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水の流れに耳を澄ましていると、声が聞こえてくる。遠いところから響くように、水の中に音が混ざっている。拾い上げてもそれは小さな欠片にしかならなくて、集めてもその端から消えていく。
声は甘くて、優しい。自分の名前を、大切なもののように呼んでくれる。ひとりぼっちの時。どうしたらいいのか分からない時。空を見上げた時。風が吹いた時。ふとした時にその人は名前を呼んでくれる。
冬に、戻りたい。
(もどせば、あえる?)
あなたはきっと過去にいるのでしょう? わたしの会ったことのないひとなのでしょう。時を戻せば、あなたはそこにいて、わたしを待っていてくれるのではないの?
目を閉じれば、その声が呼ぶ。
――はやく…………わたしの、かわいい……。
会いたい。
会いたい。
(あいたい、な)
ほんの少し、見えない扉を開けた。大人たちには見えていない、秘密の入り口だ。その中に身を入れることはなんだか怖くてできなかったけれど、細く扉を開けたなら、宝物がこぼれ落ちてくるのだ。
せき止められていた水のごとくあっという間に足下に溢れてくる瑞々しい力を手に取って、宙に放る。望みを含んだ力は、思い通りの世界を実現させるべく変質する。
銀の花が一斉に開く。夏が戻り春を呼び戻し、そして、その先の凍れる季節までをも呼び起こす。青い瞳をめいっぱいに見開いて、少女はわくわくと訪れを待っていた。もうすぐ、きっと、あなたが戻ってくる……――。
「失礼します」と入り口でかけた声に、顔を覗かせたのはベラ司書官だった。途端、彼女の腕の中で塔になっていた本が大きく揺れる。すると、すかさずやってきたヘンディが支え、受け取り、机に置いた。床への落下を防がれた本に、ベラはほっとした顔で礼を言った。
「どうしたの、あなたたち。こちらの騎士殿は……」
「俺の友人。騎士のヘンディです。ベラ司書官殿」
「ヘンディ・エッドカール、妃陛下付きの護衛騎士です。妃陛下はどちらにいらっしゃいますか?」
ベラは赤毛の青年騎士を見上げ、何か納得したように頷いた。
「妃陛下なら、エシ殿のところです。報告しなくちゃならないことがあるからって言ってたわ。働き者ね、妃陛下は。報告書の類いまでじっくりご覧になってるけど、そういうのってあなたたちの仕事じゃないの?」
ジェファンは静かなしかめ面になった。
「俺もそう思います。ですが、なさりたいということに、するなとは言えません」
「でも本当は、ちょっと鬱陶しいわよね」
それまで黙っていたエルネが戻ってきて顎を上げて言った。机の上に並んでいた本を検分していたのだ。それらは、彼らの王妃が先ほどまで読み進めていたものだろうと考えたからだった。生意気なとも言いたげに腕を組む。
「私たちの領分は侵さないでいただきたいわ。この前も、ちょっとした干渉の気配があったからって、報告書はどうすればいいかって尋ねられて。そういうのは私たちがしますって申し上げたんだけれど、知りたいって言われちゃったんだから、教えないわけにはいかないでしょう? でも、そんな気まぐれに報告をあげられても処理が面倒なだけなのよ。下官みたいに毎日詰めてくれるんなら別だけど」
「まあ、最初はね。ロレリア様がずいぶん買ってらしたから興味があったんだけど、ずいぶん勉強家でいらっしゃるわ……こういうこと報告されちゃいますか、ヘンディ殿」
ヘンディは笑って首を振る。
「そのように評価されていることをすでにご存知だと思います。多分、様子を見てられるのではないでしょうか。誠心誠意で接せられる方が好ましいようです」
「それはまずい。私、ずいぶん失礼な口をきいてるわ」
言いながら、快活にベラは笑った。嫌われているとは思っていないし、そうであっても仕事ならば割り切れるというさばさばとした笑顔だ。反対に、三人組はむっつりと黙り、肩を竦め合った。気にしないでおこう、と確認し合ったのだった。
「妃陛下に急ぎのご用事ですか?」
「アンバーシュ陛下から妃陛下に書簡が来たそうです。特に急ぎではなさそうでしたが、預かってきたので、お知らせにまいりました」
「護衛騎士ってそういうこともなさるの?」
「これはただのおせっかいです。なんとなく、早めにお見せした方がいいような気がして」
「こいつそういう勘が時々いいんだ」と友人であるジェファンは言った。エルネが心なしかうっとりしているのは、ヘンディが若手の中でも花形をとる騎士だからだ。明るく、柔和で、かつ腕の立つ将来有望株。ベラ司書官も好ましい印象を抱いた様子だ。ヘンディ・エッドカールの特性なのだろう。
果たして、最初に気付いたのはその騎士だった。向こうから現れたいちるに「妃陛下」と呼びかけ、軽く一礼した。
己の目指していた場所で直前まで起こっていたことが分かっていたので、いちるは三人が不自然に口を閉ざした理由を問わなかった。異能の力で感じていたものが違わぬことを確認してから、ヘンディから受け取った封書を指で開け、短いそれを一瞥した。
(これは……)
その時、奇妙な風が吹き込んで、室内のものを大きく煽った。綴じが甘かった冊子から紙が飛び、舞い上がる。エルネが悲鳴を上げて座り込み、軽い書物は浮き上がり、埃や砂が一斉に舞い上がった。風に吹き清められた足下に、白いものが流れ込んでくる。
「氷!?」
異常なほどの冷気で背が震え、吐く息が白くなる。踵を返したいちるは、しかしヘンディに一度留められる。騎士が先頭に立って外に出ると、強風に煽られた赤毛に白い結晶が貼り付くのが見えた。後ろについたいちるは空を見上げ、灰色の雲の間から降る雫が、みるみる大粒に結晶化するのを見た。
踏みしめた地面が小さく割れる音がする。霜が立っているのだ。その上を、雪が降り積もっていく。下りた雪結晶は、繋ぎ合わさるようにして地に広がっていく。溶けないのは、気温が下がっているからだ。
「誰がやってるの!?」
「ロレリア様に報告するんだ、早く!」
「騒ぐな」
いちるの一声に二人は口をつぐんだ。だが、次の瞬間怒気を露にしたジェファンは、行けとエルネに顎をしゃくらせる。
「相手にするな。行け!」
腹の底から叫んだ。
「――騒ぐなと言うのが分からないか!」
顔か声かその他の圧か、何が原因か分からぬが、全員が心持ち青ざめたようだった。いちるは己の歯ぎしりが邪魔になると知って、眉間に皺を集めるだけで高ぶりを鎮め、告げた。
「足音をさせるな、聞き取りづらくなる」
風の音でさえわずらわしいのだ。今から聞くのは、この城、街の、何者が何を発しているか。叫びのみならず、会話、呟きの一つを聞き取り、この状況の中心にいる者をあぶり出す作業なのだから。
手繰るのは雪。風。水。それらの気配は種々の青い糸となっていちるの視界に現れる。
波打ち、絡まり、踊って、切れる。更に探る。
感じるのは清いもの。水。光。小さな。呼び寄せる声、おいで、おいで。冬を望む声。少女の声。水の色は青い。青い瞳。
青い瞳の幼い娘。
「っ!」
掴んだ、と思った瞬間弾かれた。フロゥディジェンマの時と同じだった。いちるの千里を駆ける目を確実に捉え、不快だと追い払ったのだ。額を殴られたかのように視界が明滅し、そのように後ろへひっくり返りそうになったのをヘンディが支えていた。
しかし欲するものは捉えた。いちるは、立ち尽くしている宮廷管理官どもに言い放つ。
「西門、西の庭の井戸だ。近くに堀があり、行商人が出入りする門! そこに濃い色の肌をした娘が叫んでいるはず。原因は、青い瞳の童女」
「なに……」
「青い瞳の少女が眷属を作って、季節を反転させようとしている。このままではその童女、力を使い果たして消滅する。早く人をやれ。でなければ、凍え死ぬ者が出ないとも限らない」
管理官たちに恐れが宿るのを見た。異端に対した者がするように、目を逸らせず、注視し、動けずにいた。一言でも発せば、喉笛を噛みちぎられるか、明かされたくないものが暴かれてしまうかのようだった。
これは何なのだろう、と男の目が語っている。理解できない者を目撃した顔を女はしている。だが、これがお前たちが戴く王の妃なのだと知らねばならない。今がその時だ。
いちるは言った。
「行け!」
その一言で、全員が綱を切られたかのように一斉に走り出した。まるで、逃亡するかのようだと、いちるは笑みを佩き、裾をさばく。
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