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薄く漉いた紙に香油を染み込ませてある。漉きの過程に織り込まれた赤い葉の色が透けて見えるそれは、甘い林檎の香りがした。横書きで綴られた言葉を読み、また戻って読み進め、今度は最初から読むいちるの肩は、上がったり下がったりと忙しない。やがて、眉間の皺に手を置いて、深々と溜め息した。ぺしり、と紙を叩く。
(よくもまあ、ぬけぬけと書いて寄越す……)
一枚目はいちるへの返信だった。フロゥディジェンマの暴走じみた行動に対する謝罪と幸いについて。考えないこともなかったが不可能に近かったため、珠洲流には打診しなかったという言い訳めいた文面で、それを可能にした小さな女神に感謝すると書いてあった。これは問題ない。
頭を悩ませるのは二枚目から続く私信だ。
自分が助けとなれなかったことが悔しい。守りたいと思っているのにままならないことが歯がゆい。さぞ東の神々の元で居心地の悪い思いをしているだろう、会いに行きたい。自分は寂しい……次第に文面がおかしくなってくる……離れていることがなかったからあなたを思って心が痛むけれど、それすらも愛おしい。再会できたときにどうなってしまうか分からないけれど、とにかくキスを……。
「…………」
文机に突っ伏すと、木が冷たく感じられた。頬が火照っているところを誰にも見られたくなくて、途中から藤と葵に外してくれるよう頼んだくらいだった。手紙の封は切られた様子はなかったが、内容を知られたら相手を絞め殺す覚悟、そのくらい気狂いな言葉が咲き群れていた。
(言葉を知る者が読んだらどうするつもりだ、馬鹿者が。この内容は色狂い以外の何物でもないぞ)
はあ、と嘆息し、紙を折り畳む。その時、去ったはずの藤が膝をつき、「紗久良姫様がおいでです」と告げる。いちるは素早く懐に紙を滑り込ませて隠した。紗久良姫が、華やかな微笑みで現れる。
「ご機嫌いかが、いちる。あら、顔が赤いわ。具合が悪いのかしら」
「いえ……。それよりも今日はいかがなさいましたか?」
微笑を持って問いを遠ざけると、花女神は追及せず微笑む。嫌な予感がしたがそれよりも早く「迎えにきたの」と言う。迎えとは、と尋ね返したいちるは、来れば分かるという言葉に逆らえるはずもなく仕度を整え、花媛殿に向かった。本来なら遣いをやればいいはずの高位女神が、御自らやってきた理由が確実にいちるを連れてくるためだということがはっきりしていたからだ。そうして、いつか見たような光景を目の当たりにすることになった。
「……素晴らしい衣装の数々ですね」
単衣、打掛などの晴れ着が、葛籠や衣装箱から取り出されていた。紅、朱、薄紅。紺、藍、浅葱。黄檗、山吹、朽葉。萌黄、翡翠、若緑。青紫、菫、白藤。色の名前を当てはめていくだけで口が回らなくなってくる数だ。それも一色につき文様が異なるものがあるものだから、部屋は色彩の海になっている。いちるのごく控えめな言葉に、紗久良姫は楽しげに言った。
「今日は、ここからあなたの衣装を選んでもらいたいの。じきに神在の儀。出来れば一着仕立てたかったのだけれど時間がなくて、わたくしのお下がりばかりで悪いけれど。袖を通したことのないものばかりだから気兼ねせずに選んでちょうだい」
「お譲りいただいてもよろしいのですか?」
「あなたに着てもらいたいの。身体が一つしかないのに増えるばかりだから、似合う者に譲る方がずっと活用的でしょう?」
まとったことがないからか、絹の衣装ばかりだというのに特に頓着せずに言われてしまう。さあ、と手を叩いて促された。
「どれにしましょうか。袿を重ねる? それとも、小袖の上に絢爛な袿を一枚に羽織って、既婚者らしくしてみようかしら。あなたはどの色がお好き?」
「はあ。では……あれを」
とりあえず見回した中で、いちるは最も色が沈んでいるものを指した。鳩羽色の、地味だが湿っぽいわけでなく古風な色合いに、銀糸で菱文様が描かれている。落ち着いて見えるので晴れ着としてもよかろう。姫神たちに混じって目立つ気負いはいちるにはなかった。むしろ、目にとめられずに身を隠したい。敵が増えるのを避けたいという意識だった。
だが、指し示した単衣に、紗久良姫はいちるの両頬を包み込んで、思いきり引き寄せた。目を見開くいちるに、麗しい微笑みを形作る可憐な唇が、甘く囁きかける。
「いけない子だこと、いちる。わざと地味なものを選ぶだなんて。わたくしに対する侮辱と受け取ってよ?」
いちるは目を伏せ、息を吐いた。
「……華美である理由がありません。わたくしは、皆様方の恥とならなければそれでいいのです」
正直は美徳だ。それが相手を抉る攻撃となることがあっても。だがこの時、それは確かに正しい行いになった。まあ、と声を漏らしたきり、紗久良姫はいちるを見つめ、初めて見るもののようにしげしげと眺めるのだった。言葉を失った主に呼応して、周囲の者も手を止めている。
紗久良姫は居心地が悪そうに扇を弄んだ後、口元に当てた。眉が寄せられているのを見て、機嫌を損ねたのかと注意深く見つめ返す。出て行けと言われるなら、エマとともに珠洲流のもとに転がり込むのみ。
姫神の、眉からふっと力が抜けた。くっと鳥の鳴くような声がして、紗久良姫がくつくつと肩を揺らし始める。これまで見てきたのとは異なる、皮肉で歪んだ笑い方だが、不思議と嫌だとは思わなかった。むしろ、東の女神の長が晴れやかで美しい微笑みの他に、こんな顔も持っているのだと感心する方が大きい。
紗久良姫はいちるの顎を掬い上げて言った。
「本気で言っているなら許してあげてよ?」
「隠し事はしますが、嘘は申しませぬ。……恐らく」
紗久良姫はにこりとした。
「そのようね。……あなたはいい子だこと。それでは、さぞかし生きづらいでしょうに」
黒真珠の瞳が憐れみを帯びたので、最後の言葉は聞き違いではないはずだった。しかし、周囲はまるで何も聞こえていないかのように、微笑ましげにこちらを見ている。ぞくりとしたものを感じた。女神の憐憫が、誰にも知られぬものと由縁しているように感じたのだった。
「楽しそうだな」
割り込んだ声は樹のように深く穏やかだったので、それが異質であると認識できなかった。
見目麗しい顔立ちを想像させる声だと気付いたのは、悲鳴じみたざわめきが上がったせいだ。戸の向こうに影があることに気付く。長身と女にはない厳つさが、女神たちを気遣った静かな気配となって流れてくる。
「入っても構わないか」
「運がよいこと、阿多流。今始めたところよ」
紗久良姫の招きに姿を現したのは、涼やかな男神。
星月夜のきらめきを持つ黒髪を後ろで束ね、深藍の紐で結わえている。紐の先が美しい装飾となって揺れていた。凛とした目元は切れ目を入れたように繊細だが、決して軟弱になるどころか、清潔な男らしさを強調している。なよなよしく見えないのは、広い背中やがっしりとした肩が、衣装の下に感じ取れるからだろう。直垂に柄物の羽織をしているところは洒落ものという様子で、アマノミヤに告ぐ男神の風格を漂わせるものだった。
いちるは素早く、他の者たちに先んじて面を伏せたが、「いい」と断りが入る。
「邪魔をしたのは私の方だ。珠洲流のところへ行っていて、挨拶が遅れてすまなかった。阿多流という。知っているだろうか?」
いちるの返事は、もちろんだという他はない。
東の者で知らぬものなどいない。アマノミヤの長子。武を司る男神。戦をするものは必ずこの神に勝利を祈願し、死した者が彼の側に行くことを祈るのだ。
「いちると申します」
「妹たちにするようにしてくれて構わない。あなたは私の客でもあるが、紗久良の客でもある。そうなると、私より身分が高いと言っても過言ではない」
態度を思うと話し方が静かなので、身が引き締まる。アンバーシュやオルギュットにはない落ち着きだと思う。人から頼りにされるのも頷けた。
「珠洲流の元へ行っていたの。あの子はどうしていた?」
「不満そうだったが、了承させた。父神の命ならば逆らえまい。客を迎える準備を始めたようだ。神在の儀には、珠洲流のところから発つことになった」
二人だけの会話を聞きながら、誰もが聞いていないふりをしている。いちるも、彼女たちが何を話しているか見当がつけにくい。おおよそ、阿多流と紗久良姫が珠洲流に、神在の儀に関する何かを命じた、というところだろうか。
「珠洲流のところで、光狼の娘御にお会いした」
いちるは驚いて顔を上げるところだった。いつの間に出掛けていたのだろう。それも、あの若神のところへ。何をしに。驚愕を知って、阿多流は笑みを佩いた。
「よくおいでになる様子だった。菓子が大量に置いてあったから」
間違いなく彼女の食料だ。顔を覆いたくなったが、先にフロゥディジェンマが己の意志で赴いているか確認すべきだと判断し、「お邪魔はいたしませんでしたか」とだけ尋ねる。
「じっと珠洲流の側にいた。珠洲流は真面目で勤勉であることが取り柄なのだが、何がお気に召したのか、よければ、尋ねておいてくれまいか」
彼の用事はそこで終わったらしい。室内に広げられたものを見遣って、「ほどほどにせねば着せ替え人形がくたびれてしまうぞ」と笑って去っていった。また別の意味でぞわりとしたいちるだった。
*
灯籠からは花の香りがする。夜気に漂うそれは闇に光る白花を思わせた。あの子のよう、と紗久良は思う。すべてを照らすことはないけれど、密やかに輝く。あるいは、静かに潜む獣の気配。
さりさりと衣を引いていくのは、花媛殿と麗光殿を繋ぐ回廊でのことだった。建物を繋ぐ道はいくつかあり、表の道は紗久良たちが使うが、それらとでくわさぬよう、側使えの者たちが使う裏の道がある。その他にも、神域がゆえの狭間の道が存在する。空間に道だけが浮いているようなかたちで、訪れることのできる者は限られていた。目前に阿多流の姿が見えて、足を止める。
「父神がおでましになられたと」
「いつ」
「少し前、明け方に。風の眷属が耳打ちしてきた。伏せるべきかと思ったが伝えておいた方がいいと判断したようだ」
「何用かは?」
「そこまでは。どうやら結界を用いたらしく、感じ取れなかったそうだ。そこだけはあの方も知られたくないと思われた様子」
紗久良は溜め息する。何を、というのが自分たちにとっては明白だったからだ。
「衣装は無事に選び終えたのか」
「ええ。見覚えがあって衝撃を受けるでしょうね。着る者のいなくなったものがいつの間にか紛れ込んでいて、それがよく似合うのだもの」
阿多流は少し言葉を置いた。
「つまり?」
「わたくしのものではない品が混じっていた。処分したものとばかり思っていたのに。持ち主がいなくなったと同時に消えたのだから、処分されたのだと思うのが普通でしょう」
声に出さずに、それが誰の仕業かを通じ合う。紗久良は呟いた。
「それが突然現れた。草紙のようね」
人の世には、貧しい生まれの子に突然幸が降るという物語がある。食物。衣服。そして結婚相手。不意に姿を現した晴れ着は、そこに登場する幸いのようだったが、阿多流は言葉を紡ぐことを止め、しばらく闇に思うものを映し出しているようだった。
「私たちは抗っていると思うか?」
「父神様の意志に? あの方が何をお考えなのか、ひとかけらすら分からないというのに、何が反抗かすら判別がつかなくてよ」
だが、意志に反してはいない、とほのかな予感がある。
「あの子を重んじるのは間違いではない、とは、思う」
頑なで、か弱く、可愛いいちる。積み重なったがゆえの虚勢が彼女の慇懃の表皮に透けて見える。女仙の長、昴から聞いたときには、ひどく傲慢で脆弱な心の持ち主だと思ったのに、ひどく居心地悪そうに微笑んでいるものだから、おかしくてならなかった。他者を傷つけることを厭わずに座っていると想像したものを、いちるは紗久良や弟妹たちを理解しようとぎこちなく歩み寄ってくるのだった。
だからわたくしたちは罪深い。あの子を見捨て、最後には西神に差し出した。そうして今になって優しくする。罪のない子が振り回されて今だ。
「……これは罪か」と阿多流は囁いた。
「誰の罪だ? 我欲を通した父か。知って見捨てた私たちか。それとも、そうせねばならないと声を上げた古き神々か」
阿多流の呟きは、紗久良の溜め息の後、重なる。
「父神は、今更何をなさろうというのか……」
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