終章
 花を果たす はなをはたす
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 城の水路の縁に咲くリリルの花は、どうやら誰にも手を付けられていない。束になって咲く花々は、気付けば子どもや娘たちの手にあることが多いのだが、ディアスにとってはベルンデアがこちらに来ていない証になった。
(まったく、どこに行っちゃったんだろう)
 ディアスはため息をつきながら、立ち入ることを許されている区画を歩いていた。
 登城するということで着付けられた衣装は、襟巻きがふさふさとしており、飾り止めをしているのでずいぶん苦しい。両親にはそう訴えたのだが、礼儀だからと言い聞かせられた。
 同じく着飾らされたベルンデアもまた、大人しくしているようだったのに、謁見が終わると、すっといなくなってしまったのだった。
「仕方ない、よなあ……あの人が来てるって言われたら」
 アンバーシュもアンバーシュだった。何も、ベルンデアに直接「来てますよ」などと知らせなくてもいいものを。ただでさえ、あの人は妖しい雰囲気を醸し出している美男なのだ。幼い妹を誘惑し、かどわかすなど造作もない。
 不意に、木の葉の舞う秋の森が思い出された。ディアスは両親とともに、主にロッテンヒルの森の家に住んでいるが、瞼の裏に蘇ったのは、白く滑らかな手に手を引かれ、弾む心とともに木の葉を蹴り上げている、三歳の自分なのだった。
 手を引いてくれた人は、黒い髪と瞳を持つ、東の女性。ヴェルタファレン王妃、イチル・ヴェルタファレン・アストラス。
 この国ヴェルタファレンの調停王アンバーシュが、王妃イチルを失って五年になる。
 ディアスはうっすらとその女性のことを覚えていて、城に来ると両親に混じって王とその人の話をする。
 その人が喪われて、世界の在り方は変わった。人の生死の、その先のことを、人々は少しずつ知り始めている。ディアスの妹、ベルンデアは、恐らくその最初の一人だろうと言われていた。
(でも、そんなの関係ない。ベルンデアは、僕の妹だもの)
 ヴェルタファレン王宮でいなくなった妹はいつもディアスが探し、そして同じ人が連れてくるのがお決まりになっているのだが……。
 ふと、周囲がひんやりと涼しく、暗くなったので、ディアスははっと背筋を伸ばした。
 果たして、廊下から、背の高い男性が歩いてくる。
 白銀の髪は長く、華麗な巻き毛になっており、黒と銀で揃えた衣装が不吉なほど美しい。その美貌は、少女たちに不細工と平気で言えるディアスの友人たちが揃って口を開けるほどで、神様というのは恐ろしいなと思ったものだ。彼は、自分にも少しだけその血が流れているとは思えないくらい、力強くて、綺麗な人だ。
 ディアスは道を譲り、頭を垂れた。ディアス・イレスティン、と呼ばれる。
「こんなところで何をしている?」
「ごきげんよう、オルギュット陛下。陛下こそ、こんなところで何をしていらっしゃるんですか? 結晶宮で待ち合わせだって、アンバーシュ陛下が言っていました」
「可愛い子が来たのでね」とオルギュットは長い上着を広げてみせた。足下にいる茶色の巻き毛の少女に思わず「ベル!」と大声を出してしまったディアスだ。だが、ベルンデアは悪びれた様子はなくにっこりすると「おにいさま」と小さな足でやってきた。
「大人しくしてなさいって、母上に言われたのに」
「ごめんなさい。オルギュット様がいらしているときいたから」
 五つの子の言葉遣いではないが、ディアスはため息を吐くに留めた。ベルンデアはどうやら前世の記憶があるらしいと以前から分かっていたからだ。
 世界の理が変わった。死んだ者は、すべて、生まれ変わりの裁きを受けることになった。
 死の門前。西の地ではオルギュットが裁きを下すそこで、すべての魂は選択する。次の生に、次の記憶を持っていくか。それとも、すべてを洗い流して行くか。
 過去世を持ったまま生まれてくる子どもたちは、多くはすでに五歳ほどのはずだが、今のところ、大きな騒ぎは起こっていないようだ。それは、生者が記憶を蓄積していくのと同じで、生まれ変わった者もありとあらゆるすべての出来事を覚えているわけではないらしいことも、関係しているかもしれない。
 ベルンデアも、転生者がそうであるように、内容を上手く伝える術を持たないのか、それとも大人の意識で黙秘しているのか、その詳細をなかなか語らない。ただ、言葉の端々に小難しさや個人の理屈が込められているので、両親もため息している。ただ唯一、イバーマ国の調停王オルギュットにだけ非常に懐いているのは不自然で、両親は心当たりがあるようだったけれど、ディアスにはまだ教えてくれないのだった。
「あんまりご迷惑をおかけしてはだめだよ」
「ほんとうにごめいわくなら、追いかえされるからだいじょうぶ。でしょう、オルギュット様?」
 オルギュットは笑うだけだった。苦く、楽しく思っている複雑さが美しく表されるのはすごいなとディアスは思う。
「やれやれ。君がそんなだったとは思わなかったよ。昔はもう少し従順だったと思うのだが」
「まったくおなじではありませんから。変わらなかったものも、変わったものもあります。そういう世界になったのです」
 よく分からないことを話す二人にむっとして、ディアスはベルンデアの手を強く引いた。
「戻るよ、ベル。オルギュット陛下、お邪魔して申し訳ありませんでした」
「迷惑なら追い返しているよ。気に入らないのは君の方だろう。妹を取られるのはそんなに嫌か」
 ディアスはさっと頬を紅潮させた。
「失礼します!」


 兄に手を引かれるベルンデアが、しかたのない方と声に出さず呟き、機嫌を損ねたディアスに、謝罪の言葉や日常のことを細かに話しかけていた。
 オルギュットは幼い兄妹を見送ると、結晶宮へ戻る道を行く。
 ディアスの言う通り、ここまで来たのはベルンデアを送っていくためだけであり、兄の手に渡した以上、追っていっても仕方がないからだ。あの兄ならば、妹につく虫は適当に除去するだろう。兄としての独占欲が稚くて、つい笑みが漏れる。
「こんなところにいたんですか」
「ああ、アンバーシュ。探しにきたのか」
 やれやれ、とアンバーシュはどこかで聞いたような呆れ声を出した。
「あまりディアスをからかわないでくれませんか。彼なりに妹を守ろうとしているんですよ」
「ああも嫉妬されると面白くてね。彼は、妹が成長しても同じように過保護なのだろうか。今はまるで自分のもののように振る舞っているが、あの子のことを本当に分かっているのかな」
「あなたのものでもないでしょうに……」
 事件に耳聡い王宮の者たちは、オルギュットとアンバーシュが二人並ぶところに、どうしてか姿を見せない。だが、こうしていることをいつの間にか知っているらしい。結晶宮の特交守護官は特に聡い。居所を知っているからこそ、オルギュットもこうして自由に振る舞える。気軽に世間話くらいはできるようになった。
「あの少年はすっかりただ人になったな」
「成長するにつれて神の力が薄まったようです。ベルが特殊なせいで目立っていないだけかもしれませんけれど。変身は、分別がつくようになったので控えているようですね」
 知人について語るアンバーシュは、五年前とほとんど変わらない。少しだけ頬が削げ、雰囲気に艶が出た。ふとした時に気怠げにどこともしれぬところを見つめ、呼びかけには、儚いが張りつめた清浄さで微笑む。もしその清らかさで、傷つくことを恐れず深い受容を示しているのだとしたら、この男は変わったのだろう。以前は、もう少し余裕がなかった。
「時間はいいのか」
 オルギュットの笑みに気付かず、アンバーシュははっと息を呑んだ。
「まずい。スズルと約束があるんでした。もう出ないと」
「東島か? 保護者は大変だな」
 大神となったフロゥディジェンマは西島を支える柱になったが、神々との関わりや人との交わりには、これまでと変わらずアンバーシュたちを使っているのだ。おかげでのあの女神の周りの者たちは、以前のように気ままに遊ぶということはできなくなり、おかげでずいぶん人の語る神らしくなった。オルギュットもまた、変化のあったイバーマで過ごすうち、言い表しようのない空虚感に目を背けることができていた。
「そうなんです、保護者は大変なんです。だからベルにちょっかいを出さないでください。彼女自身はともかく、クロードもミザントリも、ディアスも、家族として心配しているんですよ。あなたには前科があるんです」
「おやおや、話を繰り返す時間があるのかな。さっさと行きなさい」
 行きかけたアンバーシュは、立ち止まって念を押した。
「本当に、お願いしますよ」
「信用してくれないのか。兄は悲しいな」
「三歳の幼児に求婚する変態を兄だとはあんまり思いたくないんですが」
 さっさと行けと手を振った。
 アンバーシュの去った方向から風が吹いてくる。オルギュットがこの五年で感じ取るようになった、太陽の香り。温もった大気と大地。日の光を通すと、緑は透き通った黄金に縁取られる。
「オルギュットさま」
 戻ってきた少女を呼ぶ声は、自分でも驚くほどに甘かった。
「レグランス」
 今はベルンデア・イレスティンという名の彼女は、緑と薄黄色の縞のドレスをまとい、母に結われた髪を揺らし、五歳の幼子とは思えぬ微笑みで、両手を伸ばす。子どもの手のひらが熱いということも、その身体が軽いことも、オルギュットには新しい。
「いまは、ベルンデアです。あんまりおにいさまを怒らせないでください。そうでなくても、オルギュット様はおとうさまとおかあさまに信用されていないのですから」
「あれは私もまずかったと思っている」
 ミザントリ・イレスティンが、クロードとの間に生まれた第二子を連れて現れたとき、その子に奇妙な既視感を覚えた。大きな瞳を丸くし、やがて笑顔を凝縮されると、舌足らずの声を発した。それでつい、言ってしまった。
『結婚しようか』
 以来、イレスティン侯爵令嬢夫妻にとって要注意人物となったオルギュットだった。
 レグランス・ティセルは形を変えて戻ってきた。この五年、様々な形で記憶の欠片を持って生まれる赤子が増えている。オルギュットはそれが奇跡でないことを知っている。
「アンバーシュさまは出発されたのですか?」
「ああ。今回はスズルに呼びつけられたらしい。まあ、そうでもしないとあれは決して東島へ行くまい。この五年、何かと理由をつけて避け続けていたのだから」
 東島では非常に株の下がったアンバーシュだった。あちらの神域では女神たちが力を持っているため、なんだあの腑抜けはということになっているのだ。
「きちんとおはなしができるといいですね」
「さて、どうかな。あれの言うに、保護者は大変らしいから。絶対に渋られる、断言してもいい」
 ベルンデアが声を立てて笑う。
 太陽の光が、産毛の生えた少女の肌を、白く照らし出す。夜の光をずっと見ていたオルギュットには世界は眩しすぎたが、そこで笑う彼女に、新しい世界の光はふさわしいと思えた。

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