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[去ね、呪い師。お前に用などない]
[つれないことを。千年姫の華燭の典、めでたきことと言祝ぎに参ったというのに、その仕打ち。ひひっ]
 嫌な感覚に警戒を呼びかける瞬間に、この醜悪な者が滑り込んでミザントリを昏倒させた。場を作り替え、他者からの干渉を退けると、肉体はどこかへ消えたのか中身だけがいちるの前に姿を現していた。背が曲がり小柄な老爺だった呪術師は、燃え盛る黒炎の柱となって、形を定めることが出来ず漂っている。周囲が邪気に浸食されていくのを感じる。青白い炎の目が、いちるを覗き込もうと見開いたり眇めたりと忙しない。
 近くにいたミザントリは影響を受けて倒れている。長く放置すれば精神に影響するだろう。早々に片を付けるべきだが、これがすぐに帰ってくれるとは思えぬ。
[今度は誰ぞの伝言を持ってきた]
[お話が早くて助かりまする。あなた様をよく存じ上げている御方が、婚姻の祝辞を述べて来よと申し付けられた次第。それから、雷霆王にも祝いの言葉をお伝えくださいましょうな]
 青い目が刃のように細くなる。
[『その女はしばし預くるものぞ、いずれ返してもらう』と]
 いひひひひひ、と何と楽しいことかと叫ばんかぎりにディセンダは哄笑した。途端、室内に有り得ない風が吹く。気ままに風を遊ばせて、周辺の小物が落ちて割れ、その破片が竜巻を作った。細かな傷が肌を出している部分に刻まれて、わずらわしい。
[妾はお前たちなど知らぬ]
[お忘れになっておられるだけのこと。あなた様は、始まりよりあの御方のものなれば]
 空気が弾けた。一瞬、風が止む。
 封鎖されていた扉を破ってきたセイラが室内の状況を見て取り、次の瞬間膝をついた。愚かにも直接魔眸を見てしまったのだ。
 昏倒していくセイラを見守る。ここで助けようと動けば、ディセンダは確実に絡めとってくるだろう。無闇に駆け寄っては隙になるのだ。
 笑い声が増し、魔眸の性に従って、ディセンダが意識を取ったものの心を浸食していくのが感じ取れた。おのれ、と声を放つ。セイラの意識は魔眸には甘美なものだったらしい。うっとりとした声音でそれは言った。
[早くいらせられませ。あなた様は、本来の性に戻るべきなのです]
[お前は、妾の出自を知っているのか]
[冥府の川辺に佇む者、神々がアガルタと呼んでいる存在……なればこそ、ますます光の側には置くには惜しい。アストラスは使い方を誤っている]
[何を知っている。答えい!]
 いちるの詰問とは裏腹に、ディセンダの声は穏やかだった。言い聞かせるような優しさが含まれていた。
[我らはこの世界の本質。神々は形を与えられたが、我らは散るしかなかった。何故ならば、大地の――]
 閃光が迸った。
 何もかもがかっと白く燃え、光が収まると、そこには銀燭の神狼が紅玉の目を光らせて唸り声を上げていた。天敵の光の狼を前にして、ディセンダはそっと哀れそうな溜め息をついた。
[お前様も可哀想なこと。新たな生を受けてなお、乙女の誓約に囚われて――]
[去レ!]
 フロゥディジェンマが光を放つと、影は消えていた。
 だが消滅したわけではあるまい。引き際と見て退散したのだ。いちるはミザントリとセイラに触れ、表層をなぞって影が深く根を張っていないことを確認すると、人を呼ばわった。


     *


 遠くから、音色が聞こえてくる。石と弦で作った、粒のような音。硝子玉の曲。
 手慰みに弾いていると知ったのは、ずいぶん成長してからだった。あの頃、セイラは、貴族というのは誰も彼もピアノが弾けるものだと無意識に思い込んでいた。
 価値のない石ころを宝物のように思っていた、幼い自分には、彼の生み出す音が魔法のようだった。扉の影に隠れて聞いていれば、不意に音が止んで彼は言う。

 隠れていないで、聞くなら聞きなさい。

(本当は、嫌いだったくせに)
 セイラは知っている。兄の秘密を知っている。
 あの人が結婚しない理由。直前で、どんなにうまくいってもぶち壊しにしてしまう習性がついてしまったのは、父親の裏切りの証であるセイラがそこにいるからだ。
(わたくしのせいで、お兄様は結婚しようと考えられないのでしょう? お父様が、わたくしを作っていたことで、結婚というものに不信感を抱いてしまったのでしょう?)
 バークハードの当主が妻以外の女と関係を持って、しかも子どもがいたなんて、跡継ぎとして生まれ育ったエルンストにとっては、ひどい裏切りだったろう。父親に失望し、あんなに捻くれてしまったのだ。
 出会った二人とも、子どもとも言い切れない年齢で、エルンストは兄らしく、セイラは我がままな妹らしく奇妙な距離で兄妹ごっこをする気持ちで、家族になった。家族に迎え入れられるなんて有り得ないと知っていたから、それでまったく構わなかった。
 曲が、ころころと転がっていく。坂道を、色硝子の玉が輝きながら弾けていくみたいに。
 その音を聞かなければ、一生、ごっこのままでいいと思っていたのに。

 おいで、と、最初に彼は言ったから。

(そこにいていいのだと。居場所を。あたしの場所を、最初に作ってしまったんだよ、エルンスト……)



 ……空気が、自宅のものだった。時々しか空気を入れ替えないせいで、埃で少し鋭くなっている。目を開けると自分の寝台だった。毛布をかけられて、深く眠っていたらしい。時計を探すと、営舎の質素なものに比べて鑑賞目的の飾り時計の針は見づらいことこの上なかったが、夕刻を差していた。
 制服の上着や脚衣といった皺になると困るものだけを脱がされて、寝台に放り込まれていた。膝まで隠れる部屋着が目に入ったが、壁に制服がかかっていたのでそれに着替える。
 空は明るい橙色に染まっている。不穏な気配を除かれて、襲撃が終わったことが分かった。
 音を頼りに部屋を出ると、今では滅多に使わなくなった音楽室が開いている。
 ピアノの前には、眼鏡の男が座っていた。
 人の気配を感じて、彼は手を止めた。
「具合はどうです」
「……わざわざ自宅まで運ぶなんて、手間のかかることをなさいましたわね」
「ただ寝ているだけだと言われたら、王宮の医務を使うわけにはいかんだろう」
 寝不足が祟ったのだ。しかし、長いこと寝入ったおかげで、すっかり身体が軽くなった。エルンストも、セイラのことを理由に休みを取ることにしたのだろう。官服を脱いで、開襟と脚衣だけだ。
「ピアノの音で起きてしまいましたわ」
「だろうな」とエルンストは蓋を閉じる。
「お前は、ピアノが聞こえるといつの間にかそこにいたから。今回もそうではないかと思った」
 お前のためだけに弾いていたと言わんばかりに、手際よく楽器を片付けていく様を見て、セイラは立っていられなくなった。壁にもたれて、俯き、目を閉じる。怖いほど、部屋は明るい色に染まっていって、やがて、夜が訪れる。
 何が起こったとしても、自分の行いは後悔しない。そして、後悔しないために選ばないものを見据えていく。今ここで、彼の背中に手を回したりなどすれば、これまでのごっこ遊びが水の泡になる。
(わたくしは、救われる必要がない。上り詰めたから落ちていくだけ。だって)
 今が一番、幸せだもの。
 家族ではないかもしれない。兄と妹を演じているだけだと思う。それが、わたくしたちを繋いでいる。
「動けるようなら文を出しておけ。昏倒するとは馬鹿者がと、姫が激怒していた」
「仕事に戻りますわよ。あともう一踏ん張りですもの」
「私の優しさは今だけだぞ。どれだけお前宛の書類を他者に振ってやったか。せっかく休ませてやろうとしているのに」
「勝手をなさらないで」
「だって、お前は泣いていないだろう」
 彼は、何もかも知っているという風に、静かに言った。セイラが気付きもしなかった、その、跡を指して。
 報告書が頭の中にひらめき、誰が閲覧したかということに頭が回った。アンバーシュは、誰に許しただろう。秘匿するまでに、どれだけの人間にあれを読ませたのか。
 怒りが沸き、次に脱力した。念を入れたのだ。自分が留められるものではなくなったから、エルンストを巻き込んだのだ。彼ならば、セイラが落ちていくのを止められると踏んで。
(最悪な男だわ、本当に)
「必要な悲しみはある」
 セイラは首を振った。微笑んだ。この痛みは、毒の杯は、誰にも理解できまい。
「だめな方ね、お兄様」
「私もお前と同じく負った。お前は同胞だ。あの時、私は安堵もしたのだ。お前が、何もかもを一人で負っていくのではないと分かって」
 だから、あんなに素早く署名したりなどしたのか。慎重派な兄なのに、破れかぶれになったのかと思った。
 巻き込みたくない。今でも、後悔と呪詛を迸らせてしまいそうな、あの人にまつわるすべてのことに、こだわり続けているのはセイラの方だ。失われてしまったのだから、もう取り返しがつかない。
 いつの間にか近付いてきていたエルンストが、肩を掴んだ。
「心から祝福できない者がいてもいい」
 洒落にならないとセイラは呻いた。いちるは呪詛を受けているのだ。呪われろなどと、言えるはずがない。
 喜ばしいのだ。イチルのことをそれなりに気に入っているから、これからの日々が見物だと思っている。だが、心の底から祝福できない自分が、どうしてか嫌で嫌でたまらない。いつもなら、それも自分らしいと笑うことが出来るのに。
「お嬢様」
 家宰が呼んだのはその時だった。
「王宮から騎士の方がお見えです。お嬢様に」

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