<<  ―    ―  >>

 ……靄がかかっている。世界が、白い大気にたなびいていた。
 雲の世界。地上から離れたところ。
 寂しい、と心が言う。悲しい。寂しい。苦しい。どうして、私はここで一人なのだろう……。
 そこまで感じ取って、いちるははっと眼を開いた。これは、自分の心ではない。誰かの心象が、流れ込んできている。
 何者だろう、この、冬の朝の乾いた悲しみを抱いているのは。
 いちるの目に映るのは、狭霧に包まれる地に、紫の花が咲いている風景だった。尖った五枚の花弁を持つ、桔梗。その陰でひっそりと揺れるのは松虫草だろう。どこかの山野にしては、花の揺れるそこは奇妙に整えられている。まるで、紫の色彩のみを許したかのような潔癖さだった。空すらも、銀の雲に覆われている。白と紫と緑に染められている世界。
 そのただ中にある者は、柔らかく溶いた薄墨のような悲しさを胸に宿し、清浄な世界に影を落としている。泣き声は聞こえない。すすり泣く声も。だが、泣いているのが分かる。
 私はひとり、と囁くような自認がやってきた。
 世界にひとり。どこにも行くことができない。私は、ここで……。
 白い世界に何者かが訪れる。高貴な黒さ。漆黒の重み。慕わしい暗さと静謐なその人を、視点の主は恐れ、震え、しかし、喜んでいる。何故なら、その存在がこのひとりきりの身を受け止めるから。ここにいるべきなのだと言い聞かせるからだ。
 白い手が、伸べられ――。


 目を覚ましたとき、扉がある、といちるは感じた。第六の感覚が物を見、存在を感じ、触れた時のように実感したのだった。
 布団から出、部屋を出たが、藤や葵が気付く様子はなかった。羽織ものをし、裸足で廊下を進んでいくと、果たして何もなかった回廊に扉が出現しているのが目に入った。紗久良姫の使うような異界を繋ぐ両開きの扉は、いちるが前に手をかざすと、触れる前に外側に向けて開く。白い霧が、足下をすうっと通っていった。その香りは、今まさにいちるが夢見ていた世界のものだ。
 足を踏み入れていく。土は湿っていた。冷たい泥は、桔梗と松虫草を育んでいた。
 夢よりも、はっきりとこの場所は凍えていると感じる。訪れる者がおらず、記憶のみが沈み、この場所の時を留めることを望まれたのだろう。恐らく、あの夢の持ち主は、ここを遠く離れたのだ。
 寒さを感じて腕を抱える。
(アンバーシュが、来る……わけがないな)
 夢の主ほど、いちるはアンバーシュを恐れていない。むしろ、あれを包み込みたいという気持ちが強い。いちるは一人で、あれも一人だった。アンバーシュは対等で、かつ、弱かった。その逆もあった。だから側にいたのだ。己が揺らぐほど、恐ろしい深さで包まれているとは感じたことがない。
 溺れたのだ、わたしは、あの男に。
 息を吸い込む。たった数日であの顔を見たくなるとは、撫瑚の妖女もただの女かと苦笑いが漏れる。伴侶を得たことで、不明だった部分が、女という形に固定されたようだ。深い情愛も抱擁も得たとは思えなかったが、安堵はあった。
(妾も、誰かを愛することができたのだ……)
 ふと、霧の向こうに影が揺らいだ。いちるはそちらに顔を向け、ひりつくような張りつめたものを感じ、眉を寄せた。足を引き、退路を見るが、影に敵意はない。しかし、ここにいたくないという感覚が、ゆっくりと鼓動を速めていく。
 誰が来る。何が来る。人影は、本当に人の形をしているのか。
 やがて、静かな漆黒が姿を現した。黒曜石や黒真珠、夜の常闇、賛美される輝きの元に集められた黒色が、悠然と天空の園の主として存在していた。いちるは、顔を見る前に咄嗟に膝をつき面を伏せていた。
 喉を焼くような感覚。対面したとき、痛みを感じるような存在に、かつて一度だけ対面したことがある。その時は、その存在は欠片のみだった。だが、これは。ここにいるのは――。
 相手がふっと息をつく気配に、いちるは心臓が握られたように構えた。
 言葉はなかった。膝をついたいちるのつむじに目を落とし、ゆっくりと探っているのが分かった。土、花、風、あらゆるものが、そこにある意志に力を委ね、いちるに触れた。形、在り方、何を考えているか、表層を撫で、奥底を探ろうとする。
 何故なら、彼(か)の神は視力を持たない。真紅の瞳は、何をも映さないのだ。西の大神が、聴力を持たぬのと対であるかのように。
 反射的に抗おうとするのを留めるのは至難の業だったが、委ねなければ何が起こるか分からない。名前を呼ぶことすら許されない。
 頑なになったいちるを哀れに思ったのか、それとも時間の感覚が遠ざかったためなのかは分からなかったが、感覚をなぞる拘束はすぐに緩んだ。いちるはほっと力を抜き、息を整えた。
「名を」
 花の揺れる音に紛れるほどの声だったが、耳には届いた。唇を湿らせ、声が掠れぬよう慎重に告げる。
「いちる、と、申します」
 声の質感、秘めれた感情を読み取る、静かな沈黙が流れた。
 やがて、神は言った。
「この庭を、そなたに。正しき持ち主に……」
 雲間から太陽が覗いて影が消えるように、緩やかな去り方で、神は姿を消した。いちるは、彼がその場から確実にいなくなったと思われるまで、そこに膝をついていた。後から震えが来て、歯を噛んだ。
(アマノミヤ……)
 いちるはようやくその名を心のうちで唱える。
 臆した。何も言えなかった。腹に抱えた呪詛を消してほしいと頼むことも考えつかなかった。ひたすらに怯え、言葉を待つしかなかった。そしてその言葉は、いちるの望むものではなかった。
 庭を与える、とアマノミヤは言った。それは何を意味しているのだろう。正しき持ち主、と言われた。だが、それは、決していちる本人ではないはずだ。
(アマノミヤは、妾を誰に見立てたのだ?)



「銀珠殿に、住んでいた方がいらしたかどうか? それを聞いてどうするの、いちる殿」
 満津野姫に尋ねたのは、彼女が明朗な人物だと思ったからだ。彼女は、内に秘めるよりも明らかにしたいと思うはずだと見立てたのだった。また夫婦の話を聞かせてほしいといちるを招いた満津野姫を留めて、話を切り出した。
 満津野姫は、躊躇いがちに、という雰囲気を演じて問いかけたものを吟味し、不思議そうな顔をした。理由を尋ねたのは、引き換えにしたものが対等であるなら、明かしてもいいだろうと考えたのかもしれない。
「夢を見ました。主は女性でした。漆黒をまとった殿方をお待ちしている、そんな夢です。ひどく感傷的になって、気になったのです。どなたか、お悩みになっておられるのではないかと」
「力の強い者なら、そういう影響を及ぼすこともあるし、染み付いた感情が感応することもあるわね。そうね……私もよく知っているわけではないけれど、確かにどなたかお住まいだったことはあるようね。でなければ、封鎖なんてされないもの」
 いちるは目を鋭くしないよう、困惑顔で尋ねた。
「どういう意味でしょう?」
「この宮をこのままに、というお達しがあったの。少し前のこと。それ以来、ここは閉じられ、何者も近付くことはなかった。ただ、私はそのことをよく知らないの。当時は、確か花媛殿も麗光殿も閉じられて、もう一層、下の宮殿に皆で住んでいたから。姉様と兄様たちだけが登殿を許されていたはず。ただ風の噂で、銀珠殿という宮を建てて、誰かが住んでいるらしいと聞こえていた」
 思い出すように、満津野姫は眉を寄せた。
「銀珠殿は、以前からあるわけではなかったのですか?」
「ええ。建て増しをしたの。花媛殿らが閉じられている間に。父神様がお出ましになられるよう、お庭に近いところに作ったと聞いているけれど、そこから父神様がいらしたことは一度もないわ」
 言ってから、満津野姫は曖昧な笑顔になった。
「誰も本当のことは知らないの。父神様は、いつも言葉少なで、姉様も兄様も、その意図を掴めず困惑されていることの方が多いわ。私も、言葉をかけていただいたことは数えるほどしかない。だから、銀珠殿の以前の住人の真偽も分からない。でも、あなたに危害が及ぶことはないと思うわ」
 得た情報から導き出される単純な想像。下世話だと批難される覚悟を持って、いちるも満津野姫もそれを想像していた。
 つまり、大神には秘された妻があって、誰も彼もに知らせずに、己の近しいところに住まわせていたかもしれないということ。
 だが、恐らくはそれがアガルタなのだろうといちるは思った。最も監視しやすい場所に置いて、楽園への道を探っていたのだろう。ならば、満津野姫の言葉を信じるなら、彼女はそこにいたのが何者か知らぬのだ。
(では、あの夢の持ち主は……)
 恐れと喜びを持って、漆黒の主を迎えた、あの心の持ち主は、一体、どこへ消えたというのだろう。そしていちるは、その女とどのような関わりを持つのか。まさか、同一ということはないだろうか。遠ざかった娘時代の記憶は、果たして真実のものなのか。
 揺らぎそうになる。知れば知るほど、己の問題は常に、いちるの存在を揺らす。それが由縁と呼ぶものなら、なんと不自由なものだろう。地に繋がれる獣のように、吠えることしかできぬように思えてくる。
「……姉君と兄君たち、と言われましたか」
 ふと気付いて尋ねた。ええ、と満津野姫は首肯した。
「紗久良姉様と阿多流兄様、それから、伊座矢兄様。……伊座矢兄様と私を境に、姉弟は分かれているようなものなの。私は高位ではないけれど、高位のことを察することができる、という。だから姉様も私を信頼してくださっているわ。私の目は、姉様の目よ」
 紗久良姫が口を割らぬならば、阿多流と伊座矢に近付けぬだろうか。
 だが、満津野姫は「察することができる」と言った。彼女は、何らかの兆しを得ているのか。
 それを問いかける前に、燐姫から使いが来たという。こちらに来たいがいいかと尋ねるもので、満津野姫が顔を輝かせた。
「燐が来た? まあ、一体何の用事で?」
「先日、緑天蝶(りょくてんちょう)の話をしましたら、もっと話を聞きたいと言っていただけたので、それではないでしょうか」
「やっぱり虫なのね。まあ、いいわ。外に出てくるなら。でも、あなたもそんなに虫に詳しいわけではないでしょう、いちる殿」
 いちるは苦笑する。
「どのようにお話しすればよいか、考えていたところです。親しくなるためにご助力いただけると幸いなのですが……」
「もちろん。お話ししましょ。でも、姉様に仲間はずれにしてと叱られないようにしないといけないから、文を出しておきましょうね」
 やがて燐姫が顔を出す。控えた女神たちに巻物を持たせていた。燐姫手ずから描画した、美しい虫の数々にいちるは感嘆の声を上げ、賞讃を口にする。実際、水彩で描かれたそれらは彼女の深い観察眼と愛情を感じ取ることができるもので、今にも溶けそうな儚さがあった。虫が儚きものと詠われることがよく分かる。
 燐姫は照れて口ごもっていたが、いちるが何度も何度も絵を眺め、虫の名を尋ねていると、嬉しそうに頬を染めていた。本当に引きこもって、と満津野姫は溜め息混じりだったが、妹を誇らしく愛おしく思っているのが表情に現れていた。

 フロゥディジェンマが戻り、アンバーシュの手紙を携えてきたのはその翌日だった。

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―