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 考え込んでいるときのいちるは、静かだ。
 いつもどこか張りつめたようにして、辺りの空気を固くしているのだが、自分の内側に沈んでいる彼女は、膝を抱えた子どものように気配が小さくなる。呼吸だけが聞こえる小さな存在になって、落ち込んでいるようにすら見える。
 後悔しないといういちるがそうしている時、考え込んでいるのではなく、後悔を見据えているのだ。
 後悔はしない、けれど。そう立ち返らせるもののせいで、いちるは静かに、それが正しいものであったか、でなければどうすればいいかを考える。
 じっと己を省みているいちるに、馬車から下りるのに手を貸しながら、アンバーシュは言った。
「何か気になることがあったら、さっきみたいに部屋に来てください。来てくれて、嬉しかったから」
「お前は仕事をしろ」
 むっと唇を合わせて言う。本心を言い表さない裏腹な言葉に「はい」と素直に頷いた。
 女官たちのいる白花宮へ向かういちるを見守りながら、アンバーシュは額を押さえた。
(うーん……)
 細身で華奢というよりも折れそうだったいちるには、この国の衣装は、危ういほど似合っている。幼い容姿とは裏腹に、態度と醸し出す雰囲気が艶やかだからだ。背中の薄さと、髪が短いせいで首の細さが目立っていた。
 裾さばきも手慣れた様子だし、毎日の食事作法も問題ない。社交の方は数をこなしていないので不安要素だが、いちるならばうまく切り抜けられると信じているし、助力は厭わないつもりだ。言葉もずいぶん上手くなった。しかしそんなことよりも――。
(征服したい、っていう欲求が、なかなかきついな……)
 いちるの信念は自立だ。揺るぎない己への絶大な誇り。己を己たらしめる、自身で道を開いてきた強さに惹かれたことは事実だった。しかし勝手なことに、そんな彼女を屈服させてみたいと思うことも本音だった。
(嫌がる顔が好きなんだな)
 我ながら性格が悪い。嫌がっている顔で、実はそうでないというのがとてもいいと思う。そこまで気持ちを許してくれるところが可愛いと感じるし、なんだかんだ言って怒りながら萎むようにして赤くなった顔は、両手で挟んで何度もキスをしたい。
 そこまで考えて、顔を拳で隠す。
(まずい…………キスが好きらしいってことを思い出すと、顔がにやける……)
 いちるの文化にとって、唇で触れることは羞恥を覚えるらしい。衆目では頬にすら拒否される。だというのに、誰も見ていないところではずいぶん可愛い顔をして許してくれるものだから、顔がにやけ崩れてしまう。
 可愛い。本当に、可愛い。意地張って可愛げのないところにも、可愛いと感じてしまう。
(どうやったらべたべたに甘やかしてあげられるだろう。触れるだけじゃだめだ。もっと、深いところを抱えてあげたい)
 しかしそこに至るまでにどれだけ拒絶されるだろうと考えると、道程はなかなかに遠そうだった。気が長いなどとは、もう言っていられない。



 アンバーシュは茶に来ると言ったが、用意だけ揃えて、いちるは長椅子でうたた寝をしていた。出歩いたせいで、少し眠気が来たのだ。疲れやすい体質に変わったのか、そうなった時は無理せずに休むことにしている。アンバーシュも文句は言わぬだろう。
 ぱきり、と割れる音がする。閉ざした瞼の暗闇の中で響く。芽が割れる音。枝がしなる音、ひび割れる音。
 呪詛の枝葉が伸びて来る。
 呪いの動きは安定しない。ふとした時に動き、いちるの活力を糧に心臓を目指して来る。ゆっくりといちるは眠りに誘われる。苦痛を覚えないのは幸いだが、身体が冷えるのが困った。息が震える。
(アンバーシュが、来る……)
 来るな、と思う。欲しくない。そんな口づけは要らない。
 身体を起こして迎えれば気付かれないと思うのに、眠りに引きずられていくのが重く、心地がよい。深く眠れば、安らぐことが分かる。
 眠りたい。
「イチル」
 それを遮るかのような声がした。
「まったく……調子が悪いなら、先に言いなさい。口、開けて」
 偉そうに命じるな。言う側から口を割っているくせに。
 奪われた力を新しく与えられて、胸が大きく上下した。肺を満たしていた鉛のような影が、流されていく。大きく息を吸って吐くと、目を開く気力になった。
「……馬鹿者が」
「それ、何に対して言ってるんですか?」
「触れるな」
 夢うつつの声音は存外はっきりとしていた。
 アンバーシュの答えは、思いきり押さえつけることだった。
「むぅ……っ」
 呼吸を欲する。もがいてもままならなかった。ゆえに、思いきり男の腕に爪を立てた。袖を握りしめ、息苦しさを訴えた。
[あなたが悪い]
 声が発せないので頭に言葉を打ち込んで来る。
[どうすれば甘やかせるか考えた時間、返してください]
「知ら……っ!」
 息を呑む。行動だけでなく、目でも捕らえられると、動きが鈍る。薄青の瞳が底光りして、背筋が粟立つ。逃げるべくもがくと肩を押さえられる。この男は、動きを封じる術を心得ている。
「アンバーシュ!」
「……わざとやってるんなら、もう少し優しくするんですけど、あなたが悪いんですからね? 可愛くないところを、可愛くないなって思う時もあるんですよ」
「何のことだ……!」
 離せと怒鳴るが、隣室から控えているはずの女官たちが来ない。事前にアンバーシュが言い含めているのだ。肩と腕を押さえ、身体が動かないように固定し、それでもなおいちるがもがく様を眺めていたアンバーシュが、ふと顔をしかめた。
「ねえ、イチル。聞きたいんですけど」
「離、せ……!」
 聞いていない。腕がびくともしない。別段太くもないが、力がないわけではないのだ。いちるなど、軽々と封じられる。
「優しい俺と、こういう無理矢理な俺、どっちが好きですか?」
「は!?」
 さすがに、動きを止めざるをえなかった。
 アンバーシュはどうやら、真剣に尋ねている。
「こう何度も繰り返してると、優しくない方がいいのかと思うんですが、俺は優しくしたいんですよね。でも、煽られるとね。要求には応えてしまうんですよ。意地悪な方がどっちも言い訳がしやすいから、こうなるのかな……?」
 それが先の質問になるのか。突飛な行動に出るのは、間違いなく西神の血だという気がした。押さえつけておきながら、こうなるのかな? ではない。忙しない呼吸でわずかに動くことすら、見逃さぬよう目を光らせているくせに。
「俺は、こうしているのも楽しくはあるんですけど」
 優位に立っているからだ。逆に押さえつけられたら、いちるのように不快な思いをするに決まっている。いちるが男ならば、これを喜ばすことはなかろう。
「どうしたら、優しくできるのか」
 片方を押さえたまま、もう一方の手の甲がいちるの頬を撫でる。硬い骨が当たって、渇いた肌がさらりと触れた。熱い頬に、その肌は温く冷たい。
「ねえ、教えてください。どちらがいいですか?」
 いちるは顔を背けた。
 そうして、アンバーシュは身体を起こしいちるも引き上げて座らせた。
 瞬きをして、男の顔を眺めた。答えを迫らないところがらしくなかった。背もたれに肘をついて、苦笑いしているように見える。
「手段がよくなかったと思うので、仕切り直します」
 言ったかと思うと、倒された。向こうへではなく、こちら側に。
 アンバーシュの胸に抱きとめられ、腕の中へ。行き場がない手がだらりと下がるが、隙間を埋めるように身体を寄せられる。息を吸い込んだ合間に閉じ込められ、息を吐くのも恐れるほど近い。呼吸するだけで触れ合う。
 腹立ち、怒り、唇を結んだというのに、こうされるだけで心が解けてしまう己の単純さに、舌打ちしたい気持ちだった。気持ちだけで、本当にそうはならなかった。ただ、震える息を吐き出した。温もりに吸い込まれて、目を閉じる。
 強引かと思えば優しく、くるおしく思えることも、いとおしいときもある。
 下げていた腕を伸ばし、肩に頭を置いて、手を少し離れたところに添えた。
「どっち?」
(どちらでも、好きなように)
 この男を見出した時に、いちるはすべて許している。
 絶対に、教えることはないけれど。

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