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 恐怖を迸らせて、女たちが逃げ惑う。足跡を埋めるようにして水が地面を這い、氷と化した。脱げてしまった靴は、氷中に埋まって取り出せない。そうしているうちに、衣服の裾が凍っていく。洗濯女中たちは、どこかしら濡れているせいだった。
 白さを通り越して青紫になった手を握りしめ、暖かい場所へ向かう。誰かが、城の外は暖かい、中は何ともない、いや東だと叫んで走っていく。騎士たちが現れ、異変を察知したが、夏とは思えない極寒の風が吹き付けてくるだけで敵の姿はなく、撤退してしまう。一体これが何なのか、何が原因でこんなことになっているか誰も把握できず、逃げることしかできなかった。
「雪の女神の怒りを買ったんじゃないか? 冬が戻ってきたみたいじゃないの」
「王様の結婚のせいで? そんなまさか」
「違うわ……」
 えっと女中たちはタリアを振り返った。
 外にいた者たちは全員が中に引き上げ、窓から異変を見上げていた。気温が低まると内側も次第に凍え始め、女たちは寄り添って、いつものお喋りを潜ませ、様子を窺っていた。その中で、寒さだけではなく青ざめた顔で、タリアは両手を合わせてがたがたと震えた。
「タリア? どうしたの、あんた……」
 ふふふ……あはは……!
「うるさい!」
 少女の笑う声は、どうやら誰にも聞こえていないらしい。手は引っ込められたというのに、笑い声が消えない。タリアにだけ囁きかけられる愛らしい笑い声に、今は恐怖しか覚えなかった。
(私のせいなの? 私が……)
「タリア! タリア、あの子!」
 びくりと震え、指し示されるままに目をやり、ひっと息を呑む。
 青い瞳の少女が、じっとこちらを見ていた。
「あの子、このままじゃ凍えちゃうよ!」
 短い裾から素足が覗く。少し泥で汚れているようだった。青白く、血管が透き通って見えそうな、細い足だ。でもどうしてみんな気付かないんだろう。あの子が、この寒さの中で白い息も吐かず、頬を真っ赤にすることなく立っているのに。真昼に雪が降る冬に、あんな強ばってもいない、むしろ清々しいと感じているような顔で過ごしている子どもなんていない。
 誰かがあっと声を上げたので、タリアはぎゅっと目をつぶった。
「アディさん!?」
 だがその名前が聞こえた瞬間、ぎょっと目を開いていた。贅肉のついた腹を揺らし、少女の元にアディが走っていくところだった。その瞬間、タリアはその場を駆け出していた。

「何してるんだい! 早く中に……」
 言って、少女の細い腕を掴んだアディは、その細い腕が温かいことに口を止めた。血が通って温かいのではない。少女の周りの空気が、暖かい。まるで、そこだけ夏が留まっているかのように。
 少女は無垢な瞳で女を見上げる。
「じゃま、するの?」
 ひやりとする、声だった。幼い少女のものではない。
「こえが、まだ、とおいの。わたしを、よんでいるのに。まだ、こないの」
「何を、言って……」
 悲鳴が風に掻き消される。雪が、渦巻きを作っていく。螺旋を描いて天へ昇る。白い結晶は弾けるような音を発した。少女の声に似ていた。
 そこへ、タリアが建物から飛び出し、アディの身体を覆った。雪の礫が手足に貼り付き、みるみる体温を奪う。氷の冷たさは、針で刺すかのように鋭い。じわじわと感覚が奪われていく。
「止めて、止めて!」
 少し考える素振りを見せた少女だったが、首を振った。
「やめない。だって、まだ、こないもの」
「誰が来ないのだ?」
 今度の声も冷たかった。しかし、雪の中に赤い色が見えるかのような、華やかな女の声だった。けれど翻るのが青い官服で、タリアは目をしばたたかせた。黒い髪、不思議な顔立ち。普通の美しさとは違うけれど、重みと艶がある。こんな人が宮廷管理官にいたのか。
「誰が、来ないというのだ」
 風が少し収まる。女性の声に耳を澄ませるために思えた。
 彼女の微笑みに、タリアの頬にも熱が戻ってくる。





 探るための力の片鱗が周囲に動くのが感じられた。定まらない風の動きは、この存在の未熟さゆえのことだろう。髪に、頬に、手足に触れて、いちるが何者かを知りたがっている。
 資料館から俯瞰して見たものは間違いなく、そこにいるのは少女だった。青みの強い銀の髪に、宝石を溶かし込んだ鮮やかな瞳をしている。感情よりも美しさや輝きが先んずる目は、まだ心を表すには不慣れな様子で、覗き込めば吸い込まれるような感覚がある。少しふっくらとした手足は風の中に粟立つことなく、陶器のようにすべらかだ。
 いちるは三たび、尋ねた。
「誰が来ない? 誰を呼ぶためにこんなことをしているのだ」
「……ふゆが」
 震えたわけではないのに、怯えたような声だった。
「ふゆには、いたの。だから、ふゆがくれば」
「失われたものは戻らない」
 己の声が非道に響く。
 少女は否定したがっている。足を摩って下がり、小さく首を振る。
「戻ることはできない。小さな女神。お前はそこから来たはずだろう? 時と運命は、誰の手にもない。与えられたとしても、果たせば消える。お前が生まれた時、失われたものは、永遠に失われ続けるのだ」
「ちがう!」
 突風が吹く。頬に痛みが走る。氷の欠片が血の色を含み、その熱で頬を滑り落ちた。
「いまも、きこえている。わたしを、よぶこえが。わたしをまっているの。わたしも、まっている」
 しかし何を求めているかは分からないのだ。刻まれたものを正確に見通すための精神が、まだこの女神には備わっていない。今のままでは、闇雲に力を振り回し、己でも分からないものを欲しがる子どもだ。ひとつを治める神とは思えない。
 いちるは彼女の名を知っていた。彼女の由来、その守護地、初めて会う彼女をすでに知っていた。運命が与えられるものだと言った己の言葉に従えば、今、彼女のさだめの欠片はいちるの手の中にわずかに与えられている。
 名前も姿も定まらない誰かに会いたいと訴える、少女の孤独がこの空だった。灰色に煙り、美しい白い結晶を降らせるが、大地は凍り、泣き叫ぶ代わりに凍えていく。だというのに、少女は決して寒さを訴えず、己の力に守られて、真っ直ぐな目をして言うのだ。
 まっているの。ここにいるの。
 それは決して、この世界に於いて巡ってはこないのに。
「時は、戻らない」
 いちるは重ねて言い続ける。
「お前の母は消えてしまったのだ。リリルのプロプレシアは……」
 燃えるように雪が盛り立つ。目の青は、焔の青に変じた。怒りと否定を強烈な力で押し返す、そのことを可能にする激しい力が、凍りの張った地を割った。
「ちがうもの」
「リューシア!」
 名を呼んだ。
 アンバーシュの書簡には、自分が今ビノンクシュトとナゼロフォビナの元にいること、プロプレシアの遺児リューシアが姿を消したことが記されてあった。至急戻るが、名前だけは知っておくようにと書いて寄越し、未だ姿を見せない。
 名の縛りは、しかし弱かった。一瞬絡められ硬直したものの、拙い呪縛を弾き飛ばし、己の力で生み出した眷属を舞い飛ばせる。場が、リューシアのものに作り替えられていく。
「ちがうもの! かえって、こられるもの。わたしが、とびらを、ひらくことができれば……」
「それは生者が触れていいものではない! 触れれば引き込まれる、死を賜るぞ!」
 石が回るように、無機質な瞳の光が、いちるを捉えた。
「ためしてみる?」
 無邪気な声だった。己の提案に、ひどく嬉しげでもあった。いちるが弾き返そうと気を張った瞬間、すでにリューシアの魔手は目前に迫り、圧倒的な水と氷の力が視界を白く塗りつぶそうとした。音が、消えていく。
(――!)
 天に向かって、白い波が弾けとんだ。

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