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 昨夜行った図書室に、アンバーシュの姿はなかった。安堵して、アンバーシュが触れていたのはこの辺りだろうかというものを手に取って、開いてみる。
 細く、蔓草のような文字が横に連なっている。手首にずしりとくる重みは、言葉の重みだろうか。何が書かれているとも知らぬまま、分厚いそれを机に運ぶ。
 後ろに続いていた恵舟が、探るように室内を見回している。
 オヌは机の上に本を置いて、薄茶色に変色した紙をめくっていった。
「お尋ねしたいことが」
 オヌのすることを見ていた恵舟は、静かな声音で問いかけてきた。
「西に留まるおつもりですか」
 彼の視線の先に、開いた本がある。紙面には大振りの文字が、赤や水色や黄色をつけられた花や鳥や扉の絵とともに描かれている。読めもしないのに本を見るとはどういうつもりかということだ。そして、彼には主に変わってオヌを監視する役目がある。
 何と言ったものか、分からぬまま時が過ぎる。オヌが口を開かぬのを知って、恵舟は言葉を重ねた。
「『それが関係があるのか』と、言ったように思えたのですが」
「聞いていたのですか」
 オヌは不快を示し、ため息した。
 レイチェルという女が話して聞かせたアンバーシュの過去とやらに向かって、口に出した答えが恵舟の言うそれだった。
 語り終えた女に向かって一言。
『それが、関係があるのか。わたしに』
 知りたいと頷いておいて勝手だが、真実そう思ったのだから仕方があるまい。レイチェルは表情を失い、ひどく怒った様子で姿を消した。そのことからも、あの女の目論みは、オヌにアンバーシュに大しての不信感を植え付けることだったと分かった。
 過去があったからといって、どうだというのだ。その女との関係が終わったというだけではないのか。
 しかし、語って聞かせる理由があるのならば、また意味合いが異なる。
「確かに、わたしにそれが関係があるのかと申しました。過去に繋がるものがあるのならば知っておきたかったからです。アンバーシュの言動は不可解でした。わたしをよく知っているようだった。そして、あの女が悋気やそれにまつわることで罠を張ったように感じたので」
 ゆえに、訪れようと思ったのだ。二人の関係に何らかの事情があるのならば、二人きりならば話されるのではないかと。結局、あの男は詳細なことを一言も告げずに、言えることは何もないと首を振って、オヌを部屋に返した。得たものは何もなく、曖昧な期待だけが留まった。本来ならば自ら打ち消してしまう、光のような夢の萌芽。
 お前は、わたしの、何だ。
「遠ざけたのは正しかったと。あれは、よくない」
 黙ってかすかな賛辞を受け取った。
 意味もなくめくった頁には薔薇の花、船、翼を広げた鳥が描かれている。見知らぬ文字。何を表しているのか分からぬ絵。
 記憶のないまま、これらが溢れる世界に留まる可能性を思案する。それはいつの間にか、アンバーシュは留まってほしくないと言うだろうかという想像になった。こうなるから、アンバーシュはオヌが決めたことに従うと繰り返すのかもしれない。けれど、そのことが余計にためらいに拍車をかけるとは思わぬのだろうか。
(わたしは、アンバーシュを知るべきだ)
 それで、行動を追おうと思ったのだ。すぐ後をついて回ると巧みに遠ざけられると分かったので、時間を置いて、何をしようとしていたのかを探ろうと考えた。だが、書物が読めぬので結局無駄足になりそうだ。
「……何が書いてあるか見当もつかぬ」
「神話書」
 誰が答えたのか。そう思ってしまったのは、恵舟が回答するとは思わなかったからだ。
「読めるのですか」
「簡単な文面は。私の出身は、東の西部国なので」
 東島の西端国は美花という。時折西島から物や人が流れ着くので、独特の文化を持った国だ。多くはないが西人がいるので言葉を知る者もいる。仙に召し上げられた彼が、西の言葉を知っているということは、俗世で相当な身分の持ち主だったのかもしれない。西人と関わることのできる者は、よほど幸運か、西の人間を食客として招くことができる高貴な者だ。
 神話書と言ったのが本当だとすれば、どういうものなのか。
「西島では、神殿という組織が、神々の行いを公的に喧伝します。それが神話書。身分の高い者は、皆、持っているのだそうです」
 伝説や神話と呼ばれる類いのことが、それぞれまとめられているという。神の数だけあり、その行いが厚みとなっていくのだ。手にしたものは何かと尋ねると、西の大神のものだという。道理で途方もない重さだと思った。
(何故、大神の逸話を読もうと思ったのだろう)
 意味のないことなのか、何か調べたいことがあったのか。すると、めくったところに見覚えがあり、いちるは恵舟に読んでもらえないかと尋ねてみた。彼は嫌がる素振りを見せず、それどころか正しく伝わるかどうかを懸念したのか、探るようにその箇所を朗読した。
「『西神は広く人に溶け込み、気まぐれに人に加護を与えたり呪ったりした。そうして、半神半獣や、半神半人が数多く生まれた。最初の西神アストラスが彼らを統べるようになったので、そのため西の神々は『アストラス』と呼び表すようになった。』……ここで話が変わっています……『アストラスは東の神々アマノミヤと争うようになった。西の大神はその理由を語らなかった。『そうせねばならぬのだ』と言うだけだった。』……以上です」
 東と西が争っているのは知っている。何故かと理由が判明していないのも変わっていない。多くの者が、分たれたのだから相手が気に入らないのだと考えているし、オヌもそうだと思っていた。東の島にいくつも国があるように。争いが途絶えぬように。東の大神と西の大神は、意見の不一致をみて戦っているのだと。
「ありがとうございます。……この部分がよく出てきましたが、この言葉は『神』という意味なのですか」
「そうです」
「では、これは?」
 いくつかの字を覚えれば、内容の見当がつきやすくなるだろう。見たところ、組み合わせや長さが異なるだけで、使用されている文字の数は少なく思える。だが、それこそが最も西の言葉を難解にさせているので、オヌはすぐに記憶力を活発に活動させねばならなくなってしまった。





 恵舟の姿を探していると、図書室から出てきた。彼が単独で本を読むとは考えにくい、つまり中にいちるがいるということだ。アンバーシュは恵舟にそこを離れるように目配せして、声が響かぬ庭の方で、いちるの状況を尋ねた。本を読んでいるという答えだったので顔が険しくなる。昨夜の会話は悪い影響を及ぼしたようだ。
「読めるんですか」
「いいえ。まったく。ですが単語をお尋ねになりました。いくつかお答えして、喉が渇いたのか咳をしていらしたので、水をお持ちしようと」
 そこを引き止めてしまったらしい。恵舟を解放すると、行き場のない焦燥を持て余すことになってしまった。館の中に戻ると、廊下の壁に背を預ける。溜め息しか出なかった。
 いっそ姿が見えなくなればいいのに。
 けれど、すぐ顔を見たくなるのは分かり切っている。
 全部ぶちまけて、戸惑っている間に丸め込む方法を考えなかったわけではない。体格も力もこちらの方が上だ。情に訴えかける手段を取れば、いつかは折れる。
 けれどこの手から失われたいちるという人格が、そんなことをすれば二度と顔を見せるなと憎しみを告げるから。
(……名前まで違っていたのは堪えたな)
 何も持っていないと言った、言葉の本当の意味を知る。いちる、という名は二百年の間に誰かがつけたのだろう。オヌでは恐ろしすぎるから。
 オヌという言葉の意味を呟いていた珠洲流の眉間の皺が物語っていた。
 ――オヌとは、鬼、という意味だ。彼女がどのように生きてきたのかが分かる。
 成熟したものを失ったいちるは、本当にただの娘のようだった。わけのわからない状況で混乱を見せず、じっと周囲を観察しているところはさすがだったが、直感的に与し易そうだったのがアンバーシュだと分かったのか、知ろう、確かめようと近付いてくる。
 世慣れない、純粋な興味と使命感で、こちらを見上げるいちるを見たとき、かつてないほど飢えを感じた。喉が渇き、頭に血が上りそうになった。我を忘れて噛み付けば、食いちぎることができる。振りほどかせる暇もなく。今の、彼女なら。
 簡単に手に入れることができる。
 己の欲望の獣に、かつてないほどの笑みが漏れる。欲しいのだ、あの魂が。手に入れたいのだ、何もかもを。馬鹿らしいほどに欲した永遠というものを、今のいちるなら顕現することができる。
 二百年費やしてあの彼女が手に入るのならそれでもいいと思った。しかしやはりアンバーシュが愛したのは、失われたいちるという名の女だ。こんな男を「神様」と呼んで涙を流し、命の尽きる瞬間まで幸せにしてみろと挑発した、可愛くない、挑戦的で生意気な、これ以上なく美しくて愛おしい。
(イチル)
 これは死なのだろうかと考える。こんなにもまだ、鮮やかに、焦げ付いて、燻っている。彼女がどこにもいないとは思えない。ほんの少し、分たれているだけなのだ。この世界を離れて、暗いところへ放り出されて、今、帰り道を探しているところだ、きっと。
 海と山の気配が満ち、風に掻き乱される場所で、胸を押さえて目を閉じる。
(あなたに、触れたい)

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