<< ―
■ ―
>>
「なんてことを」
闇は深い。神ならざる者が、こんな高さから落ちれば無事では済むまい。
穏やかな美貌に焦燥を浮かべて露台の闇を覗き込んでいた満津野は、兄神を批難すべく顔を上げた。乱れた髪が一筋かかり、怒りと後悔を浮かべた瞳が泣き濡れて輝いた。
「こんなことをなさるなんて聞いていないわ! わたしはただ、兄様が秘密を教えてくれるというから」
「教えてやるとも。だが、そのためにはあの女が目障りだった。東神の子たる我らの上に立つなど、許すことはできん」
その時、背筋をなで上げる嫌な気配が膨らみ、弾けた。兄妹は息を呑み、神域を流れる雲の海の底を覗き込む。天地を光が貫いたが、それきり絶えた。後は、大気に含まれる異質な神の力と、吐き気を催す気色の悪いにおいのようなものが流れてくる。
何が、と呟いた満津野は露台を握りしめていたが、伊座矢もまた答えを持っていなかった。
そして次の瞬間、凄まじい足音とともに何者かが空へ身を躍らせる。真紅の瞳が獣めいて輝き、その身体は光を帯びて何かを追いかけた。
西の女神フロゥディジェンマだと理解した直後、声が聞こえた。
「満津野! 伊座矢……!」
裾を乱して紗久良が現れ、露台から阿多流が身を躍らせる。燐と多鹿津が寄り添って姿を見せ、渡汰流は手にした灯りで照らされる顔を、白く強ばらせている。
「無事ね、あなたたち。禍つ者の気配がしたから走ってきたのだけれど」
言って、さっと周囲に視線を走らせる。
「いちるは」
満津野が顔を覆って崩れ落ちる。寒々とした風に揺れる花のように、紗久良も顔色を失った。そこへ怒りの仮面を被って伊座矢を睨みつけるが、弟神は怒りをこらえた面持ちで言うのだった。
「報いを受けたのだ」
「伊座矢!」
「そうでなければならない! でなければ、我々が守ってきたものはなんだ! 交わりを捨て、神々で閉ざした我らの国とは! あの者がいれば我らの築いてきたものが揺らぐ。だからあなたも口を閉ざしていたのだろう、姉上。この神域、我ら東神、そして大神、すべての在り方を守るために」
呻くように男神は言った。
「罰されるべきは父神だ」
「伊座矢!」
「兄様、恐ろしいことを言わないで!」
「燐、大丈夫」
「だいじょうぶ……でも多鹿津、どうしよう。いちる殿を探さなくちゃ」
多鹿津に支えられた燐が見やった先に、阿多流に腕を掴まれてアンバーシュが降り立った。西の男神は目を覆い、じっと耐えている。神々は、阿多流が「見失った」と報告したことでその理由を知った。
「魔眸を率いた何者か。それがいちるを連れ去った」
「堕ちた者ね。相当力の強い者」
「兄様が招いたのよ! 神域近くまで魔を寄せ付けるなんて……」
「それを言うなら満津野、お前の焦燥もまた、奴らの食い物になったはずだ。さぞかし旨かろう、輪に加われなかった者の妬み嫉みは」
ばあん! と激しい光と音が響き渡る。
のたうつ光の蛇をまとって降り立ったアンバーシュは、口をつぐんだ彼らを冷めた目で見ていた。鋭く引き絞られた眼差しが、東神を射抜く。
[俺は、あなた方の事情を大人しく聞かなければならないんですか?]
大気が氷を砕くようにぱりぱりと音を立て、周囲は明るく明滅している。それをこけおどしと嘲笑った伊座矢だった。
[神にあらず、人でもない女だ。穢れた闇にふさわしかろう、……っ!?]
ここに集っているのは東の大神の子ら、それも直系、生粋の神々だった。古い神々とは生きた時間こそ異なるが、力の強さ、集まる信仰は同等以上。例え西神の先鋒を務めた男神であっても、姉弟たちが集っているのだから負けるはずがない。ましてや、伊座矢は阿多流に次いで、東神を率いて戦ったのだ。
だが、アンバーシュが放った雷は、見たことのない速さで走り、伊座矢を弾き飛ばした。柱に叩きつけられた伊座矢は、ごふっと息を吐くとずるずると崩れ落ちる。女神たちの悲鳴が上がったが、阿多流の見極めが早かった。女神たちを背後に庇いつつも、呆れ、咎める調子で「アンバーシュ」と呼んだ。加減したのが分かっているのだった。
[妻を害したのはそちらの方だ]
威力のほどは、昼間の騎射でよく知っている彼らだ。本気を出せば、いくら神でも粉微塵になる。だから、これはアンバーシュの温情だった。
[サクラ。アタル。あなた方は事情を知っているんでしょう。イチルとの約束を違えるつもりでしたか]
[……わたくしの一存では叶いません。父神様の許可なくば]
だが許可が下りてこないと言いたいのだ。だから弟妹たちが焦る。そこまで秘密がるかとアンバーシュは苦々しく思う。
[大神とはそれほどまでに絶対か。生ける者ほど、大事ではありませんか]
闇に飲まれたいちるの眼差しを。手を伸べる力すら奪われ、姿を消す彼女を、思い、アンバーシュは歯を噛む。
手を取れなかった。間に合わなかった。東の地で上手く力が作用しないことがあっても、自分はあそこで、いちるを救うべきだった。
(あの男)
黒い髪と黄色い肌は東人の姿だった。短く髪を刈って、阿多流のような着物と羽織をまとっていた。その目が異様な光にきらめいたということは、あれは闇に堕ち、再び形を与えられたもの。命が尽きてなお、闇の招きに答え、その思いが強いと認められて人の形をとどめることができたものだ。
その腕に大事に抱えられたいちるは、恐らくあの男の生前に繋がりがあったのだろう。あの男の心残りが、いちるなのだ。
[イチルの行方を探してもらいます。あなた方の持てる力、伝手、使えるものはすべて使っていただく]
姉弟神たちはぐっと唇を噛み、項垂れた。西神に頭を下げている東の高位神たちがこのような振る舞いをしたと知られては、信仰が地に落ちるであろう、それほど奇異な場面だった。
雷霆王の異名を取るアンバーシュは言い放つ。
「見つからなければ――この神域を撃ち落とします」
たっ、と軽い音でその傍らに銀色の獣が下りる。うなり声を上げて何かを知らせる。同時に、伊座矢が「姉上」といぶかしげな声音で言った。
「風が知らせてきます。来る。もうすぐ先触れが……」
夜の大気を風羽で割いた夜鳥が阿多流の腕に止まる。もう一羽、優美な翼を持つ鳥が紗久良の周りを、羽虫が燐の指先でそれぞれ羽ばたき、何かを伝えた。先んじて知らせを受けた阿多流が目を見開き、露台に乗り出す。痛みを堪える伊座矢と満津野も、夜天に首を巡らせ、渡汰流もまた怯えた様子で、不穏な気配を感じ取っている。
「何か……」
どん、と神域の地に響くもの。規則正しい拍が続く。これは打楽器だ。その証拠に、徐々に近付きつつあるそれに鈴の音が加わる。
空を見上げたアンバーシュの目に映ったのは、光の帯。
鳴り物と光をまとったそれは、人と獣の形をしている。東の神々から驚愕の声が零れ落ちた。
「西神……!」
先触れとなる、鳴り物を手にした風の神々。翼を持つ馬、天を駆ける狼。それらに馬車を引かせた男神たち。鋼の眼差しで東の神域を見下ろす剣の神。風の眷属を連れ、自らも翼を負う女神。武具を履いた眷属を連れた戦女神カレンミーアの姿もある。若々しい姿の神々が群れをなして空を駆ける様は、永遠に消えぬ流星のようだ。光が長く尾を引き、戦装束とはいえ、女神たちの鮮やかな衣が銀河の光星になって見える。
「アストラスたちが、あんな数がこんなところにまで近付いてくるなんて……」
だがそうして驚愕し、戸惑っていたのもわずかだった。来訪を見守っていたアンバーシュたちは、やがてその先頭に、眩い光を見る。太陽が燃え尽きるのではという輝きに一瞬世界は真昼になり、やがて、消失した。
父神様の宮に、と紗久良が色を失った様子で呟いた。
誰が来たのかは明らかだった。あれほどの光を放つ神は、この世に二人しかいない。
「……西神が止まるわ」
満津野が指した中空で、光は停止した。しばらくして、生暖かい風が吹いてくる。淡い虫食い穴に似た光のかたまりが生まれ、アンバーシュは知己たちがそこに陣を置いたことを知った。
しばらくそれが動かないことを分かって、それぞれが息をつく間があった。紗久良は裾を掴むと身を翻し、阿多流も素早くそれを追った。だが、それよりもまた別の者が姿を現す方が早かった。
廊下に膝をつき、深々と頭を下げる三人の女神のうち、先頭に座す髪を一つに束ねた妙齢の者を紗久良は「齋樹(さいじゅ)どの」と呼んだ。
「父神様がお呼びなのね」
「はい」
言って、顔を上げた女神の目は真紅の布で覆われていた。しかし、その眼差しはひたとアンバーシュに注がれていた。
「しかし、お連れするのはアストラスのアンバーシュ殿のみ、と仰せつかっております」
紗久良が顔色を変えた。震える唇から問う言葉が落ちる。
「何故」
「紗久良姫には説明を頼むと仰せです。まずは弟妹の皆様方に。その後、古神の皆様がご到着されますので、その方々とともに、集まってきた皆様にも周知していただくために骨を折っていただくことになります」
では、と顔色を失った紗久良の代わりに阿多流が尋ねた。
「真実を明らかにせよと仰せか」
「相違ございません」
丁寧に頭を下げた後、齋樹はアンバーシュを呼んだ。
「アンバーシュ殿。我らが東の大神アマノミヤがお会いになられます。ご同行をお願いいたします」
<< ―
■ ―
>>
―
INDEX ―