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 悲鳴じみた声が上がり、いちるは体当たりを受ける形で、満津野姫の身体を受け止めた。握られた両手を激しく上下に振り回される。
「素敵、素敵だわ! あれはあなたの背の君なのでしょ? なんて素敵な方だったんでしょう。美しい髪の色に、たくましい身体に、華やかな美貌!」
 いちるは周囲を見回した。西の神の姿を、恐らくは初めて目撃したであろう女神たちは、誰も彼も頬を紅潮させ、ひっきりなしに囁き合ったり、胸を押さえて溜め息したりしている。
「なんて、美しい方……」
「あれはわたくしに笑いかけてくださったのよ」
「わたくしをご覧になって微笑まれたに違いないわ。だって目が合ったもの」
「はあ……」
 何が起こったのか。
 あれは、間違いではないのか。
「……いったい、どういうことなのですか」
 我を取り戻したいちるは、威圧する声で問うた。藤が慌てていちるを御簾の内側に引き入れようとするが、一睨みで制し、再び紗久良姫に向き合う。手にした扇を痺れるほど握りしめ、今起こったものを思い返した。起こったことを反芻すればするほど、ふつりと怒りが沸いて収まらない。
(どんな取引をした、アンバーシュ!)
 女神は扇を開き、笑みを秘めて言った。
「それは、本人にお訊きなさいな」
 立ち上がると、彼女の進む先に扉が開いている。いちるは問いを重ねずそれを追った。
(エマは……)
 フロゥディジェンマがついてこないので見遣ると、すでに姿を消している。居所を案じたが、女神を追うことを重んじることにした。
 花媛たちが一礼して見送る中、扉をくぐっていくと、別の回廊に出る。屋根から帯が垂れて、後方へ泳いでいた。朱色、黄色、緑青、紫紺、青鈍。空気には、さきほどばらまかれた花の香が残っている。心臓が忙しなく打っているために、手のひらにまとわりつく風も、衣の内側の肌に浮かぶ汗も、大気のにおいもわずらわしい。口の中が渇き、ひっきりなしに喉を鳴らして息や言葉を飲み込んだ。何故。どうして。あれが、女神たちの前に現れる。共にあった男神たちは何を知っている。探ることができればいいのに、この場所ではいちるの能力は働かず、東神の考えなど到底知ることができない。
「お早いお出ましだ」と声が響いたのは直後だった。
 己の側で聞こえた声にはっと振り向いた瞬間、髪を掴まれ、捕らえられる。紗久良姫が驚いて息を吸い込み、いちるは相手を振りほどこうと抵抗した。
「その手をお離し、伊座矢!」
 最初から戯れのつもりだった伊座矢は、すぐにいちるを解放した。仰々しく腕を振って一礼し「姉上」と挨拶する。
「怒られたお顔もまた、麗しい」
「馬鹿のふりはおやめ。待ち伏せするなど、無礼にもほどがある」
 姉姫神の厳しさを、伊座矢は軽く笑い飛ばした。
「彼女はわたくしの客人であるという知らせが行ったはず」
「賎しい血の女を? ご冗談を。姉上。あなたのなさっていることは、自己満足に過ぎない。時と運命は我々の手元にはないのです。起こったことは変えられぬ」
「お黙り」
「聞かせているのはあなたにではありません。撫瑚の妖の女よ、お前はなにものからも望まれぬ。我らはお前をはらからなどと思ったことはない」
「伊座矢!」
「精々、贄としての役目を果たすがいい」
 言うだけ言うと、伊座矢は回廊の手すりを越えていった。下方から馬の嘶きが聞こえ、騎乗した伊座矢が霧に隠されながら彼方へ飛び去っていく。この後の会議にも宴にも、気の向くようにしか参加するつもりがないようだった。
 青ざめた紗久良姫の顔は、雪に埋もれつつある白い花の風情だった。
「贄」
 唇を舐めて発した一言で、紗久良姫は大きく身体を揺らした。涙の膜が張った目でこちらを見つめてくる。
「……そんなことはさせないわ。伊座矢の言う通り、これがわたくしたちの自己満足であっても、あなたを守護すると決めたことに変わりはないの。だから、どうかお願い。わたくしと阿多流と信じてちょうだい」
「何の生贄だというのですか」
「地底楽園……アガルタにまつわるものは、古い神々には周知のこと。あなたの命を奪うことによって、楽園への道を見出そうとする者たちが、こちら側にもいる。わたくしと阿多流の名で牽制をかけているけれど、伊座矢と渡汰流のようにあなたに敵意を抱く者がいないわけではない」
「はらからとは?」
 あの言い分ではまるで――、有り得ぬと思いつつも尋ねる。
「伊座矢はあなたに反感を覚えている。あれに呼応しているだけの渡汰流は、自分の考えがないのだというのは分かるのだけれど。アガルタにまつわることが、伊座矢の怒りに触れてしまうのか……」
 紗久良姫は息を吐き、澱を振り払った。目を上げた時は、いつもの女神に戻っていた。
「アガルタに住む者が、地上の東と西、それぞれの基礎となったものだということは知っていた? わたくしたちはその一方、黒髪と黒い瞳を持つなどの要素を取り込んでいるの。父神様もその例外ではない。だから、アガルタにまつわるであろうあなたの方が純粋な血が濃い可能性を、父神の子として伊座矢は許せない」
「紗久良」
 彼女の言葉の真偽を確かめる前に、阿多流が声をかけてきた。伴われた男にいちるは飛び出しかけた声をぐっと飲み込んだ。氷雨のような細やかな銀の織りの衣をまとった阿多流は、姉と目を見交わした後、背後にいる男を紹介した。
[アストラスの子、ヴェルタファレンのアンバーシュ殿だ]
[東のきょうだいに、太陽と月の祝福を。お目にかかれて光栄です、サクラ姫神。先日は、不躾なお願いをして申し訳ない。また、聞き届けていただき、感謝します]
 微笑みを交えた気安く親しみある物言いに、紗久良姫はそれまでの緊迫を思わせぬ優雅さで微笑む。
[太陽と月の子たる西のきょうだいに、ご挨拶できることを嬉しく思います。アンバーシュ、とお呼びしても構わないかしら。わたくしのことはどうぞ紗久良と呼んで。いちるの背の君ならば、わたくしにとっても知らぬ方ではないのだから]
[ありがとうございます、サクラ]
 アンバーシュのにこりとした顔は、しばらく見ずともほとんど変わらないようだった。慇懃で、本心を隠し、相手を上手く乗せながら隙をうかがっている油断なさを、立ち尽くしているいちるはどんな顔をして見ればいいか分からない。
[いちる。この奥の四季殿の北棟、冬殿を人払いしてあるわ。宴が始まる頃に人を呼びにやるから、それまでゆっくりお話していらっしゃい]
 いちるは三者の顔を見比べた。どうやら、これは彼女らが調整した上でのことらしい。いささか虚仮にされた気分を味わい、その感情はアンバーシュに向けられようとしていた。いちるの動きを捉えたアンバーシュがわずかに肩を竦め、先導しようとする。
 紗久良姫と阿多流に見送られ、二人で四季殿に向かった。

 南から中央殿に入ると、東西南北に道が分かれている。それぞれ、東の春殿、南の夏殿、西の秋殿、北の冬殿に繋がっている。花媛殿の一部、季節を楽しむ宮殿は、その名の季節が支配している。春殿には春に見られる花が咲き、もちろん冬殿は冷たい空気が満ちている。人気のないそこは、進むごとに冷えた空気が押し寄せてきて、足下から凍えさせた。建物を回っていくと、庭が見えた。
 真白の庭。雪が降り積もり、冬枯れの木が立ち並ぶ。雪を冠った凍れる小さな池にかかった橋は、訪れる者がないゆえに新雪で染められている。吐いた息が、白くなった。
「すごいな。さすが、最高位の女神の宮殿」
 アンバーシュの息はいちるのそれよりもっと白く、深く吐き出された。庭へ踏み出すと、長靴は軽く沈む。どうやら見た目より深く積もっているわけではないらしい。
 ここで初めて、アンバーシュの服装を気に留める余裕が生まれた。黄つるばみ色の詰め襟に、濃茶の外套を羽織っている。施された金の縫い取りは裾に施された程度で一見地味だが、菱模様のそれはいかにも現代的で小粋に見えた。襟元に巻いた黄金色の毛皮は冬ほど大仰なものではないが、男らしい威厳を添えている。
 伸べられた手を取る。渡りを見るために沓を履いていることが幸いして、庭に降り立つことが可能だった。建物から離れた木立の中に行き、人気がないことを確かめて、アンバーシュは初めていちるに言葉をかけた。
「ずいぶん怒って見えますが、サクラたちに当たれないからといって、俺一人を標的にするのはなしですよ」
 いちるは腕を振り上げた。右の拳で肩をぽかりとやったのだ。
「痛い」
 もう一度食らわせた。同じところを狙う。思いきり握った手は、ついには突くような形でアンバーシュを後ろへと押していく。何度目かに殴った時、ついに手を掴まれて止められた。顎を上げて睨みつける。
 お前は、の後に続いたのは、我ながら語彙の貧しい罵倒だ。
「馬鹿か」
「馬鹿を殴るのに自分の手を痛めないでほしいですね」
 力任せに拳を振るったので、関節の部分が赤くなっている。手のひら側には爪の食い込んだ跡がうっすらと傷になっていた。程度が軽いので治癒が遅い。その傷を抉るわけではないのに、アンバーシュが指を這わせるので、ぞくりとした。もろとも、振り払う。
「まだ言うことがある。あの、手紙」
 思い出すと歯ぎしりしてしまう。
「破廉恥にもほどがある。もし内容を知られたらどうするつもりだったのだ。迂闊に置いておけぬゆえ、持ち歩くしかないではないか。あんな言葉の羅列も、よくも」
「楽しんでもらえたようで何よりです。刺激的だったでしょう? 書く方もなかなか気合いが必要でしたよ。例えば、『あなたの唇の味に似ているものを探したけれど見つから、』」
 本気で殴った。避けられた。笑いながら両の手を受け取ったアンバーシュの声が、また白い息になる。
 次の瞬間、表情を消すと、アンバーシュはあっという間に距離を詰めた。覗き込むようにして囁きかける。
「……元気そうで何よりでした。痩せてもいないし、顔色も悪くない」
 いちるは息を整えた。相手の不安を汲み取って。
「……紗久良姫が神酒や神水を用意してくださったので、呪いは思ったより進まずに済んでいる。神域ゆえに過ごしやすい気候だ。食べ物は十分にあるし、衣服も用意されている。あちらと変わらぬ贅沢をしている」
 アンバーシュの目がいちるの変化を見過ごさぬよう、じっくりと全身を眺めている。着込む衣装は身体の形を平坦にしているが、痩せていないことだけは明らかだったので、幾分か眼差しが和らいだ。
「よく訪問の許可が出たな。いつ帰る?」
「あなたが帰りたいと思った頃に」
 誤摩化された気がして眉を寄せた。アンバーシュは重ねて言った。
「帰れ、と言われない限り、ここにいます。サクラに宛てて手紙を書いて、彼女からアマノミヤに伝えてもらいました。了解を得たので、これで俺も居候です」
「…………何だと?」
 じわじわと、伝えられた言葉がいちるの目を見開かせていく。
「国は」
「とりあえずですがまとめてきました。元々国政は俺の認可が必要なものを上げてもらっていたので、現状、インズ宰相を始めとした閣僚陣の運営で問題ないでしょう。その他重要事項、特に調停国としての機能は、全部まとめてオルギュットに投げてきました。アストラスには許可を得ていませんが、まあ構いません。俺はもうここにいますし」
 オルギュットには頭が上がりませんね、などと言っているが、これの仲が良好と険悪をふらついていることを知っていた。人を従えさせる気質の義兄に、アンバーシュが低く出て頼み込んだことが想像できる。
 問題はまだ他にもある。
「紗久良姫に出された条件は何だ」
「『女神たちに一切手を出さないこと』。それから、エマと俺に『魔眸退治の助力』を」
 いちるはきつく睨んだ。
「エマを巻き込んだのか」
「彼女も滞在すると言いはりましたから、条件があって当然です。どうやらこちらで力を使った前例があるらしくて目をつけられたようでしたね。エマは自分からやると頷きましたよ」
 ますますあの小さな女神を、心苦しく、愛おしく思ういちるだった。己の何がそんなに彼女の思いに答えるものなのか、問いたださねばならないようだ。
 何者をも犠牲にして永らえてよい身ではないというのに、何がしかの力がいちるを生かそうとしているように感じられる。それが何か見定められぬことが、歯がゆい。
「それで」とアンバーシュがいちるの髪を、頬からなぞるようにして掻き上げる。耳を引かれて痛みに顔をしかめると、むずがゆい感覚と同時に重みがかかる。冷たいものが首筋に触れて、手をやった。ちりちりと鳴る金属の板。
 光輝の耳飾り。

「俺は、帰った方がいい?」

 白雪の銀の風景に、金の光が投げかけられている。小さく弱いもの、大きくくっきりとしたものという二種の足跡が、緩やかな光にその縁を滲ませていた。
 いちるは自身の鼓動を聞き、アンバーシュの呼気に耳を澄ましている。辺りは白に染められており、枯れ桜の黒色と松の濃い色は、騒がしく言い合っていた二人に対して、揺らぎもせずに静寂だった。
 ゆえに、いちるの世界にはアンバーシュのみが鮮やかに映る。
 息を零す。音にならないかすかな言葉は白くならない。
 濡羽色の袖を伸ばす。男の袖を握った。

「……嬉しい」

 漏れた言葉の素直さに、最も驚いたのはいちるだったろう。だが、認めてしまえば心に落ちた。波紋を描いた心が、口元を綻ばせ、眉を、喜びにひそませる。
 アンバーシュは一気に笑み崩れ、首を傾けて唇を奪う。
 紅が男の口にはっきりと色移る。白雪の上では濃く映えるそれに、いちるは再び微笑み、もう一度重ね合わせることをねだるのだった。やがて、紗久良姫から迎えの者が呼びにくるまで、何度も。繰り返し。

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