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 扉は深紅の布で覆われていた。守人が両側に立ち、重々しく戸を開くと、齋樹と呼ばれた女神が静かに進んでいく。
 着替える時間のみを貰い、アンバーシュは西の襟高の衣服と外套を身に着け、東を統べる神の前に進み出るにふさわしい姿を取り繕っていた。しかしその装いも気持ちを落ち着けてくれない。冷気となって満ちている、異なる性質を持ちながら強く清廉な神気が、これから会わねばならないそのひとから目を逸らすことを許さないからだ。
 両側に、何百年、何千年と時を経た木々から切り出した柱が、灯火に従って奥へ奥へと続いていく。天井は高く、女神の手元にある火だけではすべてを照らしきれない。夜の闇の中に何かが潜んでいてもおかしくない、それほどの暗さ、広さであり、神の宮にふさわしい建物だった。
 そのように呑まれそうになっていたために、目前にある階段が突如浮かび上がったように感じた。
「このままお進みください」
 女神が振り返った。随従の者たちが居並び、アンバーシュを見守る。階段は、不思議とそこにはっきりと見える。己が光を放っているか、それともそこだけ照らし出されているか、段の一つ一つを何もせずとも見て取れる。だから、まるで闇に包まれた中空に、上がっているか下がっているか定かでない階段と扉が浮かんでいるように見えるのだった。黒色が音を吸い込み、どんどん膨らんでいく錯覚を覚える。息が苦しいのは、怒りと焦りのせいだったが、それだけではない強大なものが近付きつつあることも確かだった。
 扉はひとりでに開いた。アンバーシュを飲み込むと、ふっと閉じる。

 その室内は、明るかった。道を示す証として、紅の敷物がまっすぐ続き、最奥に明るい灯火といくつかの段、そして、小さな深紅の天蓋に覆われたところがあった。
 天蓋の下は椅子になっていた。つまり、統治者のしるし。天蓋から下がる布に上部分を覆われ、座しているひとの表情ははっきりと伺えない。肘掛けに置いた白い手、右手が持ち上がり、声がした。
[近う]
 まだ入り口に立ちすくんでいた己に気付いて、アンバーシュは奥歯を噛み締めた。顎を引き、部屋の中程まで進む。そうして、一度礼をした。
[太陽と月の子たる東のきょうだいたち、その父なる方に拝謁でき、光栄です]
 頷く気配がした。だが、言葉はない。アンバーシュは己を抑えながら、ゆっくりと言葉を重ねていく。
[滞在に際して許可を戴きながら、ご挨拶が遅れたことをお詫び申し上げます。アマノミヤの大御神(おおみかみ)。あなたは、今、ここで起きていることをご存知でいらっしゃいますか]
 少し間があった。
[私は、すべてを、感じている]
 曖昧な言葉のそれが肯定だと分かり、アンバーシュは拳を握りしめた。
[あなたのお力で、イチルを救い出してください。それが出来ぬというのなら、あなたの子どもたちの力を貸していただきたい。イチルはどこにいるのか、魔眸の群れがどこにいるのか、その殲滅に]
[ナデシコだ]
 第三の声がし、振り返った。そして目を射られた。灯火が一斉に燃え上がり、部屋を光で満たしたのだ。それが落ち着くと再び[ナデシコにいる]という声がした。
 玉座の傍らに、金の髪のアストラス(西の大御神)が立っている。

[あの魔眸の群れの主、ムネキは元はナデシコの戦士だった男だ。国の占い師が予言した女を城へ連れて行った。術的な教育は占い師が、その他身辺の教育はあの男が行っていた。妖女と呼ばれるにふさわしい教養はその賜物だな。そして、名をイチルとつけたのはあの者たちだ。だがそれも、イチルが力をつけ始めたことによって関係に変化が生じた。占い師とムネキはどちらがイチルを己の道具とするか争い、占い師は剣で、ムネキは毒で死んだ。イチルはそれによって解放されたはずだったが、ムネキは常闇の中で問いかけられ、死の門前につく前に闇に掬われて形を得た。――どうだ、これがお前の知りたかったことだろう?]

 他者の言葉を聞かず、滔々と語るのは間違えようもなく西の大神だった。光芒を放つ髪をまとめもせず流し、青の始まりの色の瞳を煌煌と輝かせている。身につけているものは裾や袖が広がっている白色の衣に、銀色の肩布を巻いて、気を抜いた格好だというのにそれすらも讃えられるにふさわしい凛々しさだった。
 だが、アンバーシュはこの大神には礼をしなかった。何故。それだけを問うた。喜色を浮かべたアストラスは、まるで舞台に立ったかのように語りだす。
[私がここにいるのは時が来たから。イチルの居場所を知っているのは、私たちがずっとあれを見ていたから。その理由は、お前が思っているもので相違あるまい。さあ、言いたいことを言うがいい。お前の望みを叶える時間を、私たちが与えよう]
 空気の、張りつめた軋みが聞こえる。まるで息をしていないかのように、東西の大神はアンバーシュを見守っている。輝きすらも息を殺し、アンバーシュに眼差しを向け、促した。放たれる時が、今だという。
 アンバーシュは言った。
[アマノミヤ。あなたは知っているはずだ。彼女が、いったい、何者であるか]
 す、とかすかな衣擦れとともにアマノミヤが立ち上がる。黒髪がこぼれ、引きずる裾と根付けが涼やかな音を立てる。天蓋から姿を現し、ようやく訪れ人を捉えた大神に、思ってもみなかったものを目の当たりにしたアンバーシュは膝から崩れ落ちそうになった。多くのものが正面から捉えることができないもの、それから目を離せずにいなければと強く思うがために。
 長く、引きずる黒髪。白い肌に、色づいた唇。凛々しさよりも優美さや典雅を感じさせる美しさ。きりとつり上がった眼は緩やかな瞬きの優しさで刺を抜かれ、だがその美しいおもてには何の感情も浮かんでいない。
 決して光を宿さない目が注がれる。
 光を吸い込む赤い瞳は、しかしそれでも輝いている。
 耳を澄ませることは誠意ではないと思った。彼は、手を伸ばすだけでよかったのだ。手を伸ばし、手を取ってやって、一言言えば、すべては、何もかも違っていた。

[イチルは、――……あなたの、娘だ]

 似すぎている。
 瞳の色を黒に、背丈や身体の作りなどの男女の違いを変じ、眉をひそめさせれば、それはアンバーシュの妻を鏡で移したかのような姿だった。
 頭の芯がしびれた。震えがくる事実だった。心が萎える前に、更に言い放ったのは、この淡々とした大神の顔を歪ませたいという一心にすぎない。
[東の神アマノミヤと楽園の女アガルタの子。それが、神と呼ぶべきなのか半神であるのか、俺には分かりませんが]
 この世の、誰でもない者。当然だ。アガルタの血を持つ存在はこの世にいない。
「――何故!」
 問いたださずにはいられなかった。
[彼女をずっと見ていたのなら、彼女がどれだけの思いで自分の由縁を求めていたか、同族を、共に生きることのできるものを探していたか、あなた方は分かっていたはずなのに!]
[だからお前は選んだんじゃあないのか。お前は唯一を欲していて、あの女はそうだった。お前は都合のいい存在としてあの女を見つけ、運良くそれを手に入れることができた。お前はアマノミヤに感謝こそすれ、批難する謂れはないだろうに]
 己の言葉を己の伝えたいように主張するアストラスは、そう言って己の息子を笑い者にした。だがアンバーシュは構わずに問い続けた。
 何故、彼女を見捨てたのか。今頃になって手を伸ばしたか。
「時が来たのだ」とアストラスが繰り返した。
 そうして、アマノミヤが口を開いた。

[名のない娘を、私はシャングリラと呼んでいた]

 ――アガルタの門から運命的に連れ出された乙女は、東の神と西の神の間で揉み合いとなった。迎えであった湧水の神馬エリアシクルが、溺れそうになった娘を哀れに思ったことで解き放たれたものの、彼女は、西神ではなく東神の手に落ちることとなった。
 その、後の行方は知らない、といわれていた。
 だが、古い者ほど確信を持って口にする噂があった。西ではエリアシクル、キッサニーナ。東では紗久良や阿多流。東と西の争いのわけを知る神々はおおよそ理解していただろう。連れ去られたアガルタがどのような運命をたどったか。
[何も知らぬ、無垢な存在であった。世界のあらゆるものに感嘆の眼差しを注ぎ、みにくきものに涙を流した。だが、アガルタの地への思慕は途切れず、帰りたいと泣くようになり、帰る道が分からぬと言って、また、泣いた。花たる娘が零すその涙は美しい光だった。私は、その光を欲した]
 拠り所を失った娘が、東の神々の統治者に求められた結果、何が起こるかは想像に難くない。


[私がアガルタ(彼女)を汚したのだ]


 その結びつきを、アマノミヤはそのように表現した。
 さぞ、美しい娘だったろう。可憐で、か弱い存在だっただろう。頼れる者が自分を楽土から引き離したと知りながら、それらを憎むこともできない心の持ち主だったはずだ。
[子を産み、シャングリラは死んだ。道を見つけたと言い、跡形もなく消滅した。気付いた時には見えなくなっていた。私の前にアガルタへの道は開かれるものでないのだと、そう、思った……]
[ならば何故、イチルを東神としなかったのですか!]
 濡れるようだった紅の瞳が、細められる。嫌悪に。
[あれはアガルタでなかった]
 その鋭い嫌悪に、アンバーシュはつかの間息を呑み、睨み据えた。
[東神とは、神でなければならない。私は、この地の法をそのように敷いた。半神は神にあらず。神と人の交わりも許さぬ。ゆえに、私の血を引いていたとしても、神に叙することはできぬ]
[だから、捨てたのですか!? 誰も頼ることもできず、人の中で、人でないことを思い知らなければならなかったイチルの苦しみを]
[私が取り立てたとしても、古神が認めぬ。そのような習いであった。伊座矢は、古神である母親の影響を受けたようだが、あれの振る舞いを知っているそなたならば、そのような状況であの娘を置いたとしても、今のように長くなかったことが分かるだろう]
 そして、アマノミヤは目を伏せた。
[あれは、アガルタではなかった。私の不浄そのものであった。あの娘は我が罪。その罪を、側に置くことはできなかった]
[不浄などと言わないでいただきたい。イチルは、この上なく美しい、たった一人の俺の妻です]
[私が間近に目にすることはなかったが、それほどまでに心惹かれる存在がアガルタなんだろう。もしこの手にあれば、私も同じこともしたかもしれないな。まあ、その時は我が子を取り立てるが。……つまりそういうことだ。アマノミヤも私もイチルに手を出さなかったのは、あれがアガルタほどの引力を持たない曖昧な存在であったからと言える。ただ、キッサニーナを始めとして、あれを連れ去ったムネキ、占い師などは、微弱ながら好意的な感情を抱いてしまうわけだ]
 アストラスはそう言って、アマノミヤの隣に並び、親しげに肩に手を置いた。そうして眺めてみると、この二人も似通って見える。金と青のアストラス。黒と赤のアマノミヤ。中性的な美貌の大神たちは、性格も佇まいも異なるというのに、発せられるものは同一だった。
[時が来たのだ。アガルタへの道を開き、違えてしまった神産みから続いたこの世界を、正すために]

 ――アガルタへの道を開くのだ、とアストラスとアマノミヤは言った。

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