<<  ―    ―  >>

 目を閉じる。
 弱い、と言ったエルンストの声が蘇る。
「毒を盛ったが、失敗した。エマ様がいらしたから」
「……牙を?」
「いいや。王を止めて、じっとあの方を見つめていただけだ。それで壊れたと、俺は感じた」

 守らなくてはならないという空気が、周囲の結束を生んでいた。一つのものに好意を抱いて、支え合っていた絆が崩れた時、ヴィヴィアンは孤独だっただろう。大神に認められなかった彼女は、持っていたすべてを失われる気持ちだったのか。唯一であったアンバーシュまで信じられなくなったのかもしれない。
「今思うと、エマ様はこうなることが分かっていたのかもしれない。ヴィヴィアン様は、エマ様を恐れているようだったから」
 あの無垢の固まりならば察知は可能かもしれない。
 セイラは初めて顔を覆った。
「『光輝』の、耳飾りは。エマ様が、隠していたんだそうですわ……」
 何故こうなったのだろう。誰も彼も幸せになりたかっただけだというのに、ほんの少しの人の行いや、神々の意志の介入で、簡単に物事が反転する。起こることが分かっているのならば、生きる意味などないのではないだろうか。どうして。
(どうして、こんな風に、世界があるというのだろう)
 アンバーシュ。あなたは、咎がないと知りながら毒を仰いだ。かつて愛した女の杯を取れなかった代わりに、わたくしの差し出した憎しみという毒を。

 あなたはそこまで、あのひとを愛していたのね。


     *


 暗闇の中で開いている自分の目は、もしかして光っているのではないだろうかと思ったことがある。この世ならざるものの目は、生き物全てに当てはまらない色を宿して光る。その目を見つめると意識が混濁し、思ってもみぬ悪行に手を染めることがある。闇に魅入られる、魔が差すという。
 それらはどこにでも現れる。どれほど隙間を埋めようとも、一本の鍵で閉ざした扉のその鍵を溶かそうとも、入り口を石で塞ごうとも。気付けば、その闇の生き物は傍らにいて、この首に手をかけて嘲笑っている。

 恵舟が持ってきた、麺麭という小麦粉を練って焼いたものと、玉蜀黍と芋の汁物が夕食だった。もの馴れぬ赤子のように汁を匙ですくい、麺麭を手でちぎって口に運んだ。用意すると恵舟は消え、食事が終わる頃に戻ってきた。何がしたいと言わなければ働きかけるつもりがないのだ。だが、考えつくことが何もなかったので、彼は片隅に控えているだけだった。
 この世界を知るべきか否かを考えた。
 知るべきだ、と告げる心と、知らぬ方が平穏だという意識がせめぎ合った。行動しなければ世界はいつまでも目前を緩やかに小川のごとく流れていく。オヌはいつもそこから一歩退いて、それを見ている。
(川の、夢を見た)
 細い銀の糸かと思ったら川だった。こぽりこぽり、さらりさらりと音を立てて流れているのだ。小石も砂も、緑も見当たらず、銀の粉だけが水の音を用いて下方へ行く。流れに光っているものが見えたので気にすると、花がついたままの枝が下っていくのだ。ただそれだけの夢だ。
 解き明かせぬ夢のように、誰に何を聞けばいいかも分からない。他人とさほど接していないオヌには、誰かと言葉を交わし、関わることが億劫に感じられた。知らずとも、かつてのオヌを知る者は口を閉ざしている。積極的に記憶を取り戻したいと考えるのは難しい。望まれていないのではと思うゆえに。
 どうしてこのようにつくられたのか。
 必ずや何かしらの意味があるのだと信じるがゆえの、繰言。
 そうして、目が冴えて眠れない。眠りに落ちかけるも、夢を見かけて、すぐに醒めるのだった。
 結局、寝台を滑り降りて窓を開けた。寝間着は西国のものだ。滑らかな生地は絹だろう。裾が広がるのでもつれぬようにしながら、露台に出る。
 森の向こうは急な斜面になっており、この建物は傾斜した場所に突き刺すように建っている。暗い夜のざわめきと、星々の灯りを見ながら、見知った輝きがないかを探す。しかし、空を見上げることすらずいぶん久しく、あれが北の星だろうというものしか分からなかった。
 二百年経っても、あの星は消えなかったようだ。
 二百年経ったが、オヌには同族が現れなかったらしい。
 二百年経って、今度は西に生贄にされたと分かって笑い出しそうだった。どこまでも人としての扱いを受けぬ。分かっていながら、この夜空の下の平穏と切なさは何だろう。寂しいのだと気付くまでにしばらくかかる。
(わたしは、もしやすべてを忘れたというわけではないのか? 切り離されたという記憶と魂がまだかすかに結びついていて、それが訴えかけているのではないのか。わたしが、)
 考えにするだけなのに、臆病にも言葉を飲み込んでいた。

 わたしが愛された記憶があるのだとしたら、などと、途方もない幻想だった。

 身を翻し、部屋を出る。誰がどこにいるかも知らないが、なんとなくそちらだろうという方向へ。そういう勘は備わっているのだ。青白い光が落ちる床の上を、布の靴で行く。
 静かだった。自然光以外のものがない。だから、その部屋に灯りが入っているのが扉の下部の隙間から見えた。扉の前に立って、はてどう言葉をかけるべきか途方に暮れた。
(名を呼ぶのは、唐突だろう……)
 だが声をかけぬわけにはいくまい。意を決した時だった。向こうから扉が開き、顎を引くオヌの前で、静かな調子でアンバーシュが尋ねる。
[何かありましたか]
[話したい]
 向こうも、少し途方に暮れたらしかった。意思の疎通がままならぬのに話をしたいとは、無謀な振る舞いだった。
[エシュウは……ああそうだ、使いに出したんだった。やっぱりクロードを呼び寄せるべきですかね……]
 オヌは待った。言葉が通じるならば「結局どうなのだ」と詰め寄ることができるのだが、待つことしかできぬのが苛立ちの種になる。オヌが退かぬことを知って、アンバーシュは扉を開いて招いた。
 紙のにおいがした。天井近くまで伸びる棚に、四角い箱状のものがみっしりと詰まっている。その箱は様々な形をしていて、薄いものもあれば、枕のように分厚いものもあった。アンバーシュが一つを取ると、手の中で箱が割れる。薄い紙が綴じてあるのだ。
(書物! そんな高価なものが、ここに収集されているのか)
 オヌが知っている書と言えば、巻子本が主だった。大量の紙を綴じているものは高貴なものでも持っている者は限られている。二百年のうちにこういったものが大量に出回る時代になったのか。それとも西の、高貴な者が独占しているものなのか。こんなところで取り残されているのを認めてしまう。
 西の書物ならば、遥か昔に語り部が語った、アルカディアという名の理想郷のことが分かるかもしれない。流れ着いた西の者から聞いたというその語り部は、飢えることも孤独もない楽園の夢を、街の往来の中、誰にも気に留められず、陰気につま弾いていたものだった。それでも「あるかでぃあ」という言葉の不思議な響きがオヌの中に残り、海を隔てた、西の国のさらに向こうに、傷つくことも、飢えることも、寒さに震えることもない、あたたかな場所があるという幻を植え付けたのだった。
[気に、なりますか]
 アンバーシュが言う。
[飢えているみたいに、真剣に見ているから]
 オヌはかっと頬を染めた。
「馬鹿なことを言うな! わたしは……文字もろくに読めぬ」
 勢いで東言葉で言ったが、すぐに安堵に変わった。恥を明かさずに済んだからだ。ただアンバーシュはオヌがからかうなと怒ったに過ぎないと思っただろう。広い机の上に書物を広げて置き[それで]と声がかかった。
[何を話したいんですか]
[関係。わたしとお前]
 眉間の皺を隠すように指を置いたのを、オヌは見た。
[俺はあなたの保護者で、あなたを高貴な客人として生活の自由を保障していた。それ以外に聞きたいことが?]
[関係を知りたい。個人的な]
 たどたどしい意志が伝わっているか確証もないまま、訴える。アンバーシュの棘はますますひどくなり、オヌは腕を組んでわずかに視線を落とした。
 お互いに椅子にも座らぬままそうしていた。
 ため息がした。
「……調子が狂う。俺はいじめられる方だったはずなんですが」
[何]
 西の言葉は分からない。アンバーシュは、異能を用いて、長く意志を伝えてきた。
[知りたいことを例え知れたとしても、隔たりに苦しむだけだとは思いませんか。正直に言えば、今のあなたと、俺の知るあなたではまったく違う人間に感じられる。俺の目から見ただけの出来事を伝えればあなたは混乱するでしょうし、余計な感情を持てば、あなたはきっと迷うでしょう。あなたは本来、とても優しい人だから]
[やさしい……?]
 優しい。安易という意味でない語感が伝わる。心優しい、思いやり、自己犠牲。初めて聞く表現に、オヌは恐れる。この男は、まったく違う人間のことを語っていないだろうか。
[ほら、迷っている]
 机に手をつき、足を交差させる。気怠い仕草。
[何にせよ、俺はあなたの決めたことに従おうと思います……最初は俺の身勝手でした。今度は、あなたに権利を返すべきでしょう。好きなところへ送ります。生活も保証します。あなたはただ、生きていてくれさえすればいい]
(それは、人形になれということか)
 ふつと沸いた怒りの欠片をぶつける術も十分でなく、オヌは眉を寄せることしかできない。
[知らない。言葉、風習。何も。西よりは東。住みやすい]
[あなたが望むなら、そう手配しましょう]
[それでいいのか]
 己の無意識が口を開いていた。自分の言葉に驚き、慌て、顔を上げたときだった。オヌは、アンバーシュのこれ以上ない笑みにぶつかった。苦笑。諦め。けれど柔らかい、覚悟。
[会いたくなったら、どこへ行っても、会いに行くだけです]
 胸を突き刺す棘が、痛みになってせり上がる。
(そんなつもりは、ないくせに……)
 どうしてこの男のことを忘れてしまったのだろう。長い二百年を手放してしまったのだろう。積み上げた二百年のうち、どれだけの時間、どんなことがわたしたちにあったのか。思っても見ない後悔の高波が打ち寄せ、オヌは己の感情を狂おしいと感じた。
(神よ。この男なのか。この半神が、わたしに下された意味か……?)


       *


 レグランスはそこへ行くことができない。死者の国の門前はこの魂を引いて、あるべき形に戻してしまうからだ。
 死して消えるはずだった魂を、オルギュットの力を込めた装身具で人に留めている身は不安定で、感情を常に善の方へ向けていなければならないという制約を生んでいる。でなければ、魔に堕ちたものたちの共通する意識に引きずられ、悪なる感情に支配される。
 だから、魔の気配がざわめくのが感じ取れる。いちるがイバーマを去ってから、さらに強くなっている。
 魔眸という存在は、どこにでもあって、どこにでもない。この身体は人の形にしてあるために時間と空間を超越できないが、彼らは違う。どこにでも現れ、どこにでも行ける。レグランスが感じるのは、根のようにして自身と闇をつなぐ魔性の部分が聞かせる、異界で起こった嵐のざわめきだった。
 今、レグランスを苛むのは焦りだ。異界で起こった事故の収拾のためにオルギュットがイバーマ王宮へ戻ってこないからだ。しかし異界に飛ぶことができないでいるため、地上に残って、オルギュットが置いている仕事の処理をせねばならなかった。事案は溜まり、滞っているために幾人かの官僚が苛立っているのが分かった。レグランスはただひたすら、影としての範囲で処理を行った。
 襲いかかってくる不安からは目を背け続けた。一度取り憑かれたが最後、自分はそればかりを考え、オルギュットを地上に戻すためだけに行動するだろう。魔眸の行動原理は、己の欲求に正直であることだ。欲望を叶えるために周囲を顧みず、与えられた力を行使する。その結果、人を害し、更に闇に落ち込んでいく。
(けれど、わたしのすべては、あの方のために捧げられるもの……)
 一日、二日と経って、レグランスも、周りの人間も疲れていた頃だった。レグランスが執務室に行くと、机の前にその人が座っていた。レグランスはつかの間呆然とし、無意識に扉を閉ざして内部が見えないようにしていた。
 オルギュットは目を上げずに言った。
「まだ向こうの収拾がついていない。至急書類の処理を終えたら戻る」
 はい、という答えは声になっただろうか。
 顔が熱くなり、高鳴る胸がまだあるなんて知らなかった。大きく深呼吸し、落ち着いた顔色を取り戻すと、オルギュットの側へ向かい、事項の記入を終えた書類を盆の上に載せていく。かなり前に戻ってきていたのか、最初のものはすでに墨が乾いている。
 オルギュットが書面を読んでいる。長くなりそうだったので、厨房から湯を貰ってきた。駆け足で戻ってくると、彼はまだそこにいて、めずらしく険しい顔で考え込んでいる。取り繕う余裕がないのだろう。伏せたままにしていた茶器を返し、お茶を入れる。机の端に滑らせると、間断なく手が伸ばされた。左手に書類、右手の茶器を持ったまま、じっと目を落としている。
 いつもの風景が戻りつつある。彼の表情は厳しいままだけれど。
 隅に控えながら、美しい銀の髪を、妖艶で気怠い瞳を見て、横顔を飽きることなく眺めている。
 しかし「イチルは」と尋ねられたとき、その世界が暗く陰ったように感じられた。
「……イバーマを出られました。行き先は教えていただけませんでしたが、ヴェルタファレンのシーベルに滞在していると調べがついております」
「なるほど。隠したくなるほど目覚めたイチルは危うかったということか」
 含み笑う彼はいつも通りの彼だった。彼女のことを考え、心躍らせているのだ。目を伏せる。傷つく必要はないのに、痛みを覚えてしまう自分が嫌だった。だからオルギュットがそう言うことは想像がついていた。
「向こうの処理を切り上げたら、そのままシーベルに向かう」
 レグランスの答えは決められている。「かしこまりました」と頭を下げるだけだ。その下でちらりと思ったのは、あとどれだけここにいられるかということだった。
(残り時間はきっと少ない……)
 オルギュットは時と運命を司るものでない。時も運命も誰のものにもならない。レグランスは永遠にここに留められることはない。月日を重ねるごとに魔に落ちていく。千年姫の呪いのように。
 死してなお、側に。
 置いていかないと約束したことを、彼は覚えているだろうか……?
「……レグランス。どうした?」
 首を振る。仕事の手を止めて、いたわりの目を向けるオルギュットに申し訳ない気持ちになる。彼はすぐに手を動かし始めたが、呟くように言った。
「私が忙しいからといって、君が沈むことはない。疲れているなら休みなさい。私の前に出てくる時は、元気のいい顔が見たいものだ」
「申し訳ありません」
「怒っていないよ。私が悪いのだから」
「オルギュット様はいつでもお優しくていらっしゃいます」
「君にだけだ」
 レグランスは口元を緩めた。
「でも嘘つきでもいらっしゃる」
 声を立てて笑いながら、レグランスは思う。今この時の幸福を。留められない時の流れの中に、築き上げた関係を。私は何者にもなれないけれど、一番近くにいることが許されるのは、時間が流れ、世界が移ろうがため。だからきっといつか、最後にこの方に贈り物をしよう。甘い言葉と優しさの間を取って「君にだけ」なんて嘘をついてくれるオルギュットに、永遠に覚えてもらえるようなことをしよう。そんな、大それた願い事を、抱いた。

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―