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 は、と短く息を吐き出した。気の遠くなるほどの緊張の果てに戻ってきた呼吸は、激しい動悸でうまくいかなかった。
 周囲には熱が発生したゆえの湯気が立ち、地面は、春に萌えるかのようにふわりと匂い立っている。
「――動くのは少し待て、と書きませんでしたか?」
 最も焦げ付いた匂いを発するのは、その男の右腕だった。小さな電流が取り巻き、氷に貼り付いてぱりぱりと噛み砕くような音を立てる。
 肌に刺すような音と空気の激しさの割に、男はこともなげに腕を払い、地を踏んだ。一瞬にして、地表の氷が粉々に踏みしだかれ、蒸気と化す。周囲は霧に包まれたが、瞬時に散ることを命じられた。風の力を持つ眷属が、男の周りで舞い、戦いを鼓舞する。
 喉が、うまく動かない。声は囁きになった。
「わたしが、悪いのではない。向こうが先に動いたのだ」
 アンバーシュは批難する目を、今度はリューシアに向けた。笑顔を浮かべこそしたが、目が笑っていなかった。
「こんにちは、リューシア。ナゼロやビノンクシュトがずいぶん心配していましたよ。みんなに内緒で、こんなところで何をしているんですか?」
「じゃま、しないで」
「邪魔? 邪魔というのはね、リューシア、平和で穏やかな人たちとその生活を妨げることを言うんですよ。もう一度聞きますね。何を、しているんですか」
 空が鳴ったのは気のせいではなかった。雪雲が、雷雲の黒に染まっていく。不穏な音が大気を震わせ始めた。落雷の前兆だ。いつか割れた地表を見下ろしたことを思い出し、呼んでいた。
「アンバーシュ……」
「あなたへのお説教はあと。……力の均衡が崩れると、結界や地脈やらが歪むんです。リューシア。あなたの行動は、この後のこの国に様々な影響を及ぼすかもしれない」
「しらない」
「知らないでこんなことをしているんですか?」
 優しい言葉遣い、表情は、みるみる空気を物質ではないもので凍り付かせていく。精神が圧迫される響きに、リューシアはもがき、抗おうと、睨みを強くした。そうすると、ますます少女の幼さが露呈する。何も考えていなかったということがありありと分かり、聡い少女は頬を染めて目に涙を浮かべた。
「子どもが」
 吐き捨てたアンバーシュは顔が歪んでないからこそ怒りが知れた。
「己の使い方を誤れば何が起こるか理解できないものを子どもという。大人しく力を収めて戻りなさい。外に出るのは百年早い」
「だって……だって……」
「アンバーシュ。生まれて間もない赤子同然の者に、それは厳しい」
 同情してしまったのは、いちる自身狼狽えたからだ。アンバーシュは、驚くほど怒っている。見ている者も、初めて見る様子に口を挟めずにいる。アンバーシュという男は、穏やかな口調と柔らかな表情で、そっとそれぞれに綱をかけようとする、狡猾で傲慢な男のはずだ。だが、いちるの戸惑いを否定する男は、積み重ねた齢の重みを得た存在だった。
「彼女は理解できます。だから生まれて何ヶ月なのにあの姿で言葉を使えるんです。そうでしょう、リューシア?」
「う……」
「理解できないのなら、何かを望む資格はありません。望みというのは、己のすべきこと、できることを理解した者がなおも叶えようと尽くすものだからです。あなたはその領分を越えようとした。あなたはまだ幼すぎる。あなたの出来る範囲のことを、すべきことをしなさい」
 大人の勝手な論理は子どもに通用しないものだ。己の欲求が生きるすべてだという幼子は、それでもと拳をあげて泣くだろう。そういう点では、アンバーシュの言葉は正しかった。
 リューシアは、その場にへたり込むと、大声をあげて泣き始めたのだった。
 上空の雲が形を変えていく。温い空気、やがて暖かい大気が雪を溶かし、氷を水に変えた。冷えた身体が痺れるほど太陽の光を与えられ、どこかからくしゃみが聞こえる。急な気温の変化に、いちるも冷たいのか暑いのか分からない腕をさすった。解けた空気とともに、アンバーシュもがっくりと肩を落とす。
「やれやれ……新しい神は一回はああいうのをやるんですが、リューシアは早すぎる。早熟な女神になりそうです」
 言いながら、座り込んで泣くリューシアの側にしゃがみ込む。真っ青に濡れた瞳を可愛らしいほど釣り上げた、少女の声が癇癪が響く。
「アンバーシュ、きらい!」
「嫌いでいいですよ。俺は優しい方だったって、後から気付くでしょうからね」
 小さな手で振り払われるが、なおも抱きかかえようとするアンバーシュに、リューシアは激しい抵抗を見せた。手足を動かして遠慮なく男の顔を殴り、逃れようとしたとき、はたと、いちると目が合った。
 あ、と思った時には、少女は青い瞳に溢れんばかりの涙をためて、両手を伸べて走ってきた。
「いちるぅ、ひどいのー」
 最前、いちるを殺そうとしたとは思えない、女童にしか見えぬ姿で駆け寄ってくる。よく知った少女神が似たように来る習いで、つい腰近くに伸ばされた手と小さな身体を受け止めようとしたとき、白い影が目の前に横切った。受け止められるはずだった少女は、目を瞬かせてそれを見上げた。
 赤い瞳が、不機嫌そうにリューシアを見下ろす。
 少女の一吠。
[しゃんぐりらハ、エマノ!]
 再び、泣き声が迸った。
 緩んだのか混乱が増したのか分からない状況で、アンバーシュがしまいに手を打ち、状況の確認と報告を促す。とりあえず、いちるは、少女たちを招いてやることにした。話を聞かなければ、収まりそうもなかったからだ。
 リューシアの暴走を懸念していちるの自室は使ってほしくないということだったので、結晶宮の一室に招き入れた。道中、フロゥディジェンマが後ろにつき、リューシアは時折後ろを気にして足取りが鈍る。年上の少女神はそんな幼い女神を何ともないような顔をして見つめ返すが、すっかり怯え切ったリューシアはいちるの裾に隠れるようにし、そのせいでむっとするフロゥディジェンマをいちるは宥めなければならなかった。
 何か食べるものをと所望し、運んできたのはエルネだった。室内の緞帳や机の下を探ることに熱心なリューシアは、茶を注ぐ彼女の手元に興味を惹かれた様子で、湯気が立ち香りが昇るのを見、金で象眼した器をきらきらとした目で見ている。光り物が好きなのかもしれない。
 椅子によじ上ったので、器を持たせてやる。温かい飲み物を熱い様子もなく口にするのは、さすがは水の女神の血筋というところか。
「エルネ。言付けを頼みたいのですが」
 驚いた顔をされ、心当たりを探る。そういえば、名を聞いていなかったのだと思い当たった。構うまいといちるは内容を告げる。どうせ、気味が悪いという印象は己が本質を言い表しているのだ。
 ずっと目を潤ませていたリューシアは、飲食をして少し落ち着いたようだった。自分が何をしたのか分かっていて、何も言えずにいるから、飲むことに向かっている。
「味はどうだ?」
「……おいしい。あまい?」
 尋ねられ、頷く。
「砂糖を入れたから、甘いだろうな」
 重ねて両手の上に顎を置き、言うと、リューシアは面を伏せた。
「おこっている?」
「自分のしたことを反省しているのなら、ごめんなさいと謝るものだ」
 初めて聞く言葉だったのか、吟味するように瞬きをした。考える様子なので同じ言葉をゆっくりと発音すると、いちるの目を真っ直ぐに見て、言った。
「ごめんなさい」
「目を見て言うのはいいことだ。さあ、菓子もおあがり。エマ、どれが美味しいのだったか、リューシアに教えてあげられるか?」
[コレ]
 苺の果実蜜を塗った焼き菓子を示す。手を伸ばしたフロゥディジェンマだったが、ふと手を止め、ひとつ摘むと、リューシアに差し出した。おっかなびっくり受け取ったリューシアはそっと口に運んで小さく噛み砕くと、ゆっくりと嚥下して、微笑んだ。思わずこちらも笑みを浮かべてしまう、あどけない表情だ。
[コレ。コレモ、美味シイ]
 調子をよくしたフロゥディジェンマがどんどん菓子を与え始める。リューシアもみるみる口に入れる。笑顔になる。その繰り返しで、まるで餌付けの様相だ。思わず手の中に笑いを抑え込んだ。これは、可愛い。
 その時、扉が細く開き、アンバーシュが滑り込んできた。
「……ええ、これは俺が預かりますから、あなたたちは戻りなさい。大丈夫ですよ、イチルが相手をしていますから。何かあったら呼びます」
 廊下側に顔を向けて告げ、扉を閉ざすと、少女たちに光景に目を点にした。不思議なものを見ていると言わんばかりに首を傾げている。先ほどまで泣いていた幼子はどこにもいない。
「管理官たちか」といちるが声をかけると、ようやく顔がこちらを向いた。
「かなり心配していたみたいです。あなた一人に相手をさせるのは今回が初めてですからね。幼くても神ですから、粗相があるといけない」
 その様子はなさそうだと、叱った少女を見る目は穏やかだ。いちるは、その手が掴んでいる箱に目を止めた。エルネは言伝を伝えたらしい。
「わたしが頼んだものだ」
「ええ、レイチェルが持ってきました。彼女、心配していましたよ。ところで、何の箱ですか。宝石箱のように見えますが」
「その通りだ」
 内には装飾品を一つしか収めていない。それが他の石を嫌うからだ。
 大粒の青石が現れた瞬間、アンバーシュは絶句した。
「リューシア」
 口の周りを菓子屑だらけにした少女が目を丸くする。その前に行って跪き、首飾りを小さな膝に乗せた。ずしりと重い宝石と同じ色の目を大きくして、魅入っている。汚れた指を伸ばし、思い直して裾で拭うと、今度こそ触れた。冷たい石は、熱を灯したように輝く。
 オルギュットから贈られた銀と青石の首飾り。
 あの男の言ったことが間違いでなければ。
「これが何か分かるか」
「……うん」
 少女の顔が、懐かしさを知る娘のそれになった。
「かあさまのいしだ……」
 石から光が溢れる。水中に生まれる泡のように楕円を描いて立ち上る、水の力。オルギュットは、この青石をビノンクシュトの秘蔵だと言った。いちるはその石に、リューシアの母プロプレシアの面影を見た。ならばと使いをやったのは間違いではなかった。
 場を満たす青い光の中、一人の女が現れる。濃い色の肌、黒い髪と瞳。首元の飾りは手元にあるものと同一で、それが幻影だと知れた。
「かあさま……?」
『かあさまに伝えたいことはある?』
 しかし宿主は水の女神ではない。たおやかな手に見覚えがある。数代前のイバーマ王妃エンチャンティレーアだ。真実を知っているいちるはリューシアを伺ったが、少女にとってそれは構わないことだった。現れた美しい女の姿を目を大きくして見つめ、縁から銀色の涙をこぼした。
「かあさまに会いたい……」
 宝石に宿るエンチャンティレーアは、隔てられた者の顔で微笑んだ。
『ことわりが変わり、世界が、新たな名を与えられれば。きっと叶うでしょう。それまで、人を、世界を、守ってちょうだい』
 女は微笑みをいちるにも向けた。
『この子のおかげで道が分かったわ』
 胸の前で両手を重ねる。
『けれどこの道は、一方にしか行くことができない。この世界は、歪められている。繋がりを断たなくては、正しい回帰が行われない……』
「何を言っている?」
『打たれた楔が世界を歪めている。解放を行わなければ、朽ちていく楔によって世界が滅ぶ』
 エンチャンティレーアの言葉は、遠い声でそのように語る。言葉は、おそらくは彼女自身ではなく別の何者かの語りだ。
「……お前は誰だ?」
 女は答えない。喜びの微笑と解放の穏やかさをたたえたまま、いちるに思考するように促す。夜の匂いのする甘い水の大気がそっと頬を撫で、それが別れになった。
 美しい微笑みを残し、女は消滅した。魔眸に引かれることなく、正しく死を受け入れたのだった。未練は消え、代わりに淡い力を降らせていく。しかしそれも、どこかに触れ、宙に溶ける前にこの世から消え去った。
「道」とアンバーシュが呟いた。
「幼神は、我々が見失ったものを覚えている……」
 宝石への接触で浄化が行われたのだ。そして接続され、彷徨う思念は幼女神に残る記憶に、始まりと終わりの場所への道筋を見出した。いちるたちには、決して見ることのできない。
 アガルタへの。
 二人の視線を受けたリューシアは、己の力を知らず、愛らしい目を開き、困ったように笑うだけだった。

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