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 そうして、ぽつりと言うのだった。
「喉が渇いた」
「そういえば、喧嘩じゃなくて、お茶を飲みにきたんでした」
 言いながら、アンバーシュは離れない。いちるの背に掌を当てて、柔らかく撫でさすっている。皮が薄いので骨と筋が当たる。それよりも衣装の生地が夏の仕様なので、以前よりも薄いのだ。おかげで、熱い。
「暑い」
「そろそろ夏ですねえ。一週間くらい避暑しますか。ラフディアとかあの辺りに」
「暇がない」
「時間は作るものです。したいことをするつもりならね」
 だからいつまでこうしているのだとは、どちらも言い出さない。結局どうなのだとアンバーシュは問いを重ねない。いちるも答えない。どちらにもなるのだ。いちるも、許さないと言うときが必ず来る。心は同じままに留められぬ。だからこそ、結びつこうと力を尽くすものであると思う。
「ジュゼットが、わたしが、以前より楽に呼吸しているように見えると言っていた」
「楽になったものもあるし、重くなったものもあるでしょう?」
 いちるは目を瞬かせた。耳元で笑う気配。
「そういうことです」
 胸の奥の重み。
 それは、いちるがそれまでに抱えたことのなかった懊悩の欠片。アンバーシュのやり取りで得た、心の兆し。果たしてそれが愛と呼ばれるものかは分からないままに、抱えていればいいと思った。そのくらいの余地は、ある。
 いちるは手を伸ばし、アンバーシュの頬をなぞった。アンバーシュはうっとりと瞼を下ろしたが、次の瞬間見開かれることになる。
「いたたたっ!」
「やっぱり最初から分かっていたのではないか!」
 爪を食い込ませるようにして摘まみ上げる。跡がつくので相当に痛いはずだ。ひとしきり叫ばせると気が済んだ。二筋残った赤い跡を、今度は指の腹でなぞる。すると、それ程度のものは消えてしまっているのだ。
「謀るとこうなる」
「俺は優しくしてくれる方がいいなあ……落ち込んでる時に嬉々として傷を抉られたらどうしましょう」
 いちるは婉然とわらった。
「泣きたくなったらわたしをお呼び。きっと満足させてやるから」
「それは楽しみ、って素直に言えないところがなんとも……」
 そうしていると、本当に喉が渇いてきた。茶器を持ち上げると中身は空だ。湯でなくとも構わぬので、一声かけようと続き部屋に足を踏み入れたときだった。蜘蛛の子を散らすように娘たちが奥のもう一つの扉から駆け去っていく。呆気にとられるいちるの前で、勇気ある者が三人、立っていた。
 厳かに、レイチェルが言った。
「お呼びですか?」
「茶の用意を頼みます」
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
 ジュゼットが出て行く。ネイサが奥へ消えた。いちるはレイチェルに頷き、尋ねた。
「『あれ』らは?」
「先頃妃陛下付きになった者たちです。まだ慣れていないので、刺激が強すぎたのでしょう」
 最初期につけられた三人の女官たちをつくづくと眺めた。
「慣れてもらわねば困ります」
「申し訳ありません。これから指導してまいります」
 ふっと笑い合った。
 いちるは部屋へ戻り、アンバーシュが勝手に茶器を表に返して、戻ってきたジュゼットから熱い茶を受け取った。二人でいることを何の疑問にも思っていないらしい女官の様子を、いちるはそれと知られぬよう眺めた。何でもすぐに顔に出るこの娘は、いちるとアンバーシュが並んでいることに、何が嬉しいのかという顔をしている。
 どういうことか、それだけで胸の重みはふわりと浮いた。
「ジュゼット」
 呼んだ。はい、と返される。
「美味です。今日のものは、香りが軽やかだ」
 疑問に思った顔つきでしげしげといちるを見返した娘は、はっとしてアンバーシュを見、男が何だと見返す間にいちるに視線を戻し、激しい様子で何度も頷いた。満面の笑みで、そう言った。
「はい。よかったです!」
 アンバーシュは、解き明かせなくとも、それでいいと思ったようだった。

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