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花媛殿に花が咲く。女神たちの愛らしい姿と華麗なる衣装がもたらす、色彩の波だ。春めかしい淡い色もあれば、夏の光の中でも見劣りせぬ鮮やかなもの、静寂を現す秋の色に、清潔さを示す冬衣。それらを代表するのは、紗久良姫、満津野姫、燐姫だ。
燐姫は金色に色とりどりの蝶が描かれた単を上に、下には赤や茶などを重ねて緋袴の姫装束。満津野姫は側にいると清水の香りがする紺碧の単に、長袴を着ている。そうして、女神の長である紗久良姫の衣は、その内側で季節を巡らせる魔法の衣なのだった。
いちるの手を取る紗久良姫の衣装の中では、根雪が溶けて小さな春芽が現れ始めている。白色の衣は金の光に包まれ、氷が割れる音がしていた。渡り鳥が去っていく羽ばたきがし、残された羽根がひらひらと舞い落ちてくる。それは、風が吹いたことで花びらに変じた。
「緊張している? 何も心配しなくてよくてよ。わたくしの側にいて、いつも通りにしていればいい。何が起こっても、あなたなら何とでも出来るはず」
「ご信頼いただけて嬉しゅうございます」
いちるの反対側の手には、フロゥディジェンマが身体をこすりつける。こちらに来てから、少女は獣の姿を取ることの方が多かった。恐らく衣装に嫌気がさしたのだろうな、と思っている。堅苦しさを嫌う少女神には、東の裾の割れる衣装は相性が悪い。
フロゥディジェンマの巨体と毛並みが光を放って目立つので、自然と視線が集まってしまっている。薄紅と銀の毛は冬と春の使者のようで、紗久良姫の側にいると、ますます光と花の光輝が眩くなる。いちるは背を丸めぬよう彼女らに従っていたが、紗久良姫が笑って言うのだった。
「注目の的ね。この神域に、地上の者が現れることは今までにない。それが西神に嫁いだ娘なのだから、つい見てしまうのね」
「紗久良姫をご覧になっているのでしょう」
花女神が微笑んで手を伸べるときは、大抵仕置きが伴われている。いちるの手を軽くつねって、紗久良姫は大きく頷いた。
「過ぎた謙遜は卑屈よ。あなたは綺麗だわ。あなたの姿に、人は深い闇夜や、月の光、水の流れの深みを見る。汚されることない静寂の光と、常闇を感じるでしょう」
紗久良姫の視線がいちるの衣に注がれる。
黒の衣だった。花媛殿でいちるのものとなったそれは、見たことのない銀の花と蔓が枝垂れるようにして、漆黒を飾っている。白にも青にも見える輝きは、水にも、氷にも、宝石にも見える。きらきらしい錦の帯を締めると、隙を許さぬ潔癖さが漂い、それがまた花女神の傍らにあると対照的に映りすぎた。もう少し明るい銀鈍色にすべきだったかと思ったが、紗久良姫がこれを最も似合うと推したのだから、似合うものを断る理由を見出せなかった。
髪はまとめず、飾りもつけていない。ただ、化粧ははっきりとさせて、一見して毒々しいほどの鮮やかな紅を塗っていた。白い面にぎくりとする色合いにも思えたが、その妖しさが美しいと紗久良姫、藤と葵が褒めそやすので、悪い気はしない。
居並ぶ各地の女神たちの挨拶を受けながら、花媛殿の空中回廊を行く。いちるは末席がいいと一応は固辞したのだが、それだけはだめだと姫神たちの猛反発にあったのだ。守護してくれるというなら辞退する気はないが、それにしても構われ過ぎだと思う。至高の女神に手を取られ、進むいちるは、他の女神たちと一線を画して高位に置かれている。
何故? といちるは問いを忘れぬようにしている。
(それは、私がアガルタに類するものだから)
女神たちの扇の下で密やかに交わされる、嘲りや侮蔑を、いちるは丁寧に無視していった。何か一言でも漏らせば、ちろりと視線をやり、相手が気まずく口をつぐんだところでふっと目を逸らす。唇の端のそれとは分からぬところで笑みを浮かべ、女神たちの目をくぐっていく。
心配せずとも、彼女たちの思うようなものにはならない。見えぬところには呪詛が育ち、東神でない身は、いかに大事とされようと決して女神と同じ存在になることはないのだから。
一人の女神が行く手を遮る。
立ち上がり裾を引きずってきたのは、黒く美しい巻き毛の、凛とした眼差しを持つ女神だった。ひわの、と紗久良姫は呼んだ。
「日羽野(ひわの)。もうこちらに来ていたのね。めずらしいこと。鳥の神だというのに、あなたはいつも気まぐれにしか来ないものだから」
「わたしは風の流れに従っている。今年は、こちらに風が集まっているようだったから」
そう言って、日羽野女神はいちるに目を留めた。つんと尖った愛らしい唇が、ゆっくりと歪むのが分かった。
「どうにも不快だったので、早めに様子を見にきた。あまり素性のよろしくない客のようだね」
「ごめんなさいね、いちる。日羽野は物をはっきり言ってしまう」
「歓迎されるべきでないものが、わたしたちの秘儀に混じっている。言葉も刺々しくなる。晴れの日だ、今日は。女神だけでなく各地から男神が集まり、我らがアマノミヤの大神もご覧になる大事な一日。東島の地をこの先も守り抜くために力を蓄える準備をする日でもある。そんな時にお前は何をしにきた? 見目がよいだけの者は、魔性と相場が決まっているけれど」
周囲の空気が凍り付いている。少年のような低い声で、語調を荒げず淡々と問いただす日羽野は、人と鳥、二つの姿を持つ女神だ。空を行き、旅路や人生にまつわるものに彼女の名前がある。いちるに見せている面は厳しいものだが、いちるが知る日羽野女神ならば、彼女は優しさの顔を持ち合わせているはず。
いちるは短い間に集中して彼女を見つめ、その目が一瞬、笑うように細められたのを見て確信した。
それは、と口を開く。
いちるの一挙一動に注目が集まる中、告げたのはひとつ。
「それは、御身の目でお確かめください」
紗久良姫と日羽野のほくそ笑んだ顔は、恐らくいちるにしか見えていない。
日羽野の低く、幾分か荒立った語調は、ゆえにどうしても芝居がかって聞こえた。
「お前が神山、ひいては東島の秩序を乱すことのないよう祈っている。ああ、でも一つだけ。見た目は褒めよう。まあ、紗久良の見立てなのだろうけれど」
「恐れ入ります」
紗久良姫は日羽野と軽く挨拶をして別れた。
回廊はまだ続く。
「機嫌を悪くしたかしら」
「試しだとすぐに分かりましたから」
紗久良姫が意外そうな顔をするのに、エマです、と答える。
「この子が怒りませんでしたゆえ、日羽野女神が、敵意も害心も抱いていなかったことが分かりました」
フロゥディジェンマは尾を揺らしていちるをじっと見た。いちるは両の手で頭をくしゃくしゃと撫ぜてやった。
「渡汰流には怒っていたわね。そう、彼女はあなたの守護神か」
ふっとフロゥディジェンマが顎を上げる。
[しゃんぐりら、ダケ]
短く示した意志を紗久良姫は尊重した。
「ええ、いちるだけの守護神なのですね。よく分かりました。さて、着きましたよ。あなた方の席はこちら。わたくしの隣においでなさい。しばらくしたら、満津野と燐も来るでしょう」
回廊の突き当たりには、広い桟敷があった。脇息が二つ置かれており、一つはいちるのものだと思われた。真紅の毛氈の上に躊躇なく飛び乗ったフロゥディジェンマは、席を囲むようにして丸くなり、すっかりくつろぐ姿勢だ。いちるが彼女に守られるような形で座ると、背後に藤と葵、そして紗久良姫から命じられて側についた花媛たちが位置についた。裾が美しく広がるように整え、飲み物を用意し、歩いている間に乱れとも思わぬ程度に動いた髪を直す。そうして自分たちも身だしなみを整えているのだから、彼女たちの気の入れようが知れるというものだ。
時間をかけて作らせた装飾品の他、花の女神に願ったのだろう季節外れの桜や藤の花を飾っている、誰しも特別な装いで澄ましている。
神在の儀における参内は、女神たちが男神たちと対面する限られた機会のひとつだ。許された者のみが婚姻を許される東神は、こうでもせねば異性神に対面する機会を持てない。女神たちが目一杯に装って、華々しい男神の行列を眺めたいと望むのも当然だった。
りん、と銀鈴の音が響き、歓声が一瞬響いて、潜まる。下座に誰かが訪れる気配がして、満津野姫と燐姫が慌ただしく席に到着したところだった。満津野姫が照れたようにいちるに笑いかける。
回廊の御簾は半分より上という特別な位置にまで巻き上げられ、女神たちの姿をほとんど露にしている。床の向こうはもう雲の海だ。再び鈴音が響き、行列の始まりを知らせる。
藤と葵に尋ねたところ、神在の儀の最初に、男神の訪れを行列にして眺めることを定めたのは紗久良姫だったという。今以上に男女の接触を禁忌としていた頃、身内である弟たちの無事な姿を一刻も早く目にしたいと願ったことから、同じように兄や弟を持つ女神たちとともに覗き見たのが始まりだったのだそうだ。それがやがて恒例となり、ここから縁付いた男女を紗久良姫が大神に奏上し、認められたことから、縁結びの意味を持つようになった。女神も男神もこの日のために衣装をあつらえ、渡りに参じるという。
「渡りの行列を見ることなど、この身では叶わぬものと思っておりました」
「こんなところで驚いていては、いくらあなたと言えども、後で卒倒してしまうかもしれないわね」
どういう意味だと目をやると、紗久良姫はほらと彼方を示してみせた。
雲が晴れていく。甘い香りが漂ってきた。木の蜜のような自然な香りに、女神たちが頬を紅潮させていく。風が起こって舞い上がったものが回廊に滑り込んできた。甘い紅の花。薔薇(そうび)だろうか。
花びらの舞の向こうから、五色の帯の旗を掲げてやってくる者がある。
風神が作る道を踏んでまずやってくるのは、剣を帯びた下位の男神だ。衣装の形と色を揃え帽子を被っている彼らは、誇らしげに微笑んでいる。そのすぐ後ろをやってくるのは、鬟(みずら)の少年神たち。鈴を手に、こちらはやや緊張した面持ちで音を揃える。愛らしいと女神たちの声が交わされる。
渡りの行列は、女神たちとは三十歩も隔てたところにある。それでも男神たちの見目麗しいことが見て取れて、夫を持ついちるも感心することしきりだった。純血を重んじる東神は血が濁らないために、アマノミヤの美しい面差しを残しているのだろう。
太刀を持っている若神たちが、次は弓と矢筒を下げた者たちに変わると、景色は一変する。空を舞っていたものが羽根に変わり、各々着飾った男神たちが、厳めしくこちらを見もしないもの、かと思えば片目をつむって構いかけるものとそれぞれに反応を示す。歩行でくる者もあれば、騎乗している者もあった。
紗久良姫の溜め息が聞こえた。どこどこの誰それは、また今年も趣味の悪いこと。背後の花媛たちが同意する。
そうかと思うと、明らかに女物の単をまとっている者があり、これが女顔と相まって洒落て見えるものだから、軽妙洒脱と褒めている。大仰な化粧をして道化者のようにしている男神には、おおっぴらに笑うことができず、必死に笑いを噛み殺す。
再び、空気が変わる。太鼓と鳴り物が呼応する中、牛が引く車、車を先導する男、童子と、高貴な人が姿を現す。しかし車の内側は見ることが叶わない。紗久良姫が囁いた。
「多鹿津よ。燐の双子の弟。また後ほど会う機会があるでしょう」
その牛車の横を、激しくいなないた馬が駆け抜ける。馬は道を逸脱し、回廊近くまできた。馬上の人に向かって、御簾の内側から声が投げかけられた。
「伊座矢様!」
東神五男子の二番目、伊座矢男神だった。短い髪をした伊座矢は、ここまで来たというのに女神たちに構いかけず、再び道に戻っていく。彼の行くところから馬が現れ、そこにいたのはいちるもよく知る渡汰流と珠洲流だ。
側にいるフロゥディジェンマが半身を起こすようにして前に出る。
渡汰流は楽しげに馬を駆り、伊座矢を誇らしげに見つめている。珠洲流は表情を消しているが、伊座矢の暴走に溜め息したいらしいことが緩まない表情で分かる。彼はいつも通りの装束に見えるが義務以上のものではなく、彼の周りの者との妥協で、高価だが地味な品を身につけたに違いなかった。
そうして最後に来るのが、最高位の阿多流なのは当然だった。彼は紗久良姫に次ぐ神で、彼女と同等ほどの力を持っている。大神に目通りの叶う立場で、神山の麗香殿という宮殿の主でもある。確か、紗久良姫との会話で珠洲流のところから出発すると言っていたらしいことを思い出し、馬上にある男神を眺めた。
微笑みも、手綱捌きも、大袈裟なところがない自然なものだというのに、雄々しく立派で、威厳が感じられるのは、さすが阿多流男神というところだった。
その時、光るものが見えた。
(……何だ?)
いちると同じ疑いを他の者たちも抱いたらしい。なんだと身を乗り出そうとする者が現れ、目のいいものがいたのだろう、あっと声が上がった。
空に満ちていた花びらと羽根が、風神の力で舞い踊る。蒼穹に彩りを添えたそれらを視界の隅に追いやり、女神たちは最高位の男神の辺りを固唾をのんで見守る。阿多流は衆目が己ではないところに集う空気を察し、ちらりと笑うと、馬を駆け足にしてきた。その後ろから現れたのは――。
女神たちが息を呑み込む。
彼女たちの黒い瞳に、蜜よりも濃い色、黄金を溶かした髪が翻って映る。
手甲に覆われた手が手綱を引く。二頭の馬が引くのは、箱形の車。
己が無意識に御簾を越えていたと気付いたのは、自分とそれと目を合わせた瞬間だった。天青の瞳といちるの視線が絡み合う。男は、姿が見えずとも、いちるがどこにいるかを知っていたのだ。
「アンバーシュ」
東神の渡りの一人であった西神の雷霆王は、笑み含んだ雄々しい一瞥をくれて、阿多流と並んで去っていった。
ひとひら、紅の花びらが舞い、足下で、眠るように動かなくなる。
かつてない事態に混沌の声が呻き殺される中、紗久良姫だけが一人、微笑んでいた。
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