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東の青年神は珠洲流と名乗った。その名を持つのは、東の大神アマノミヤの末子、五人いる兄弟神の最も若い、水の神だ。直接触れたことはないまでも名は知っていた。川の側に祠がある地域もある。格下の者を使わさず、何故ここにお出ましになられたのか。困惑が顔に出たのか、珠洲流神は着席を命じる。
「ここは西島。我が東の恩恵なき、西国のイバーマ。治むるは銀夜王と呼ばれる半神のオルギュット王。アンバーシュの兄だ。そのオルギュットが、お前の記憶を削ったのだ」
「何の目的ででしょうか」
「……お前の魂の一部を用いた術の利用のためだ。ところで、どこまで覚えている? 西島に来た理由も分からぬか」
オヌは語った。人里離れた森の奥に庵を構えていたこと。近くの村人に時々薬を分けてやったり相談を受けたりしていたこと。だが、村の者たちが襲いかかり、庵を引き出され、妖女として刑を受ける寸前だっただろうこと。
聞いた珠洲流は、正確なところは分からぬが、と前置きをした。
「二百年間、お前は撫瑚という国に住まい、異能を用いて国主に手を貸し、その地を栄えさせた。戦を回避し、あるいは上手く操り、方々の国を相手取って撫瑚を勝利に導き続けていた」
「二百年。わたしが」
それだけ生きたのかという恐れと、まだ生きるのかという薄ら寒いものの方が先に立つ。
「撫瑚に妖女が棲むと言われ……人でなく神でもなく生き続けていることから、西にも『千年姫』と呼び声高かった」
「そうして何故、西に来ることになったのですか」
異能を得た撫瑚国の国主が、自分を手放すとは思えない。すると、頭の中に答えが響いた。
[西と東の、境の海での争いで俺たちアストラスが勝利し、あなたを貰うと宣言したんです。戦利品の一つとして]
オヌは目を見開き、顔を険しくする。アンバーシュはこちらを見ない。興味を抱いていないのか。すると、やはり、この身は単なる道具としてしか扱われなかったのだ。
不快そうに珠洲流が目を細めて、言葉を続ける。
「西島で、お前を保護下に置いたのはアンバーシュだ。アンバーシュは、半神のヴェルタファレン国主」
(思い出した。雷霆王。わたしが知っているのは、若く苛烈だという雷霆王だが……)
西神の先陣を切って戦う、雷神がいる。そう聞いたことがあった。彼が荒ぶる日は、境の海での戦いであっても、内陸ではひどく天候が荒れるのだ。彼に対抗すべく、風や雲の神々が離れてしまうためであると言われていた。
けれど、窓辺に立つ男は静かに、珠洲流とオヌの話を聞いている。横顔は疲労が濃く、時々苦しげに眉を寄せていた。腕を組んでいるところは不機嫌らしく見える。記憶を失ったがゆえに、オヌは雷霆王の不興を買ったのだ。
「戦利品ということは」
オヌは尋ねる。
「わたしは、雷霆王の側室になったということですか」
珠洲流はアンバーシュに答えを求めた。ここに来て初めて、彼はオヌを見た。
[違います]
だが、次の瞬間、オヌの心臓に衝撃が走った。拳を握るような、歯を食いしばるような、そんな強さで内側が締め付けられる。つかの間息ができなくなり、驚く。何故、その短いいらえで苦しんでいるのだろう。
[保護下に置きましたが、そういう意味ではありません。西神が、特別な存在であるあなたを欲したためです。あなたは客人として、あるいは住人として、ヴェルタファレンに滞在していました。そうして、どうやらアストラスは目的を果たしつつあるらしい]
珠洲流に呼びかけたアンバーシュは言った。
[こうなった以上、こちらに引き止める理由もさほどありません。彼女が望むのならば、東に帰してもいいと思います]
「お前の考えていることは理解しがたい」
かすかに珠洲流が呟いた。
「ということだ。オヌ、お前が決めるがいい。答えは急がぬ。そのうち、お前の記憶を持ち去った者どもが動きを見せるだろう。それからでも私は構わない」
[エシュウをつけてください。しばらく彼が通訳に欲しい]
「分かった」
勝手に話が進んでいる。放り出され、オヌは途方に暮れた。何の覚悟も出来ぬまま、西で過ごしてみろと言われても、状況がまったく分からぬのだから当然だった。
(記憶を、取り戻さねば)
このままでいいはずがない。己が取り残されたまま、世界が移ろうのはさだめだと知っていたが、オヌは顔を上げ、決してこちらを見ぬ雷霆王を見つめた。この男を見ていると、何かが騒ぐのだった。そうして、それを確信に変えるかのように、アンバーシュは必要以上にこちらを見ないのだ。
*
「お前」
ナゼロフォビナが待っていた。声の調子を変えないのは、彼がひどく怒っている証拠だった。
「馬鹿か」
「言われると思いました」
はは、と明るくアンバーシュは笑ったが、どこか気の抜けたものにも聞こえた。予想以上に参っている自分がいて、大きく息を吐いた。顔に出さないようにするのは難しい。いちるの険しい顔、あれはいつも表情を隠すためのものだったのだと知る。
「嫁は?」
「スズルとエシュウと、状況の擦り合わせを。まったく知らない土地にいきなり出現しているんですから、戸惑うのも当然ですよね。意外としっかりしていましたが、しばらく苦労しそうです。イバーマを出るべきだと思っていたんですが、ヴェルタファレンに戻っても彼女を知る人間に混乱をもたらすでしょうし、どこか別の住処に移ろうかと思います」
「お前のこと、本当に何も覚えてねえのか」
抉るようなことを言う。ふっと笑って頷いた。
「彼女が真実血を吐く苦しみで得たすべても失われました。今の彼女は、神殿にいる巫女と同程度の能力者です。己の意志を伝えることもままならない」
「それで手放すのか。今更」
ナゼロフォビナは責めることを言うが、アンバーシュは知ってしまったのだ。
「……彼女の呪詛が、消えたそうです」
彼女に留まる理由がない最たるそれを。
「呪いが刻まれていた部分を……切り取ったことになってしまったらしい。今の彼女は、一般人ほどの能力者ですが、絶対に死ぬことはない存在に戻りました」
今更ではない。
今、だからこそ。
(その運命を持つ者ではないと、いつかあなたは言った)
千年姫の予言。虚勢ではなく真実の言霊であったのだとしたら。
「それでいいのか」とナゼロフォビナは言う。
「お前はそれで、本当にいいのか。記憶がないからイチルじゃねえって、手を離して後悔しないのか。もしあいつが忘れているふりをしていたとしたら、お前に怒り狂うとは思わねえのか。どんな顔をするか想像するだろう? お前はあいつの何を、」
「だったらどうしろって言うんです」
ばん! と音を立てて炎が消えた。怯えて、息を殺すように。アンバーシュがわずかに呼吸を収めると、再び灯り始める。だが、どこからか風が生まれて、不安定に揺れる。
「愛しているとしか言えない。彼女の何が好きで、何に惹かれたかなんて覚えていない。側に置けるなら永遠がいい。でも、それが出来ないのなら、手を離して忘れた方がましなんじゃないかと思う」
額を押さえ、苛立って、髪を掻き上げる。握りつぶし、頬を震わせて、吐くように言わねば、抑えることが出来なかった。
「最後に失うことを知っていて側にいるのか、失われることがないと安心して遠ざかるべきなのか。どちらが幸せなんて俺たちには分からない。ただ俺は、もう」
わなないた言葉はだだをこねる子どものよう。
「彼女以外はいらないのに、彼女はいつも俺の手を掠めるようにして」
意地が悪いことをして振り回したこともあった。信じているふりをして、様子をうかがった。声を張り上げて、いがみ合ったこともある。そうして、重なったと思って、幸福だった。心が合わさったから平穏が訪れた。呪詛なんて目もくれず、ただ来てくれた。手を。
――わたしの神様。
手を。
取ってくれて。
「俺に、この愛に苦しめという」
そこに生まれたものは、朽ちるのか。
自分たちの手によって、果てるのか。
因果を取り巻いて永劫に続くのか。
それとも他の道があるのか。苦しくて、息が出来なくて、アンバーシュはもう分からないでいる。
顔を覆って立ち尽くすアンバーシュに近付き、ナゼロフォビナは頭を抱えてくる。肩を借りながら、アンバーシュは己に落ち着くように言い聞かせた。こんな顔を見せられない。でなければ、彼女が選べなくなる。本来情の深い彼女が、年月を経て重ねた虚勢を失った魂のままこの姿を見れば、何かあったのだと察して近付いてくる。
そうなった時、自制を保てる自信がない。
壊してしまうのか、欲してしまうのか、どちらなのかも見定められなくなっている。
「味方を」血を吐くようなざらついた声で絞り出す。
「味方を、見極めなければ……」
誰が何を知り、どんな思惑を持っていちるを監視しているか。そう、皆、いちるのことを観察していたのだ。彼女が何を知り、何を成すか。そうして、周囲をも見定めようとしていたのだろう。誰が真っ先に動き、彼女に手を出すか。
今のところ、新たな手が出てくる様子はない。静観しているのだ。神々にありそうなことだった。時を十分に有している彼らは、あまり焦ることがない。大神が動き出したのならば、無闇に手を出すよりかは流れに身を任せた方が『楽』であり『長く楽しめる』。
誰でも味方でないし、誰も敵でない。
頼る者もいない。アンバーシュは、この友人の肩もまた、いつか去ってしまうのだろうということを、痛いほどに感じていた。
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