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 土産の持ち帰りに苦心せずに済んだと喜んだのもつかの間、アンザたちを卒倒させる前に辞去することにした。国王その人の姿は知らずとも、いちると共にいればどのような関係か知れよう。琥珀を溶かし込んだ黄金の髪、空色の瞳をした美丈夫というだけでも何者か察せられたらしい。どのようにもてなそうか右往左往され、権力からまだ遠い幼子は不思議そうにしていた。いちるはとりあえず菓子を包んでほしいと頼み、アンバーシュも構わないでいいと言って、全員に見送られ、城へ戻った。
 途中、アンバーシュの「話があります」という言葉を、いちるは、静かな住処を見守る微笑みを浮かべたまま聞いた。
 結晶宮で最初に行き会ったクゥイル特異守護官に、宮の一室の使用と完全な人払いを告げる。
「クロードはちゃんとミザントリの元へ帰っているのか?」
「昨日イバーマへ使いに出したんですが、まだ戻ってきていないようでしたね。オルギュットと入れ違いになったのかもしれません」
 世間話からになったのは、いちるが聞きづらく、アンバーシュが言いづらかったからだ。
 クロードは国王の側使えとして城に私室が与えられていたが、ミザントリがディアスを出産して以降はロッテンヒルにある別邸を家にしている。だが帰宅が遅くなると王宮で休むこともあり、彼を拘束しているアンバーシュらは時折いちるの批難の対象になった。ただでさえ不安定な立場、己とは異種である息子を得て、隠れ住んでいる友の不安を想像するとそうなる。特にクロードは足が速く、至急の伝令や、神々とのやり取りに遣われることが多い。今回もその類だ。
「そのオルギュットはお前に聞けと言っていた。何を話した」
 アンバーシュは椅子を示した。長くなるというのだ。己はそこに立ったまま、後ろ手を組む。
「オルギュットが来たのは定例報告と、忠告です。気になることがあったので耳に入れておこうということでした。……大神に呼び出されたまま、姿を消して見なくなった神が増えているそうです」
 その目的をいちるは瞬時に考えた。
 大神の命令で動くものが多く存在し、姿を見せなくなるということは、囚われているか、戻れぬ状況にあるということ。それが続くのは、目的が達せられていないか、数が必要なのか。目的が複数ある場合も考えられる。その理由が明かされないのならば、アガルタに関わるものの可能性が高い。
 アガルタという楽園と乙女たちの存在は、未だほとんどの神に知られぬままだった。こちらの味方を増やそうにも、あらゆるところに目がある。また、アンバーシュとオルギュットが沈黙していることこそが、刹那の安寧の条件とも感じられていた。
 だが、その終わりが近づくということは、つまりアストラスは神々を遣わして、アガルタの門を明けようとしているが未だ達せられず、いちるに手を伸ばしてくる可能性が高まっているということだ。
「近しい者の所在は確認できたか」
「今のところは。ナゼロも、リューシアも。カレンミーアも他の知り合いたちも無事のようです。この国にも異変は感じられません。クロードのことが気になるので眷属を飛ばしましたが、すぐに戻ると返事がありましたから」
 とりあえずは胸を撫で下ろす。現在離れているクロードが最も危険だった。オルギュットが、王都から離れた場所に住むミザントリを訪ねてきたのと同じ理由だ。交わした言葉を思い出し、額を押さえた。
「義兄上に頭が上がらなくなりそうだ」
「あれはしたいことしかしないので構いませんよ。さて、これからの行動ですが」
 婚姻を結んで三年、準備を整えてあった。隠れ家を作り、アストラスに命の潰えるまでの猶予を与えてほしいと条件を提示するために、大神の弱味を探した。だが、苦しいことにアストラスの心臓を握るほどの弱点は見つからず、現状、逃げ回ることしかできそうにない。
 誰との間に子を作っても、どんな女神が悋気を抱こうともアストラスには勝てず、神をも殺す神獣は大神そのひとに弱点を握られて牙を剥くことが出来ない。平らかに見えて、大神に偏っている世界の在り方に、いちるもアンバーシュも疑問を抱いた。
 この世界は、何かが不足しているのかもしれない。
 ただ、それを見つけ出すには時間が必要であり、今はその残りがわずかだと宣告されている。アンバーシュは言い出したものの、明確な答えが見つからない様子で考える素振りを見せた。
「……大神が、国一つを滅ぼすつもりでやって来ないとも限らない、というのが問題です。居場所を知られないことが、最も有用な策であると判断しますが」
「封じの魔石は揃えた。人や獣の口から出たものを聞く者がいるゆえ、それに気をつけさえすればいい。魔石の囲まれた場所で動かず過ごすというのはしばらく有用だとわたしも思う」
 事が起こる瞬間を見極め、逃亡する生活が始まる。いちるは、己がいなくなったヴェルタファレンを思い描いた。王妃として担っている、各貴族のまとまりが崩れる可能性。首根を押さえている数人の官吏たちの暴走への懸念。王妃不在によって攻勢に転じるであろう女たち。特異守護官たちへの心配は少ないのは幸いだった。ロレリアという才女が彼らをまとめてくれるだろう。
 大神を除く神が人間をおもねるという言葉を信じ、しばらくは様子を見る。王都ほど、人が住まう土地で暴虐は尽くすまい。悪神として追われれば、神々は弱体化する。そうして魔に落ちれば、大神の狩りの対象になるのだ。
「大神に打って出る術が見つかれば、一人で乗り込んでいくものを」
 呟きにアンバーシュが苦笑を返す。
「アガルタへの道を俺たちが先に見つけるか、あなたが関わらない形の別の方法を提示するか、ぐらいでしょうか。しかし、俺たちにアガルタの記憶はない。本当にアガルタというところがあるかも疑わしいと思ってしまいますが」
 最前の言葉が蘇る。
 いちるは呟いた。
「オルギュットが言っていた。――帰らぬものを求め、届かぬものを愛する。それが大神の本質なのだと」
 では、アストラスにとって『何』が帰らず、『何』が届かぬものか。
「アストラスの始まりは、アガルタではなく三柱の元ではないのか。隔てられているのはアガルタという門を経た三柱を指すのではないのか? そこへ至って、何を成そうというのだろう……」
 ふとアンバーシュが顔を上げた。いちるも遅れて気付く。結晶宮の大気、建物の柱や壁を細かく震わす何者かの強大な気配。アストラスかと考えてすぐに打ち消す。大神が降臨せしめれば、この程度では済まない。
 ん、とアンバーシュが額を押さえた。眉間に皺を寄せて、耳を澄ましている様子だった。しばらくして振動が微弱なものへ変わり、アンバーシュも顔を上げた。
「……知り合いが来ました。俺を呼んでいるようなので、行きます」
「一人でいいか」
「多分ね。彼女は攻撃能力のある神ではありませんから。話をしにきたそうです。何か知らせにきたのかも」
 何者か知っている風だが、名を出さない。いちるが眉をひそめると観念したように「キッサニーナですよ」と愛の女神を名をあげた。以前も忍び込んできた、古い神のひとりでいちるとも面識がある。
「ならば、わたしがいた方が話が有利に働くのではないか」
「彼女もしたいことしかしない性分です。まあ、あなたが身を投げ出せば心を動かすかもしれませんが、そんなのは俺が耐えられないので、留守番をお願いします」
 頬に軽い口づけを落として行ってしまう。それでもアンバーシュが信用できないのは、あれが嘘つきの性分で、笑顔で己の我がままを包んでしまうからだ。包みを差し出された相手は中身をはっきりと理解しないまま、鵜呑みにさせられることがある。
 どうしたものか数秒思案したが、仕方なしと肩を落とした。我がままを言うだけの気力と勝算があるのだから、あれ自身がなんとかすべきだろう。それで負けて戻ってきたのなら、慰めてやればいいのだ。



 結界のある一室に入り込むと、愛を司る女神は紅色の髪に暁の色の衣をまとっていた。豊かに波打つ髪はわずかに揺れる度に、色を撒いて輝いた。衣はゆっくりと朝の空のように濃い色へ、やがて青空の色へと変わっていくところだった。
「一人で来たね。偉い偉い」
「無視すると何があるか分かりませんから。何の話ですか?」
「そろそろ時間切れだと知らせにきたの」
 アンバーシュは女神の顔を見つめた。自分が幼い頃から、妙齢の女で、美しく、華やかな炎のようだった女神キッサニーナ。生まれて彼女の口づけを受けたものは愛の豊かな人生に恵まれ、勝負事に関わるものは彼女の口づけが降ってくることを願って讃える。口づけを受けた者は、勝負事に勝つことが約束される。戦女神カレンミーアよりも優しい、他愛ない、しかし人生という時間を賭けた戦いにだ。
 数年前、彼女の口づけを受けたであろう妻を思い浮かべ、アンバーシュは賭けてもいいと判断した。
「あなたが神々を抑えるために使った理由を、知っています」
 猫の目のように、しかし光の中でキッサニーナの目が輝いた。しかし顎を傲然とあげ、胸を張った。開き直ったのだ。
「責めるつもり?」
「もう少し時間が稼げる嘘をついてほしかったというのが本音です」
「この私が、私の口で言わなければ、他の者を納得させられなかったのよ。それを理解している?」
 キッサニーナ。口づけを意味する言葉の由来になった女神。愛と勝負を司る、起源の古い女神。愛の女神が口にすれば説得力が増すであろう言葉は、ともすれば破滅に近い。それとも、その終わりを女神は望んだのだろうか。
 潰えていく望みがあると、いつか誰かが呪っていった。
「子どもは」
 たった一言は、アンバーシュに目眩をもたらす。目を閉じる。暗闇の中では、世界が回転するのが少しだけ和らぐ。
「……子どもは、望めるはずがありません。その子は、母親と同じ運命を背負わされるかもしれないのに」
 キッサニーナの衣が、夕暮れの橙色へ、紫へと変わっていく。安らぎではなく、意識を飲み込まれる更夜を予感させる濃い紫暗。キッサニーナの眼は月と同じ金の色だ。魔が笑うとすればその顔になる。
「産まれるはずだった、普通ならばね。私は愛の女神。あなたたちを視ていたわ――あなたたちは新しい神の父母になる資格があった。けれどそうはならなかった。私は、私の力の及ばぬ領域の者が操作したように感じられる」
「アストラスが?」
「それよりももっと古い」
 一瞬、意味するものが受け取れず、間を置いてしまった。遅れて理解し、棒立ちになった時には、キッサニーナは異界へと半身を滑り込ませている。
「時間があると思うのならば諦めないことね。その呪縛は、私たちとは異なる者によるもの。勝てるかもしれない。だって」
 笑みを置いて、キッサニーナは消えた。
「生きているものの方が、強いもの」

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