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空を飛ぶ魔法の馬車の乗り心地は、奇妙というしかなかった。強い風に吹かれるかと思いきや、髪が後ろに行くだけで、息ができぬというほどではない。凍えることもない。ただ少し寒く、日差しが眩しいだけだ。
永遠の夜の国は背後に遠ざかりつつあった。境界の空は、朝を迎える薄紫色をしている。春の花を思った。西にも、東と同じように慎ましく咲く野の花があるのだろうか。この土地はなんだか華美で華麗が賞賛されるもののようだから。
隣のアンバーシュは、元々口数が多くないのか、ひたすらに正面を向いている。今は手綱を取っているので、運転に集中してくれるのはありがたいが、どうにも気詰まりだった。これから、ヴェルタファレンの西端、シーベルという地方の館に行くのだと言って、そこから会話がない。
また環境が変わるのかと思いはしたが、何も分からぬ状態だったのでどこに行ったとしても同じことだ。何せ、食器の使い方さえ覚束ない。珠洲流がいたおかげで箸が用意されていたが、それにしても、失った二百年、そして西国で過ごしたという数ヶ月はすさまじい環境の変わり様だ。
面倒を見たというアンバーシュは、再び食客が何も知らぬ赤子同然になったせいで、不機嫌なのかもしれない。よほど手間をかけさせたようだ。
それから、と前髪をあげる風を意識する。
(髪を切るほどのことがあったのか)
女の髪は普通、長いものだ。短くするのは、そういう宗派だったり元罪人だったり、何らかの見せしめに落とされたという場合もある。この髪を見ても特に誰もおかしな顔をしなかったが、気になる。尋ねていいものか。しかし、念話という能力もろくに扱えないので、その方法にまた悩む。
地上の景色は変化し、緑が鬱蒼としていたのが、明るい草色が広がるようになっていた。川が流れ、小高い丘の起伏が続き、街道が枝分かれして伸びていく。空の雲に隠れるほど巨大な山が見える。大神が住む神山だ。太陽にも風にも夏の香を感じ、息を吸う。知らずに目を細め、明るい地平を眺める。
アンバーシュの髪がたっぷりと輝きを含み、黄金色になびく。青の瞳は、光を集めて銀のようだ。
ふと、伝えてみようという気になった。この景色。色彩。
感情を交えず、言葉だけを固めて、渡す。一連の流れを意識する。
[うつくしい。景色]
明け初めた空の光のようなアンバーシュの目が向いた時、成功した、と心が弾んだ。
しかし、微笑みを浮かべたオヌの顔に、彼は応答以上の微笑みは返さなかった。あやすように目元を和ませると、一言もなく前を向く。
(……なんだ)
つまらん、と、もうそれ以上構うことは止めた。
シーベルという名の土地は、海が見える近く、谷間にあるらしかった。降下した馬車は夏の森に覆われた山間を縫っていき、やがて、畑が切り開かれた小さな村が見える高いところに下りる。
山の中腹に突き出るようにして建てられた、見たこともない様式の家があった。屋根は青く、柱は溝をつけてあり、硝子のはめられた窓がいくつもある。
到着してすぐ、珠洲流と恵舟も到着した。別の手段で来ると言っていたが、神々しか使えぬ道があると聞いたことがあるから、それを用いたのだろう。数秒と経たず姿を現し、オヌに続いて足を踏み入れる。
二階へ続く階段が正面にあり、その脇に奥へ続く廊下がある。また、左右にも廊下が伸びており、どちらにも部屋があるようだ。二階もほぼ同じ数だけ部屋があるのだろう。木板だけでできていない床はイバーマでも見ていたが、ここはまた、ひどくつるつるとして固い。輝く白をしている。
[イチル、あなたの部屋は二階、右棟の奥です。スズル、あなたはこれからどうしますか]
[一度東島に戻り、大神の判断を仰ぐ。恵舟は置いていく。だが、必要になれば呼び戻すゆえ、あまり当てにはするな]
[もちろんです。申し訳ないですが、しばらくよろしくお願いします]
恵舟は少し頭を下げただけだった。そうして見比べると、恵舟こそ口数が少ない、表情も浮かべない性質だと知る。では、アンバーシュは意図してこちらに好悪を出すまいとしているのだ。
眉の上にじりと焦げ付くようなものを覚えながら、アンバーシュから目を逸らし、自分の部屋だというそこを見に行くことにする。階段を上っていると視線を感じた。アンバーシュだった。オヌが見ると、別のものを見ていたという逸らし方をしたので、腹が立ち、今度こそ足音高くそこを去った。
右棟の奥の部屋は、見慣れぬ家具が置かれているが、居心地のよさそうなところだった。張り出し窓があり、開くと、家屋の奥庭が下に見える。向かいには左棟の奥部屋があった。左右対称なのだ。
風を入れて空気を入れ替えながら、収納を見ていく。鏡台には櫛や質素な髪留めが入っているくらいで、衣装箪笥も空だった。薄物の、最初身に付けていた服に似たものが畳まれていた。広げてみると、鎖骨の辺りを剥き出しにし、二の腕から下を露にして、裾が左右に広がる形だ。東島でも西の端にある国々で見るような衣装だった。だが、普段着にするには薄すぎる衣装だった。ここにあるということは寝間着だろうか。
あるものといったらそのくらいだった。客間というのは本当らしい。女でも囲っているのかと思ったのに。
寝台に座り、身体を倒す。あまりに分厚く綿や羽が入っているのか、勢いがつくと大きく跳ね返った。
(……ここでしばらく過ごすのか)
憂鬱だ。
何よりも、アンバーシュが一緒なのが気を重くする。容易く決められぬのは分かっている。己の進退、それも海を隔てた文化の異なる地に住まうか否か。どこに行っても死ぬことはないゆえに、東に戻ると即答してもよかったのだが、どうしてもアンバーシュの顔がちらつくのだった。
聞き覚えのない呼びかけを用いて、苦しい顔をした半神の王。
その影は、今も拭われないまま、オヌを見る。
「…………」
アンバーシュ、と口に出してみた名は、西言葉なのに思ったよりも滑らかだった。
気付けば日が落ちていた。よほど困憊(こんぱい)していたらしい。布団の上に寝そべっていたはずが、誰が運んだのか、きちんと内側で寝ていた。さすがに着ているものはそのままだ。
誰かが寝入っている間に部屋に入ったのは間違いなく、小さな机の上には水差しと器が、空だった収納には、着替えや靴が収まっていた。東の着物と、西の衣装。草履やら、平たい靴や、革の長靴やら履物が多数。十分すぎる品揃えだった。
開いた窓から宵闇の風が入ってくる。夏のにおいがすると思うのは、緑と潮のせいだろうか。
「目が覚めたのね」
振り向く。いつの間にか女が立って、さきほどから宙に浮く緞帳をまとめるところだった。
「気分はどう? 水はそこにあるわ。お腹が減ったなら厨房は下よ。誰かに言えば、すぐに用意してもらえると思うわ。その前に着替えをする?」
皺の寄った着物を差される。
「誰だ」
「レイチェルよ」
金色の髪、西の者だ。年は二十歳をいくつか過ぎたところだろうか。伸びやかで、健康そうな、少しふっくらとした立ち姿だった。わずかに、生姜か薄荷の甘く辛い香りがする。薬を扱うのかもしれない。
「アンバーシュが言われてきたのか」
「言われなくても来るわ。あの方のことは、ちゃんと見ているもの」
ずいぶん、熱心らしい。恋人、にしては手が荒れているように思えた。高貴な者は、爪先や指の節の皺を濃くしない。正室、側室の類いではないのだ。だが、立ち居振る舞いはオヌよりもずっと、教養高い。するすると音もなく動くところは貴人の歩き方だった。
アンバーシュがレイチェルというこの女に世話を任せたというのなら、構う気はないのだと知れた。何故か気分が落ちて、軽く溜め息していた。
(何を落ち込む。わたしは、何も悪くない)
「アンバーシュ様のこと、気になる?」
「馬鹿な」
見透かしたように言われて舌打ちする。あんな男。言いたいことがあるくせに、行動しない男など、振り向く価値もない。すると、レイチェルは静かに、微笑みを交えて言った。寝台に横座りになり、オヌの顔を覗き込む。
「そうね。止めておいた方がいいわ。あの方は、ひどく残酷な方だから」
知りたい? とレイチェルは尋ねた。あどけなく、知るべきことを秘密めかして語る少女の姿だった。その姿に欲求を引き出されるようにして、オヌは頷いていた。
そして、艶やかな、果実を思わせる可憐な唇から、愛した女を追放した十年前の事件を聞かされる。
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