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 ――森の中、木の葉が落ちて鮮やかな雨のようだ。周囲が金色に染まっているのは、夕暮れの色。沈みゆく光がまばゆい黄金で世界を輝かせる。子どもが絵で描くならばそれだろうという小さな家がある。しかしその光景に覚えるのは寂しさだった。
 誰の悲しみだろう。
 遠ざかっていく。背を向けずに、建物が遠ざかって見えるのは、見ている者がそこに心を残しているからだ。後ろ髪を引かれ、去らねばならぬ孤独が、肌に冷たく感じられる……。

 思いの名残を覚えたまま、いちるは目が覚め、その日一日の予定を決めた。
 前夜、言葉少なにキッサニーナとの会見を伝えただけのアンバーシュは、深く理由を尋ねることはしなかった。先の夜、必死さを押し隠すようにしていた自分を追及されたくなかったからだろう。いちるは揚々と支度をし、再びミザントリの隠れ家を訪れた。遠くへ遊びに出掛けているディアスは姿を見せず、二日続けて現れた訪れ人に女主人は不思議そうな顔をする。いちるは言った。
「軽い家出です。今日は泊まります」
 ミザントリは天を仰いだ。



 勝手知ったる隠れ家であったので、ミザントリの私物の書物を読み、うたた寝をし、食事を運んでもらって日が暮れた。彼女の手製らしい端切合わせの掛け物が身体にあり、布に染み込んだ甘い草の香りを吸い込んだ。いちるを起こさぬように家人の遠ざかっており、窓辺の薄物の帳が、夕日で長くなった木の葉の影を透かしている。
 額から髪を掻きあげる。癒しきれぬ澱が、目の奥に溜まっている気がした。胸の上にあった書物は、机の上に乗せられている。
(眠気に抗えなくなっている)
 このような時に実感する。己の意識が徐々に底無しの場所に近付いている。
 腹部の起点に小さな渦を巻いていた呪詛は、三年で芽を出し、天と地双方に広がっていた。行き渡りやすい場所があるのか、右足の付け根に呪詛の蔓が絡んでいる。左足はそれに比べると大人しい。心の臟が止まる前に足が動かなくなる可能性もあるのだ。呪わしい身体だった。
 ざっと外で風が立った。枝に葉がある季節は、自然なのか別の物なのか判断しやすい。何者かがいることを知って、いちるは起き上がった。髪を整え、衣服を整えると、帳を払い窓を開けて外を覗いた。茶色の髪が見え、誰なのか分かった。
「クロード」
 はっと仰いだ男は、心持ち青ざめた顔をしている。驚いたにしては、目が不自然に揺れていた。
「戻っていたのか」
「……はい。こちらにお越しとは思いませんでした。アンバーシュも一緒ですか?」
「わたし一人だ」
 そうですか、と呟いた時、胸を撫で下ろした様子だったのが気になった。何か悪い知らせでも持ってきたのか。問いただす前に「姫」と再び仰がれる。いちるは露台の上、そのように地上から振り仰がれると、己が天上のものであるかのように錯覚する。
「――彼女をよろしくお願いいたします」
 不自然な風が起こり、天馬が空を飛翔していた。言葉をかける暇もなかった。異様な胸騒ぎにつかの間動きが取れなくなる。クロードの顔が焼きついて離れない。優しい面立ちの男は、少女のように儚く無垢な顔をして微笑んでいた。
『少女』から連想するものは、失われるものの予感、暗さ、寂しさ、芯に秘めた強さの証。
 いちるは室内へ取って返し、ミザントリを呼ばわった。果たして、彼女は寝室にいた。帳の下りた薄暗い部屋に立ち尽くし、いちるが強く名を呼ぶと、大きく身体を揺さぶって、怖々と振り向いた。
 膝が崩れる瞬間に抱きとめる。
 細い指先が食い込むほど強くいちるに縋った。
「あの人が――」
 続けられる言葉はなかったが、分かってしまった。
 大神に呼ばれた神が姿を消している。その多くが戻ってきた様子がない。だが未だアンバーシュとオルギュットの周囲は平穏で、彼らは己の領域が侵されることがないか気を張っていた。オルギュットが知らせを持ってきた現在、離れているクロードを心配し、すぐに戻ると返答があった。
 しかし彼らの多くは嘘を用いる。
 クロードは戻ってきた。だが、その途中で神山に呼ばれたならどうだろう?
「あの人が……あの人がお別れをと……道を見出せと命じられたと、あの人が……」
「ミザントリ」
 大神に命じられ、別れを告げる暇を貰ってきた。だが、アンバーシュに会うつもりはなかったのに、いちるがそこにいた。彼は別れを告げると逃げるように向かったのだ。大神の命令を完遂するために。
 みるみる気力が失われていくのを感じる。血の気が下がり、心が萎える。いちるの目には胎内の子が大きく暴れたように映った。このままでは危ない。気を落ち着かせねば障りがある。短く切られている爪がそれでも皮膚に刺さるのに構わず、いちるは意識をそこへやった。
 廻る力、転じる力を、正の方向へ回す。
「心を鎮めろ。取り乱せば、影響が及ぶのはお前だけではない」
 悲嘆に囚われ淀んでいく力を洗い流し、身体をさすって暖めるように気力に熱を与えた。己の至らなさに唇を噛み切りそうになる。こうなることを最も恐れていた。苦痛も悲しみも己が負わねばならぬのなら、負ってみせよう。耐えてみせよう。だが、それが肩代わりしえぬ他者にかかるのなら、越えようがない。
(妾の代わりに痛む者があってはならぬというのに!)
 せめて落ちていかぬよう、温い血が爪の間から彼女を温もらせることを祈るしかできない。それでもやっと冷たかった指先に温もりが戻ったところで、呼ぶ声がした。
[しゃんぐりら!]
 銀の光が揺れ、少女神が姿を現す。無感情な赤い瞳は、今は大きく見開かれ、いちるの元に駆け寄ってくる。
 落ち着いたミザントリは、眠気を覚えて深く呼吸を繰り返していた。双方を支えることはできず、いちるは家人を呼んだ。アンザの応える声が階下からくる。
「エマ。どうした」
[あすとらす動イタ。エマ、モ、動ク。しゃんぐりら、連レテ行ク!]
「エ……っ!?」
 腕を引かれた瞬間、風景が大きく歪んだ。
 水が流入するようにしてひずみ、札を返すように反転する。その上から掻き回す激しさで揺さぶられ、目に映るものが毒になると気付いて目を閉じ、もう一つの目も閉じた。
 音がとっくに意味をなさず、聞こえているのに何も聞こえないざまだ。
 混乱と無秩序のただ中に放り出され、己の内も外も掻き乱され、胃から込み上げたとき、いちるはどこかに伏していた。
 心地よい、冷たく滑らかな感触。板の間。木の香り。はっと身体を起こすと、木で作り上げられた一間にいた。室内には何もない。だが、丸太と木板で組み上げられた風景は、いちるの胸をざわめかせた。
 覚えがある。懐かしい、しかし見知らぬ場所。だがこの空気は。
 常ならば見ようとする周囲の気配を、恐れるあまりに探れずにいた。傍らにはフロゥディジェンマが立っている。顔色一つ変えず、近付いてくる物音を聞いており、いちるは彼女を身体の後ろに隠した。
 だが、次の瞬間姿を現した人物に、驚愕のあまり少女に説明を求める目を向けてしまった。それは相手も同じく、困惑と吃驚の顔で西の少女神を呼んだ。
[フロゥディジェンマ殿……何故に]
[助ケテ]
 一歩進み出て少女は言った。
 相手は、東の大神の末の子。
[スズル、以前、助ケテクレタ。エマ、今度ハ、スズルノ力ニナルカラ!]
 黒い髪と黒い瞳、己と同じ人種の見た目を有した東神がいるのならば、この場所が知れようというもの。
 ――東島。アマノミヤと呼ばれる東神の治める地。いちるがかつてあったところ。
 二百年の間になかったであろうほど驚いたいちるは、そのまま座り込んでしまいたいと欲求と戦わねばならなかった。少女は、自分がどれほど番外なことをしてしまったか分かっているのだろうか。しかし子どもが助けを求めるように言い募る。愛らしく美しい少女に訴えられ、真っ向から否定できる者があろうか。
[オ願イ。助ケテ]
 珠洲流が立ち尽くすのも最もだと、いちるは思った。





 すべての声を内包し、あらゆる意識を携え、広く共通するその存在の中で、自我を持つ者は強者とされる。ともすれば溶けて曖昧になる存在を己の意識で保つ者は、個として認識され、名を持つことを許される。大抵の場合、それはかつて人間という種であったことが多い。強い負の執着を抱いたもの、憎しみ、悲しみで自身を塗りつぶしてしまったものが、その名で呼ばれる。
 悪。魔。異眸の者たち。――魔眸。
 広い意識に溶けていた己を寄り集め、個を成した男は不可思議な色で輝く目で常闇を見渡し、くつくつと楽しげにしていた。男は見ていた。かつて手放した小鳥のごとく愛玩していた女が、再び籠の近くに舞い戻ってきたことを。
「よう堪えたと思わぬか? 時を待てと亡者どもが囁くのでその通りにしてやったが、そろそろ望んでもよい頃合いだろう。このままではあの女は朽ちてしまう」
 無数の囁きが常に一方へと向けられたままの闇の中、「然り」と唯一の答えがあった。僅かに酔った男の声は、低く、滑らかで朗々としている。
「口惜しい。あれは、始まりはわたしのものであったというのに。西の神の、それも半神に預けねばならぬとは」
「千年姫はほとりの娘なれば」
「然り。我らの元にあるがさだめの女よ」
 ディセンダ、と男は返答の主の名を呼ぶ。
「住まいを整えねばならぬ。女は錦で飾ってやらねばならぬ。女は美食であったがゆえ、飽食を味わわせてやらねばならぬ。出来るか」
「叶いましょう、闇の御方が望むならば」
 声の持ち主たちは闇の中へ溶け消える。覆い尽くすかのように、囁きが蟻のごとく群がっていった。その多数に、軋むような音が上がった。

「あれは、神の願いを叶える女――」

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