第十五章
 花燭の妃 かしょくのひ
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 乳白色の霧がかかっている。目に見える白い粒は、細かく真珠を砕いたかのよう。神々の力が生み出す純粋な力の欠片だ。西の神山の麓には水場があり、水面を滑るように白い力が風に吹かれて形を変えていく。お仕着せの、何の飾りもない白い貫頭衣の裾が、冷たくはためく。
 巨人が足跡をつけたかのように、そこここで大小の池がある。その上に板の橋をかけ、奥へと繋ぐ。鳥と、風とそれが生み出す波の音が聞こえる。静寂な場所に、いちるとアンバーシュ、そして祭司の足音が響く。
 西の神職の者は、神殿に所属する者を神官、神山に仕える者を祭司と呼ぶらしい。神殿は世に関わり神の業を広める機関だが、祭司は神と御山そのものに仕える僕を指し、滅多なことがなければ俗世に関わらない。大神や神山に住まう神々が直接人に下知することはないため、祭司から神殿へ、神殿からそこへと下されていく。あるいは神殿の高位神官が夢見などの異能で預言を受けることもある。
 いちるとアンバーシュの前を行く祭司は、被り物をし、杖を片手にしている。だが、男か女か、年齢も判別できない。存在が薄く、気配がほとんど感じられない。神山で暮らすうちに、神々の気配と同化しつつあるのだ。
 そもそも、この山はその根裾であっても、生き物の気配がしない。植物だけが静かに揺れる。空恐ろしい場所だ。アンバーシュの言う、感情が希薄になるという恐れが分かる気がした。長く滞在すれば、心が薄くなり、横たわって目覚めなくなるような。
 朝の光から逃れるようにして、行列は岩の壁に開いた穴の中へ進む。足を進めるごとに、壁の左右に炎が灯る。奥へ、長く。いちるの異能は役に立たず、常闇の中へ下りていく足裏の感触しか分からない。
 その時、手に触れるものがあった。アンバーシュの手が、人に知れぬよう密かにいちるのそれを繋ぐ。途端、輪郭がはっきりしたかのように意識が冴えた。辺りが見えるようになる。
 奥に、椅子がある。ヴェルタファレンでアンバーシュが座るようなもの。王の椅子だ。空っぽのそれの前で先頭の祭司が足を止めた。深く拝礼し、いちるとアンバーシュを促す。先頭に立ったいちるは、アンバーシュに習って膝をつきながら、そこにいる者を見ようとしてみた。
 途端、頭に痛みが走り、面を伏せる。笑うような気配。いちるの動きを察知して遊んだのだ。
 椅子の上に、形の定まらぬ何かがいる。
 それは言った。
[許す]
 アンバーシュが深く息を吐くのが聞こえた。
 深緑の池溜まりに白い蓮花が咲くその日、いちるとアンバーシュは西の大神にアンバーシュとの結婚を上奏し、許された。



 中央の都の門をすべて開け放てば、城まで続くひとつの道となる。街の住民が、貴族が、旅行客や商人が、外から賓客が、それらに紛れた神々が一同に集い、行き来する。朝方はまだ静かだったものが、祝日に際して常より早く店が開いたためにあちこちで飲み食いが行われ、浮かれた人々が歌って踊っていた。兵士たちはあちこちの見回りに歩き回りながらも、この様子を楽しみ、娘たちは剣を履いた男たちがいつもより数多く歩き回っているので密かに歓声を上げた。
 誰も彼もがこの日のために着飾り、商人は商売を、人々は財布を握りしめて買い物をした。掏摸や喧嘩といった騒ぎもあるが必然だ。人が騒ぐところにないものなどない。
 城から一台の箱馬車が現れると人々は歓声を上げた。馬車は騎馬に付き添われ、神殿へ向かう。箱から下りた花嫁の後ろ姿を人々は見た。長く広がる白いドレスに包まれた小柄な人影に、喝采を浴びせかけた。

 神殿は、無数の聖職者と、国内の高位貴族、外つ国の王族かそれに類する者で埋め尽くされている。笛と金属の音、鐘や金管の静かな音が反響し、人の間に満ちている。指先を軽くあわせるようにして神官たちは目を伏せ、道を進むいちるとアンバーシュを見送る。
 イルネアたち衣装部が趣向を凝らした衣装は、つまらないように見えて非常に手のかかったものになっていた。
 裾は布を重ねて広がるようにしてあるが、どこまでも薄く、軽い。表層の一枚が柔らかい襞を重ねているので、どれだけの巨大な布を用いたのだという長さになっている。淡い裾は身体の線も上手く隠しており、霧の布をまとったかのようだ。
 だが、それ以上に感嘆したのは、上身頃の装飾だった。上から、身体に沿った形の飾り編みのドレスを被せてあるのだ。
 そのため、装飾のない胸部には大小の装飾を繋ぎ合わせた白い模様が浮かび上がり、鎖骨の下や二の腕に、白い絵の具で繊細な絵を描いたかのようになっている。飾り編みのドレスの前後の足下は開くようにしてあり、左右に垂れ下がる形にして、先端に金剛石を連ねてある。
 繍毬花と白薔薇の花束を手に、薄紗は頭のすべてを覆わず、髪が見えるように後ろで止めてある。ドレスに対して花嫁の被り物は華やかではなかったが、慎ましく、凛として見えた。
 仕上げを見届けた衣装部の人間は、今は屍になっている。短期間で仕上げたとも思えない、素晴らしい花嫁衣装だった。
 アンバーシュの衣装は、それほど手が込んでいない。城に詰める官僚の制服に似た、足下まで長い詰め襟だ。腰の辺りで段になっており、足下が開く形で、濃紺の脚衣が見える。濃灰色の上着に、金の襟章、肩章、勲章をつけ、釦と袖と裾を飾り、濃紺の外套を後ろに引いている。いつも放ってある髪は高い頭の高い位置でまとめていた。いちるにとっては、初めて見る国王の衣装だ。
 式を執り行う大神官は、白い髭を蓄えた山羊のような老人だった。ぴん、と張りつめたものを察知していちるは相手を観察した。大神官は、いちるをそこにあるのとは別の目で探っている。
(異能の持ち主。なるほど、神に仕える者の長ならばさもありなん)
 いちるの思考を読み取って、老爺は微笑んだようだった。
 全員がさだめられたところに位置すると、大神官は手にしていた古びた神話書を開く。神話書の一節が、深みのある声で読み解かれ始めた。
「太陽と月は光を交わらせ、大地の神が生まれた。三柱のさだめは太陽と月の子たる神を生み出した。その子、西の大御神は、ここに半神の王を遣わした。継ぐべきものを継ぐために」
 アンバーシュにまつわる部分を読み上げる。この時、アンバーシュは半神ではなく王という立場に置かれ、大神官による祈りの言葉をいちるとともに受ける。
「黙祷」
 教えられた通りに祈る。本人に会っておいて今更祈るというのもどうか、といちるは余計なことを考えていた。立場というのは、時に煩わしい。
「指輪の交換を」
 あつらえた金の輪が、いちるの左薬指にはめられる。その奇妙な軽さと、胸に覚えた重さに、息を吸い込んだ。続いていちるはアンバーシュの指に同じものをはめる。細く折れそうな輪だが、特別な鉱石を混ぜ、技を用いて強化した神具なのだというから、本当に半神の王というのは周りが苦労する。
「太陽と月の名の下に誓いを」
「アンバーシュ・ヴェルタファレン・アストラスは、イチルに婚媾を求む」
「聴(ゆる)す。いちるは、」
 声が絡んだ。急に、動悸を覚える。
「……アンバーシュ・ヴェルタファレン・アストラスに、婚媾を求む」
 アンバーシュは深い笑みで答えた。
「聴す」
 続いて、いちるには冠が与えられる。耳飾りと首飾りと揃えた、光輝の宝冠が、いちるを王妃にする。髪に引っかかる、宝石がついているとは思えぬ軽い冠が、人の目にどのように映っているか。確かめてみてもよかったが、アンバーシュの顔を見て何となく分かり、止めた。
「誓いの口づけを」
 これほどの人目の中でそれを行うことは、いちるには恐れるべきものだった。最初の口づけを思い出してしまった。無理矢理、不意に、攻撃のように触れてきたこの男の口づけに、あの時は怒り狂ったものだった。今は、我慢せねばならないと思いながら、嫌では、ない。もう少しゆっくりしたい、と思うくらいだ。
 軽く唇を触れ合わせると、大神官が誓約の成立を宣言した。
 表へ出ると、空気が変じた。熱気のようなものに触れたと思った。事実、それは歓声となっていちるを包んだ。外に押し寄せた人々が、旗や布や帽子などを振り、国王夫妻の目が向けられることを望んでいる。歓声や、祝いの声、ただ名前を呼ぶ声などが重なって、とても聞き分けられぬ音になっていた。今から、いちるはこれを抱えていく。
(長く。……永く)
 ただ、それだけを祈る。

 アンバーシュの馬車で王都をまんべんなく巡った後、衣装替えで夕方からのお披露目の会に移動する。今度の衣装は、花嫁衣装とは打って変わって、素っ気なさ過ぎるものだが、いちるは気に入っていた。
 アンバーシュに手を取られ、現れると、人々は一斉に貴人に対する礼をした。ぎょっと息を呑んだ音も聞こえて、いちるは密かに笑っていた。
 漆黒の衣装。襟ぐりを開き、裾が大きく広がる形で、金の鎖を首から足下にまでかけただけの、とても花嫁とは思えぬ色のドレスだったからだろう。王妃の冠がなければどこの酔狂かと思ったに違いない。黒い飾り編みの手袋が、艶かしくも映る。
 王の椅子の隣に据えられた椅子に座ると、どこからともなく拍手が鳴り響いた。
 音楽が始まる。男女の組が中央に進み出て、円舞を披露する。ミザントリとクロードの姿があった。いちるは正面を向いたまま囁いた。
[お前が?]
[彼女はこういう場で相手が出来ない状況を選びましたから、今日くらいは、おおっぴらに踊らせてあげたいでしょう?]
 ミザントリはうっすら色づいた頬で、クロードに微笑みかけている。よく己を律した表情だが、内心は幸福で飛び上がっているやもしれない。クロードは穏やかな眼差しを彼女に注ぎ続けている。見ていると、実に微笑ましい二人だった。
 一曲が終わり、踊った者たちがアンバーシュといちるに、そして周囲に辞儀をした。アンバーシュといちるは立ち上がり、彼ら彼女らに拍手を送って答えとした。
 二曲目からは緊張もわずかに解けた。どうやら普段通りに踊り、喋り、飲み食いを始めるらしい。適当に挨拶をと言われていたいちるは、しかしアンバーシュに向かって手を出していた。
「ん?」
「踊っていただけないか、我が夫の君」
 踊れるんですかとは聞かなかった。いちるがそうするということは、勝算あってのことだと分かっているのだ。アンバーシュはにやっと笑っていちるの手を受け、己の腕に添えさせて舞台に出る。人々が疑いと好奇の目で見守る中、二人はゆっくりと滑り出した。
 聞き覚えのある弦楽の調べが、足下に踏むべき音を置いていく。
 やがて、招待客が驚嘆の眼差しを向ける中、アンバーシュが苦笑した。ミザントリとの内緒事がこれだったのだと、ようやく分かったのだった。いちるは、己の円舞をまずまずと評価した。要修行だ。

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