<<  ―    ―  >>

 文箱を思い出したのは数刻の後だった。
 半身を起こした際、裸の肩から毛布と衣が落ちる。紗久良姫を始めとしたアマノミヤの姉弟たちと対峙し、明日のことを思って精神をすり減らして、気力を使い果たしてそのまま寝入ってしまったようだ。裸のまま残していくのも去り難かったろうに、着替えをさせれば勝手に手を触れるなと嫌な顔をされると思ったのか、アンバーシュはいちるを毛布と衣でしっかりと包んで、自室に戻ったようだった。別にどちらとも構わぬというのに、と考えたが、やはり意識のないうちに着せ替えさせられる方が気色悪いと思い直した。
 灯りは絞られ、廊下に細々と入れられている程度だ。それにしても月が眩いので目もほとんど使わずに済む。大気が澄んで、空は青くなっていた。夜着をまとい、冴えた目を細める。
(明日。何かが終わる。妾の中の何かが……)
 夜が明ければ、長年の問いにある答えが与えられることだろう。その時を待ち望んでいたはずなのに、不快なものが胸の内を乱していた。心待ちにしていたとは感じられない、溜め息となって吐き出されるもの。落ち着かず瞬きをしている己に気付き、目を閉じるが、考えるものが形にならない。本当にそれを求めていたかすら分からない。長過ぎた。人でも神でもない身が、このように永らえたことで、失われる何かがあるとは思いもしなかった。
 知らず指先で唇をなぞっていた。
(アンバーシュ)
 名を呼ばぬよう、思うだけに留める。頬が持ち上がってしまったので引き締めた。触れると熱く、ぴくぴくと動いている。熱の宿った指を再び口元に当てて、ふと胸が軽いことを思い出した。
 文を箱に入れたままにしてしまっていた。中身を知られれば憤死してしまいそうな内容が臆面もなく綴られている。西の言葉に秀でたものがいないようだったが、文字を繰る多鹿津神は読めてしまうかもしれない。その怒りと合わさった恐れと、何故か離したくない思いとが混ざり合って、つい懐に入れてしまうのが癖になっていた。部屋を移動し、書き物をする机の前に行って、ふと、感じたものがあった。
 異変を覚えつつも黒塗りの文箱を開ける。常に使うのならば書簡が入っているが、ここに来てからいちるのやり取りはすべて藤たち花媛たちを介している。溜まるものはないゆえ、そこにあるものは一枚きりのはずだった。
 それが、ない。
 呆然とし、急いで周りを見回す。うまく作動せぬ力を使ってその行方を探した。文が見つからない代わりに、明確な気配が漂っていた。慣れた藤や葵ではない、別の何か。
 青白さ、静寂の色、胸を痛めている誰かの震える細指、尖らせた心のような夜の月。
(満津野姫?)
 姿を捉えると、視ていたものが消える。
 何故彼女が、と素早く思考を繰った。目的があるとは思えない。決意があるなら怯えを残していかぬだろう。ならば、逆らえぬ者に命じられたのだ。紗久良姫、阿多流、伊座矢の誰か。
 可愛らしい理由で文を持っていったとは思えない。利用されていることは明らかだった。いちるは打掛を羽織ると、素早く銀珠殿を出た。昼のことを思えば、乱心を疑われかねない軽装だ。
(早まった真似をせねばよいが)
 その思いがいちるを焦らせる。妹女神たちは、いちるを巡る出来事から、揃って蚊帳の外にされている。燐姫は多鹿津という半身のためにそれを享受していたが、満津野姫は才気ある賢い女であるだけに、不満に思っているであろうことが想像できてしまった。
 紗久良姫が約束を守るのならば、今宵辺りに秘密は開示されてしかるべき。だが、明かされたもの、あるいは明かされなかった何かが彼女の不満のくすぶりを煽り、行動させた。懸命であろう彼女らしからぬ振る舞いだった。
 見える気配を辿っていけば、やがて麗光殿に至る。本殿を避けるようにして離れに向かっている。風が起こり、立ち止まる。突風の中でもう一つの目を開けば、笑う何者かの顔が見えた。
 いちるはかっと目を見開き、その領域へと足を踏み入れる。風の壁は嘲笑うかのように解け、いちるの背後を閉ざした。
 いつの間にか夜の風景は霧で煙り、月の光が朧になって、影が闇に溶けそうになっている。這い昇る冷気は、回廊が張り出している山の上に満たされているものだ。元より地上は見えない。風で灯火がひとつひとつ吹き消されていく。
 もう戻れないのではないか。夜の深さと己一人の乱れた呼吸がそんな恐れとなって肩を震わせる。それでも唇を結び、顎を上げて進むのは、撫湖の妖女と呼ばれた者の矜持だ。
 そうして、男を捉える。短い髪、乱雑かつ洒脱に緩めた衣。露台の手すりに腰をかけて、にやついた顔でいちるを待っている。
 いちるは手を差し出した。
「盗ったものをお返しいただこう」
「盗ったのは俺ではない。満津野だ」
「あなたが命じたのだ、伊座矢神。返していただけないのならば話を聞こう。わたくしを呼び出して、何の用があるのか」
 伊座矢の目に嘲りと嫌悪が浮かぶ。小賢しい女めと吐き捨てた。
「殊勝にしていればいいものを、強情に胸を張るところが気に食わぬ。対等であろうとするお前の在り方は、自分がアガルタに類するものという自信からか?」
「怯えて退くことに何の意味があります。大人しくしていればあなたは見逃したか。答えは否だ。あなたはわたくしのことが最初から嫌いなのだから」
「嫌いでは足りぬ。――憎い」
 風を唸らせる感情がぶつけられ、いちるは笑みを佩いた。
 こういう手合いの方がやりやすい。紗久良姫のような女は笑顔でのらくらと逃げ回るし、燐姫のように幼すぎて突く程度を加減せねばならないのは時間がかかる。真っ正面から切り込んできて堂々と憎いと言ってのける伊座矢のような相手は、弱味を探りながら思いきり殴りかかることができる。
「何故? こんなわたくしの、どこを憎むという。何も持っていないわたくしの何を嫌う」
「その、顔」
 顔、といちるは内心で眉をひそめた。
 だが冗談を言ったわけではないらしい伊座矢は、大きく息を吐きながらいちるの顔を見据えている。
「似すぎている。何故、お前なのだ? 血筋の賎しいお前に、何故色濃くその見目が現れる」
 何をと言いかけて、引っかかりを覚える。顔にまつわることで、いつか誰かが言っていた気がする。アンバーシュではない。美醜にまつわることではなかったのだ。もっと世間話のような、とりとめのないこと。印象に残らなかったということは、結論の出なかった事項。知人の顔を思い浮かべるが、思い出せない。
(何だ……?)
 伊座矢はせせら笑う。
「お前には分かるまい。分からせまい。俺がお前をここに呼んだのは話をするためではないのだから」
「伊座矢……っ!?」
 足が掬われる。地と己の間に空気の固まりが生まれ、いちるを持ち上げたのだ。風が手足を拘束する。後ろへと引かれる手を拳にしながら、相手への恨みを叫んだ。
[伊座矢――!]
「もう二度と会うことはあるまい。命を散らし、還ったそこで、大地女神に慰めてもらうがいい」
 男神の晴れ晴れとした顔が最後だった。宙に投げ出され、ふっと身体が浮いたかと思うと、まるで押さえつけられるようにして落下していた。異能の力を使った時に移動する視界のように、急速に。
 骨が軋み、悲鳴を上げている。脳髄が揺さぶられ、意識が消えかける。集中できず、呼ぶ声も出ない。
 地上の光は見えず、どこを漂っているのか分からないが、風の流れはいちるを奈落にたたき落とそうとしている。遠ざかる神々の国は、落ちていくところからは光もないただの暗い空だ。
 いつかのように手を伸ばしていた。雲を割ってくる光を求め、その名を呼ぼうとした。もうすでに名前を知っていたゆえに、望めば来てくれると分かっていた。あれはわたしのもので、わたしだけを求める光なのだから。
 だが、それよりも早く地上の闇がいちるを飲み込んだ。
 現れた闇の固まりは凄まじい高音を迸らせながら身体を飲み込む。柔らかいものに落ちる感触がしたが、氷に包まれたように凍えを感じて身体を強ばらせた。
 霧散する影たちがいちるの周りを蝙蝠や虫や烏の形になる。
 そうして、自身を抱く男に、いちるは顔を覆いたくなった。

 もうずっと前から分かっていた気がした。
 自分が終わるとき、迎えにくるのはこの男かもしれないと。

宗樹(むねき)――」

 ゆえに、抵抗した。素早くその顔に爪を立てると、顔を背けて体勢を崩した男の手から逃れ、再び空に舞い戻る。
 この男の手に落ちるなら、地面に叩き付けられることを選ぶ。死んだ方がましだった。
 しかし、音を鳴らしていた影の者たちが再び落下するところを掬い上げ、男の元にいちるを戻す。いちるを薄笑いで見る目が異質な光と影のまだらを描き、この男が魔眸に堕ちたことを知った。
 逃れられたはずだった。撫湖の卜師とこの男は争い、愚かなことにお互いに刺し違えて死んだのだ。どちらが異能の女を所有するかという馬鹿馬鹿しいことで、この身は、愚者どものくびきから解き放たれたはずだったのに。
 その死を喜んだことの報いか。肚の底から、じわり冷たく熱く広がってくるものがある。呪いがもたらす痛みに、意識を失う。間際の己の終焉を知る。
「喜べよ、いちる。無為に使われていたお前を、私がこの世界のために使ってやることができるのだから」
 言って、宗樹は首筋に顔を埋めた。
「お前は私のものだ」
 ――撫湖の妖女と呼ばれる発端となった男の手に落ちたのだと。

「イチル――」

 アンバーシュ。
 光が空を貫く。
 手を伸ばす。風の眷属の力を使い、神域から下りてきた男に助けを求める。だが視界は揺らぎ、男の姿はけれど強い光となっていちるを照らす。だがその顔を押さえつけられ、視界を塞がれた。耳に、宗樹の笑い声がかすめる。
 蛇のように走ったいくつもの闇の鎌首がアンバーシュを食らおうとする。放たれた雷撃は飲み込んで、更に枝分かれしてアンバーシュを背後から追った。その間に闇の波に乗った宗樹は、笑声を響かせて雷霆王を嘲笑う。
 いちるの手は落ちる。
「イチル――!!」
 神域の下を流れる夜空にアンバーシュの声が響く。
 いちるを飲んだ闇は、その空の色よりも暗く、何もかもを隔てていた。

<<  ―    ―  >>



―  INDEX  ―