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 いちるの自室は暁の離宮だったが、その夜から東翼に最も近い白花宮になった。白花宮は暁の宮よりも小規模だが、隣に金葉宮と名がつく建物と並んで繋がっており、この金葉宮こそアンバーシュの私室なのだ。普段はもう少し仕事場の行き来に便利がいい部屋を使っているということだが、これからはここに帰って来ると宣言されている。
 甘い香りのする広い部屋は、大きく窓が取られているが、今は群青の帳で覆われていた。
 壁や柱は白で、神殿を思わせる作りだ。壁のつなぎ目には柱が突き出て、そこには金の葉が絡み付いている。金葉宮と呼ばれる由縁だ。天井部分には、正方形の中に五枚の葉を花のように描いた板が連続してあり、これも白で、浮き彫りになっている。室内の灯火が花に陰影をつけていた。室内にあるのは、寝間と呼ぶ場所に必要な、寝台、長椅子と机、鏡台、小物を入れる箪笥が一つ。これも白で統一してある。
 白い部屋の唯一の色彩と呼ぶべき、青い帳のかかる寝台に近付いていって、いちるはぴたりと足を止めた。呻いてしまった。香りの源はこれだ。
 寝具の上に、大量の薔薇の花がまき散らされてあった。これ見よがしの期待に、普段なら気にもならない酔いが急速に回った。披露の宴で挨拶がてら杯を受けたが、飲むと決めたときの半分も飲んでいないというのに。しかし、宴を外したことを知っている客や、いちるを送り出した女官たちは、これから何が起こるか知っている。奇妙な息切れで目眩がする。
(……落ち着け。今更ではないか。何を構えることが)
「どうしたんですか?」
「っ!?」
 背後に気付かなかった。いつの間にか後ろにいたアンバーシュから距離を取って、いちるは強ばる身体をさする。急に、体温が下がった気がする。だが冷えるのに芯が熱い。
 己の部屋なので堂々とやってきた男は、額から髪を掻きあげながら息を吐く。
「疲れましたか? 今日は一日動き回りましたからね」
 ゆったりとした開襟をまとった上に、防寒の部屋着を着ている。裾が揺れるのに、いちるは目が離せなくなっていた。アンバーシュの動きを察知しようするせいだ。
 アンバーシュは喉の渇きを癒すために水差しを取って水を飲む。張っていた気を緩めるかのように深く溜め息して、いちるを見た。いちるは、反射的に顔に朱が昇るのを自覚し、だが相手から目を背けることが出来ず、面を伏せた。
 そうやって、いちるが動かないのを見ていたアンバーシュは、おもむろに窓の帳を開けた。外は床が張り出した露台になっている。風が吹き込み、部屋の灯りを揺らした。その時には、空中にアンバーシュの愛馬たちと馬車が現れていた。
「ずっと誰かに囲まれていたし、せっかく二人になったんだから散歩でもしましょうか」
「……前日のように騒がれないか」
 半日まではいかなかったとはいえ、勝手にいなくなるなと大仰に騒がれてしまった。泣いていた者もいた覚えがある。日頃の行いのせいだ。ここまで来て事件が起こることに皆怯えていた。
「ばれなきゃいいんです。それに、やることはやったんだから、誰も何も言わないですよ」
 定められたようなやり取りをして、いちるはアンバーシュに手を借りて馬車に乗り込んだ。その肩に、男の部屋着がかかる。温もりを残して、あたたかい。アンバーシュの馬車は空を行くものなのに強い風を受けたり凍えることはないが、やはり夏でも夜は涼しく、遮るものがない場所では星の光の色もあって、冷える。
 北の結晶宮の側を巡り、城を見下ろす高さに来て、東へ走る。
 青黒い紗をかけたような大地が広がり、ところどころに光の固まりが見える。
 その遥か高みから通り過ぎ、雲を抜けて、目を見張った。
 夜でも渡る鳥の群。一抱えほどの巨大な体と白い翼をはためかせて、風に乗る。光をまとっているのは魔法を持つ生き物だからだ。艶やかな嘴を開いて先頭のものが鳴いた。
「ギタキロルシュの眷属ですよ。夜に移動して、昼間は水場に溜まるんです。ロルシュによろしく言っておいてください。……覚えておけ、の方がいいかな?」
 並走した鳥は、ぐるると鳴いた。別れを告げて、今度は雲の下に抜ける。
 雨雲の固まりが見える。局地的に降らせているのだ。近付いていくと、急に風が巻いて細かな水の粒が吹き付けてきた。どおんと、笑い声のような雷が鳴った。顔を拭いつつ、アンバーシュが片目をつぶった。
「妬けるな、ですって」
「アンバーシュ!」
 今度は少年の声だった。アンバーシュが速度を緩めると、羽を持つ天馬が並ぶ。大人でも持て余しそうな雄馬を見事に御しているのは、明るい目をした少年だった。
「こんばんは、アティル。夜更かしですか」
「みんなアンバーシュをお祝いしにヴェルタファレンに行っちゃったから。でもどうして、そのアンバーシュがここにいるんだ?」
「夜の散歩です。イチル、彼はアティル。風の神です。アティル、彼女が俺の奥さん」
「こんばんは!」と溌剌に言った少年にいちるも微笑んで「こんばんは」と返した。すると、アティルはにこにこと笑いながら身を乗り出してくる。
「綺麗な奥さんだね、アンバーシュ! ねえイチル、東ってどんなところなの? 風を送っても、海を越えるともうあっちの管轄だから、見たことないんだ。水っぽいって本当? 寒いって聞くよ。風の神って若いの? 雪は? 雨は? 一番若いのって……」
「アティル。独り占めしないでくれますか。俺もまだなんですから」
 不満の声を上げたアティルだが、天馬がいなないた。彼もまた諌めているらしい。少年はむっと膨れたが、アンバーシュの顔を見て、渋々といった様子で退いた。
「……分かった。でも今度ちゃんと話を聞かせてよね! おやすみ、夜更かししちゃだめだよ!」
 翼を真っ直ぐにし、大きく迂回しながら飛び去っていくアティルと天馬に手を振った。フロゥディジェンマとはまた違った無垢な言動は、思わず忍び笑いを生むほどだった。
「可愛らしい神だ」
「風にまつわる神は一族が多いし、他に比べてよく生まれるんです。あの子は見た目通りの年齢ですよ。これまでで一番若かったんですが、今はプレシアの子どもが最年少ですね」
 天馬は、先ほどすれ違った雨雲の元へ駆けていった。雲を移動させるのかもしれない。また違うところに、神々の恵みが降り注ぐのだ。守護地の神がそれを受け取り、糧を実らせる。魔眸を退け、人を守る。
 東では目に取れなかった神々の活動を目の当たりにして、己もそれらに準ずるものになったのだという思いが、不意に湧いてきた。人でも神でも魔でもなく、誰も定めることができないアガルタという存在らしい己は、これから何を成せるのか。アガルタの因縁、そして過去に繋がっている魔眸との因縁は、やがて日々を脅かし、壊すだろう。それだけがすでに定められている。
 川筋を、泳ぐ銀魚の群とともに昇っていく。滝を越え、崖の上に出た。平に削り取った岩場が殺風景な島を作っているだけで味気ない、と思いきや、誰にも足を踏み入れないその天頂部分に、花が咲き群れていた。
 馬車が止まり、アンバーシュが先に下りる。差し出された手に捕まり降り立った。
 雨風にさらされるせいで、しっかりと根を張り、花も大きい。固まりになって咲いていると、足が埋もれてしまいそうだ。下生えの草が柔らかく足下をくすぐる。
「夏の夜に過ごすのに一番いい場所なんです。川からの風が涼しくて、星も花も綺麗だし。空に花畑があるみたいでしょう?」
「小娘のようなことを言う」
「綺麗なものは好きです。強ければもっといい」
 アンバーシュの手がいちるの頬に触れる。まるで、お前がそうなのだと言うようだった。わずかに伏せた目を上げるよう指先が促し、いちるの顎を捕らえる。見上げた男の向こうに星の天球が広がり、夜の気配に溶けていきそうな、不安のようなものが胸をざわつかせた。
 次の行動を避けるように、いちるは己から男の胸に頭を寄せる。腕に手を添えて封ずるようにしてから、アンバーシュが頭を撫でるのに息を吐く。
 過ぎる時間を数えて、いちるは、この男のために生きる。つまらないことで怒り、他愛ない喜びを見出しながら。
 後悔はしたことがないと言ったことがある。だがこれからは、その言葉に怯えていかねばならない。いつどの瞬間に終末が訪れたとしても、心を残さぬように。己を縛り、感情に絡めとられていく。今までのように自身の心だけで進んでいくことはできない。
 祈りながら、探していく。終わりを、永く遠い場所に置くすべを。
 溶け合うことを望む無意識が、アンバーシュの心に最も強く刻まれているものを吸い上げていく。静けさ、絶対的な幸福、欲、安堵、柔らかい切なさ、恐れはこれからに向けて、そしていちるの名前を繰り返し緩やかに何度も呼んでいる。
「アンバーシュ」
 声に答えるようにして唇が重なる。
 この口づけは誰のものにもならない。受けるのはいちるだけ。与えられていいのはいちるだけだ。そうして、いちるが与えるのも、アンバーシュにだけ。
 首に腕を絡めて息を継ぐ間に、いちるは囁いた。
「アンバーシュ」
「はい」
「――死にたい。今すぐに」
 たった今、この刹那に、死んでしまいたい。心臓が止まり、時が止まり、己の世界が閉ざされてしまえばいい。何もかも分からなくなって、死んだことすらも認められず、ここで終末を迎えたなら、いちるは未来に怯えて生きずに済む。
 アンバーシュの手が頬に滑る。その瞬間に我に返る。永久の在処を、失われることのない片割れを望んだ男に、自分は、その願いに反する要求をした。顎を掴んで上向かされた時、いちるの瞳は揺れた。
「本当に死にたい?」
 囁きが掠める。
「こんなにも、俺を失いたくないと叫んでいるのに」
 何かが首にかかる。首を絞めるような感触にはっとして挙げた右手は、アンバーシュの手と入れ替わり、硬く小さく冷たい連なりに触れた。いちるは、男の顔から目を逸らさぬまま、それが真珠と金剛石の首飾りだと知った。
 首を一周する赤い天鵞絨の布の輪に、親指の爪よりも大きい金剛石、その周囲をそれよりも小さな石が飾っている。下部には彩りの紅玉が二粒添えられていた。もう一連、形を揃えた柔らかい色の白真珠と合わせて首飾りになっている。
 紅玉を選んだところにアンバーシュの執念を知るが、笑えなかった。胸元に垂れる首飾りと違い、首にぐるりと巡らされる感触が、いちるの胸を締め付ける。
 楔が穿たれ、鎖をかけられた。
 アンバーシュは微笑んでいる。いちるの心を見ている。もう二度と放すことはないのだと。
(許せ。お前を選んだわたしを)
 ――はなさないで。
「俺は、あなたを愛したい」
 もう二度と、こんな幸いはない。
 幸福は一度きり。ゆえに途方もない作業の末に探し出していくのだ。限りある時間の中に、せめて一つでも多く。今は、そこにいるアンバーシュがすべて。触れる温もりが、手からこぼれ落ちてもなお与えられるそれらが、この瞬間のすべて。
 今すぐ星が落ちて嵐が訪れ世界が終わればいいのに。願うことは止められなかった。それが叶わぬのならばこの結末は。
(他の誰かに、終わらせてなるものか)

 わたしの手で。

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