が何も。
浮かばなくて。
どうしてあなたがいないんだろう。こんなことなら、始めなければよかった。
耳を塞ぐ慈悲を与えられて身構えた。どんな暴言をぶつけられるのだろう。今にも首を締めてしまいそうな苦しい顔で、この手に手を添えるアンバーシュ。見上げた、影になった顔、瞳に感情が揺れている。
「――――」
何を言っているのか、見当もつかない。口が素早く動く。早口に、すぐに終わらせてしまわなければと急いでいる。どんな嘲り、悪罵、非難を浴びせられているのか。分からぬことは幸いか。甘んじて受けねばならぬと、されるがまま、意味を解さぬ言の葉を浴びる。
「――――」
一息に言ったかと思えば、一度噤み、再び口を開く。止めようがないらしい。
(憎まれているのか)
恩を忘れた女はさぞかし憎かろう。知るべきことを知らぬ者は腹立たしかろう。時は戻らない。いつでも。過ぎていく中で、残るものはいつも僅か。
しかしそれゆえに、常に強い。
「……?」
アンバーシュの表情が変わった。瞳が水面のように揺れている。真実、彼の目に水の膜が集まっているのだ。熱く、零れそうなほど。憎しみを向けているとは言いがたい、切なる、懇願のような。
「――……」
何故分からぬと、痛切に悔やんだ。
(そんな顔を)
傷ついて、途方に暮れている。
(そんな顔を、するな)
辛いのはわたし。苦しいのはわたしの方だ。胸の内に灼熱が生まれ、嵐のように耳の中で吹き荒れている。押さえつけられた耳朶に触れる、海に似ている轟音。そこに生きて、触れている男の手のひら。かすかに届く、意味の分からぬ言葉、しかしその声を聞き取ろうとする。耳を澄ます。ひたすらに。たった一つをつかみ取るために。
「――――」
分からない。
わからない。
わたしはあなたの何だ。客人か。保護の対象か。厄介者か。預かりもの。お荷物で、面倒な女なのか。
それとも特別な、熱い眼差しと情を持って語りかけられる対象なのか。
言葉を知りたい。声を聞きたい。語りかけてほしい。この胸の内に燻る、火種の原因を教えてほしい。わけも分からず気になってしまう。拒絶されても頭の隅にいて、最低な男だと侮蔑を投げつけたいのに、見ていなければならないと何かが告げる。
その言葉は、雷鳴に似ていた。
「愛しています」
[――だれを?]
あまりにも単純な言葉並びゆえに唇で聞き取ったそれに、反射的に答えを返していた。アンバーシュが絶句し、背後に青白い炎が一瞬にして燃えるのを見た。それは自身の胸に盛るものとよく似ており、オヌは知らぬうちに手を伸ばし、掴み、縋っていた。
それは、わたしではない。
わたしではない、けれど。
燃え移ったものは素早く広がり、飢餓感が激しく相手を欲した。求められたのが己でないと理解しながら、合わさった唇を離さぬよう、アンバーシュの襟元を握って引き寄せる。アンバーシュは、己が発作的に何をしたのか理解した。身を離そうとし、しかし、何かを思いとどまって、静かに目を閉じた。
何も交わせぬ、本能だけの、意味のない口づけ。
いずこかへ去った女が憎らしかった。己であってわたしでない女が、欲してやまなかったものを手に入れて、そのまま消えてしまったのだ。憎しみは余りあって、涙になった。息苦しさで吐息をして、きつく、力を込める。
(欲しい)
両者の間から次第に熱が失せていく。引き止めるべく、追う。薄く目を開くと、冷徹な面持ちのアンバーシュがいた。夢から醒めた後の名残が、引いて、悔恨の凪が訪れる。しかしオヌは後悔しなかった。己の望みを知ったために。
わたしではない、けれど。
(この神が、心から、欲しい)
銀の花を追って、獣はただ駆けていた。
魔性どもは、光を知って這い寄った。
しかし届かない。誰の手にも。そう思われたとき、何者かがそれをつかみ取る。輝きなど意に介さぬように、砂を掴むような荒々しい手つきで、銀の小川からすくいあげる。
それは、どこにでもあり、どの場所にも存在する。誰の心の傍らにもおり、どこのものとも知れぬ闇。
「これで」
声は哄笑する。
「これで、あの方は私のもの!」
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