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「本当に、あげなくてよかったんですか?」
「お前が見たくないだけだろう」
青石の首飾りについていちるはそう答えた。実兄から弟嫁に贈られた石は、かつては王妃に選ばれた女の持ち物だった。石がビノンクシュトとプロプレシアのものだったので、リューシアに譲ってもよかったのだが、彼女を迎えにきたナゼロフォビナがそこまでしなくてもいいと強固に突っぱねた。甘やかすなと、今回のことを見逃した詫びだったのだろうが、アンバーシュとしては歓迎できなかったらしい。首飾りを見る度に、嫌な顔をするのをいちるは知っていた。
宿っていたエンチャンティレーアが消えると、青石からは虚ろな輝きは消え、元の宝石らしい高貴な光を取り戻している。
「収集品に加えるだけだ。着けぬと約束する。それでも不満か?」
「……妥協します」
収拾に半日を費やし、それぞれの部屋に戻ってきたのが夜更けだった。いちるは話があったのでアンバーシュを訪れ、経過報告を交わしているうちにその話になったのだ。余程根深く気にかかっていたのだろう、言いたいことはそれだけだとアンバーシュはいちるに話を譲った。
「……どうしましたか?」
沈黙したいちるに、アンバーシュが尋ねる。だらしなく腰掛けていたのを背筋を伸ばし、覗き込もうとした。いちるは退き、そこで顔を上げた。唇を結び、不審になったアンバーシュの顔から目を逸らさないまま、分厚い両肩にそれぞれ手を置く。
「え、……え?」
肩の手を支えに伸び上がり、上から覗き込む。見上げる形になった男はぽかんとした。だが無意識だろうか、不安定ないちるの背中に両手を回し、支えようとする。意識して閉じ込めているわけではない。だが、かかった、といちるはほくそ笑んだ。
右手を滑らし、頬を包む。アンバーシュ、と囁いた。
相手の目に揺らめく色が見える。耳を澄まし、近付かなければ聞こえない小さな声で、言う。
「わたしは、お前の何だ?」
「俺の、……花嫁ですよ……」
もつれる言葉に動揺が取れる。何を考えてこの状況を呼んだのか分かっていないからだ。警戒心を緩めぬところはさすがだったが、これ以上煽ると形勢が逆転しそうだと見て取って、いちるは両頬を包み込みながら、囁いた。
「なら……」
目から鼻、唇。唇からもう一度目に。視線をゆっくりと流す。
男の瞼が、いちるの目を追って震えるようだった。
いちるは、アンバーシュの頬から首に指を滑らす。その手を男の肩にかけた。
アンバーシュ、ともう一度呼ぶと男の身体が囁きのくすぐったさに身じろぎし……。
「わたしの頼みを聞いてくれるのだな?」
「………………はい?」
夢から覚めたように瞬いたので、いちるは、にっこりと笑みを浮かべた。
「妃の願いは叶えてくれるのだろう? とても大事な頼みがあるのだが」
驚きで張りつめていた身体が、勢いよく萎んでいくのが手に取れた。手を置いていた肩は下がり、頭を項垂れて、披露した様子で力が抜けていく。
泣きそう、と目を覆ってアンバーシュは言った。
その姿に何故か狼狽させられ、いちるは上から叱りつけるように言っていた。
「ば……馬鹿か! この程度で……そんなに打たれ弱かったか!?」
「自分でもびっくりしてます……」
深い溜め息は、笑いに変えようとしている。
「あなたから触れてくれて、かなり嬉しかったみたいです。いいですよ。お願い、叶えましょう。頑張ってくれたんですから、報いないとね」
「こんなものは初歩中の初歩、努力したうちにも入らぬ! もう少し駆け引きしてみせろ。こんな戯れ、手管にもならん。これで願いを叶えられるなど、わたしの矜持が許さない」
「……もっとすごいんですか」
「もちろん。見せてやるから、わたしを愉しませろ、…………」
顔を覆っていた手が離れ、目の光を捉えた途端、いちるは言葉を詰まらせた。
嵌まった、と気付く。
「う、……っ!」
己が絡めとっていたはずのものが逆転した。アンバーシュの腕に拘束されるが、倒れ込むことなく、膝の上に留められたまま。しかし逃げることができず、膝を揺すられると、身体が小さく跳ねた。
「見せてくれるんですか?」
嘘泣きだ。煽られたのだ。それに乗ってしまい、言質を取られた。口惜しい。こういう男だと分かっていたはずなのに。いちるが悔しさのあまり顔を真っ赤にさせて、結局、破れかぶれに腕を伸ばした。
*
結晶宮の入り口に当たる、屋外の広い場所に宮廷管理官が集まっていた。クゥイル、エルネ、ジェファンたち管理官諸氏、他官で宮廷管理庁に出向している官吏も顔を揃えている。ロレリアとエシが姿を見せると一斉に頭を垂れ、最前に立ったロレリア宮廷管理長官は、一度、空を仰いだ。
夏の日の朝、昼中の暑気を予感させる青空だが、風が出ていて涼しい。建物の向こうには薄い雲がかかっている。その下で噂を交わす者たちの表情に、疑惑とわずらわしさが浮かんでいた。大気が熱せられるように、次第に感情が熱を上げていく。
いったい、何を考えているのだ。
こんな改革に意味はあるのか。
あの王妃が何かを考えたのだ。でなければ陛下がそんなことを認めるはずがない……。
その目前で、扉が開いた。
結晶宮に向かい合う形で集まっていた諸官は、内部から扉を開いたいちるを正面から迎えることになった。王妃がやってきたなら、面を伏せて舌を出し、背を向け、言葉を聞き流そうとしていた者たちは不意をつかれ、唖然としていた。
いちるは、紺碧の官服とその下に簡素な紺のドレスを身につけ、どよめく一同を前に、傲慢にも見える仕草で顎を上げた。
「国王の宣布を、諸官も聞き及んでいることでしょう」
その場にいた者たちの懸念に、いちるはまず切り込んだ。聴衆の耳目が集まった瞬間、次の言葉を投げかける。
「諸官が案じている通り、国王に進言したのはわたくしでした。わたくしは異国の者なれど、それゆえに、その名称について疑問を感じていたからです。わたくしの考えを国王は尋ねられ、思うままに答えました。今、ここに集まった諸官に、それを述べたいと思います」
ざわめきは静まった。風がそよと吹く音が聞こえるほどだった。
「――何故、このように生まれたのか。程度の差はあれど、宮廷管理官に名を連ねる者の多くは、神、精、霊との交感を行うことが可能です。しかし前時代、国王アンバーシュは我ら異能の巫と、国の政を分けんがため、宮廷管理官という区分を設けました。異能の者が権力を得ることのなきよう、我が身を特別と驕らぬよう。――だが己の生まれは覆せない」
何人かがはっと顔を上げた。
「特別な力、特別な感覚、見えるもの、見えないものの差。決して埋められぬものがあります。厭うたことがあるでしょう。厭われたことがあるでしょう。しかし力の使い方を知ることは己を知ること。ならばわたくしは一つだけ指し示すことができる。――あなた方は特別だ。特別ゆえに、我らは神と人を繋ぐべき存在とならねばならない」
アストラスと呼ばれる西の神々は、人に混ざり、空を舞い、傍らにあるものだ。ヴェルタファレンの民は最も近しいところでアンバーシュという半神から平穏を与えられている。戦女神カレンミーアの訪れはほとんどなく、ビナー大河のかかる東側は洪水を起こすことなく、少年たちが多いという風の神々は気まぐれに大風を起こすが、それも恩恵だ。雨神が雨を、雪神が雪を、花の女神が訪いを止めることなく、子どもの守護神は結びついた夫婦に祝福を与えていく。
ありふれたもの、ありのままの世界に、それらを強く感じる者たちがいる。いちるのように特殊な能力で干渉するのではなく、フロゥディジェンマという光の神狼の子どもを見て、世話を焼いてやるような心の持ち主。その者たちを宮廷管理官と呼んでいた。
「伝えよ」
いちるは言った。
「この世にあるものを、あるがままに。人よりよく見える目で。他者よりよく聞こえる耳で。触れる感覚で、鼻で、舌で。そして見えず聞こえず触れることもないもう一つの感覚を用いて、わたくしたちは伝えていかねばならない。神々はここに、わたくしたちの傍らにいるのだと。ゆえに」
手振りは小さく、いちるが行ったのは彼らの目を見ることだった。視覚を用いない感覚で、耳で、彼らの行いに耳を澄まし、聞こえるようにと願った。
「ゆえに、宮廷管理官を『特異交感守護官』と名を改め、宮廷管理庁を特異外交庁とする。諸守護官は己が特殊能力者であることを自覚し、神々と繋がることを恐れずにあれ。それが、我らが神々に愛されていると伝えることになるのだから」
天の光が射したことに、いちるは気付いた。これは誰の仕業だろう。決まって、雲を解き、光を投げかけ、行いを後悔するなと励ましを送ってくれる者は。夏雲の白は淡く、日にかかった暈が明るい輪を作る。
ロレリアを筆頭とした守護官たちが膝を折る姿が、遠くへと光の範囲を広げていくのと同調していた。
彼らは頭を垂れた。
「――わたくしども特異交感守護官は、総長イチル様を心より歓迎申し上げます……」
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