銀海を渡り、白い雲の中を突き抜けていくと、緑に覆われた大地が現れる。
東の神域に足を踏み入れるのは久しぶりだった。地上の国々を訪れたことはあるが、神々の住まいは、珠洲流が大神となってからどのように変わったのかを知らない。
馬車で乗り付け、空へ放つ。頭を下げる花媛たちが先導する。神域でも、アマノミヤの住居であった宮殿は初めてだ。そこは扉も窓もすべて開け放たれ、常に風の流れがある。雲に乗って水の気が漂って、空気が爽やかに感じられる。
広間に向かう途中ですれ違ったのは多鹿津だった。
[リンは元気ですか?]
多鹿津はともかく、燐はなかなか表に出てこない。だからアンバーシュもしばらく会っていなかった。
[元気です]
そう言って、首を傾けた。
[イバーマ国に、二人で旅行することになりました。あちらの生態系が変わらないうちに、描きたいものがあるそうなので]
燐の趣味は絵画だ。特に虫と植物を描くのが好きらしく、非常に達者だ。二人で絵画旅行に行くとは微笑ましい。
多鹿津と別れ、広間にいた珠洲流に迎えられた。
[久しぶりだな]
[ええ。しばらくぶりです]
それぞれに着席すると、この頃はどうだと彼は訊く。
撫瑚国に穿たれた穴はそのままだが、神々の作った網と結界が人を危険から遠ざけている。今ではその穴は死の門と呼ばれているらしい。オルギュットや燐姫の守護地である場所が、安息の地ではなく命の潰える場所の名となった。その闇に落ち込めば二度とは戻れない、そう語られる場所だ。
このようにして、世界の在り方も、人の信仰も、神々の立場も変わっていくのだろう。東の神と西の神が行き来するように。
[アマノミヤの神々がずいぶん明るくなったなと思います。さっきタカツと十秒以上話しましたよ]
[少しずつ外に興味をお持ちになり始めているようだ。いい傾向だと思う。お二人とも、以前よりずっと穏やかになられた]
己を見つめ合うように向かい合っていた燐と多鹿津。病的だとも、歪んでいるとも言われていたことを覚えている。その関係には緩やかな変化が訪れ、いい方向に進んでいるようだ。
[それで、例の件だが、決まった]
アンバーシュはゆるゆると微笑んだ。
[では……]
[ああ。我が守護地、東島の名は、シャングリラとする]
そう言って、珠洲流は微苦笑を浮かべた。
[エマが広く叫んだためにその名が流布してしまったが、その名以上にふさわしいものもないと思っている。ひいては、そちらにも頼みたいことがあるのだが]
西の大神はフロゥディジェンマだが、これまでの立場から、アンバーシュが窓口のようなことをしていた。彼女は気ままな女神だし、一所に落ち着かず、気まぐれにあちこちに現れる。これ以上大神にふさわしい性質もない、と思う。
彼女は愛も喪失も知っている。だから、持っているそれと失ったそれを、世界に名付けた。
[分かりました。東の島をシャングリラ。そして西の島を、アルカディアと名付けましょう。この世界が、楽園となることを願って]
新しい世界が、ゆるりと回り始める。これまでと変わらず、しかし、また別の形で。
固く眼差しを交わし合った二人だったが、ふと珠洲流は複雑な表情で、半笑いになって首を傾けた。
[女神たちが、怒っている。何故あれは会いに来ぬと]
うっと詰まった。言われると思ったが、やはりきたか。
[こっちも、心の準備がですね……]
[そんなことを言っていると、皆がお前を締め出すぞ。いい加減に決めたらどうだ]
[あなたはいいんですか]
[エマが決めたことなら頷くしかなかろう]
歳はさほど変わらないが、少女の姿にも妙齢の女性にも変化する西の大神フロゥディジェンマを妻をした珠洲流は、出会った当初と変わらず彼女に強く出ることができない。無骨な東の大神をあっという間に陥落させるなんて、あの少女神にそんな才能があるなど、あまり知りたくなかったと保護者の立場として思う。
[春殿で、紗久良姉上と花見をしているはずだ。行ってこい]
珠洲流に追い立てられ、案内までつけられてしまっては行くしかない。
足は重く、気は進まない。だが、心臓が逸り、心待ちにしていたことも確かだった。オルギュットにはあんなことを言ったのに、いざ自分がそうなると、兄は凄まじく勇気があったのだと感じる。五歳にも満たない子どもに、結婚しようなどと言える神経が羨ましかった。
以前訪れたのは、同じ造りに冬殿だったが、春殿は甘さと緑の香りがする空間だった。庭に出るところに春の絵画が広がっている、と思ったら、それは紗久良のまとう衣の意匠だ。蜜色の地に白い花樹が、次々と花開いていく魔力を持つ衣装だった。アンバーシュに気付いて紗久良は顔を向け、おや、と半目になる。
[めずらしい方がいらっしゃること。こちらに珠洲流はおりませんわ]
[今会ってきたところですよ。……彼女は、向こうに?]
優美な花女神はため息も優雅だった。
[今更何をおっしゃるの。五年です。五年も、あの子は待っていたのですよ。幼い自分が、地上を行き来するのは危険だと知っているから]
批難は覚悟の上だ。けれど、アンバーシュは必要だったと思っている。時間は流れるべきだった。もう一度出会うために、変化しなければならなかった。そう分かっているからこそ[あなた方にお譲りしたんですよ]とアンバーシュは微笑う。
[これからは、俺のものです]
紗久良は口を開け、閉じてむっと眉を寄せた。ふんと鼻を鳴らすと、裾を引いて立ち上がる。そのまま挨拶もなしに行ったのは、彼女なりに、庭にいる彼女に気を使ったのだろう。
アンバーシュは庭へ降りた。
そこは、低い枝が絡み合う、林の中だった。瘤がある枝が、まるで天蓋のように組み合わさり、白く甘い香りの花をつけている。丸い花びら。東に咲く花樹。梅と言うのだそうだ。まるで雪片が集まっているようだ。冬の冷たさを残し、春の温かさを望む花。
くつ、と笑う声が聞こえて振り仰ぐと、小さな裸足が降ってきた。
光が、眩しく黒髪の輪郭を辿って差し込んでいた。彼女が首を傾けると光は遮られ、花の白と髪の黒、唇の赤が艶やかに視界に刻まれる。
心臓が打つ。
十五、六の少女が、片膝に顔を置き、じっとアンバーシュを覗き込んでいる。
「……やあ、こんにちは。初めまして……と言うのは変かな。今まで会いに来なくてすみません。エマやスズルから元気だとは聞いていましたが、会うのは少し、怖くて……その、俺のこと、分かりますか?」
ふわりと泳ぐ裸足の、その爪は、周りにある梅の花びらのようにかすかな光を放っている。
そこにいるのは少し幼いながらも確かに黒い髪と瞳を持つ、東の妖女、ヴェルタファレン王妃と呼ばれた女性の面影を宿している少女だ。じっとアンバーシュを見つめている。濡れた黒の瞳は、宝石の粒のようにきらめいて。
約五年前。珠洲流とフロゥディジェンマは結婚し、その間に娘が誕生した。それは、大地と廻りを司る、去ってしまった三柱に代わる最も強力な女神だった。神は必要であれば年齢に関わらず成長する。彼女は生まれてまだ五年に満たない。だが、すでに姿は十五、六歳の少女だ。
ここにいるのは、フロゥディジェンマの娘――大地と廻りを司る女神。
失われた彼女の名の意味を知ったフロゥディジェンマが、産み落とした同じ名を与えることを求めた。珠洲流がそれを認めて、字を当てた。彼女は、最初からその名を持って生まれ育った。
「一縷(いちる)」
――希望の糸。ひとすじの光。
あなたを求め、あなたを辿り、ここに来た。
「あなたがいない世界は、暗すぎる」
声は震え、微笑みがうまく作れない。精一杯に喜びを伝えるために、無意味なほど言葉を重ねようとしている。
恐れていた。過去の記憶の有無は誰も教えてくれなかったし、聞けなかった。もし永久にいちるが存在しないのなら、自分はきっと深く絶望するだろう。それこそ、父神たちのように創り直しを求めるかもしれない。
「会いたかった」
それでもその言葉は真実だ。
どれだけ待ったと思っているのだろう。そして、待たせただろうか。冷たい目を向けられると覚悟していたというのに、少女神の笑みは、花も気に留められぬほど美しい。目を細め、瞬きすら惜しいほどの喜びを、光として紡いでいく。
風が起こった。彼女の手が動いたことで、木々の花が揺れ、花弁が落ち、香った。花咲ける喜びの、甘く激しい香りだ。
手が差し出されていた。
アンバーシュはその姿を捉え、息を飲み下した。目を閉じないように何とか力を振り絞って、込み上げる熱いものを微笑みにする。白い手。少女の手。いつか触れた手はそこにはないけれど、ここには女神がいる。
大地の女神ではなく、アンバーシュが求めたたったひとりだ。
「花は零れ、枯れ朽ちてこそ」
言葉は、彼女の唇から零れ落ちたものだった。
そして、次の花が咲く。枯れて、また咲くのだ。途方もない繰り返しが行われ、花は咲くものだと当たり前のことを皆が唱えるだろう。
散るばかりが花ではない。咲くばかりがそれではない。探すことも、見つけることも、育てることも、失うことも。待つことすら、喜びになるものが存在する。
視界を白が埋める。
花が散っていく。
いつか枯れて、朽ちる花々だ。
零ゆる花を連れた女神が、笑っている。
(あなたがそこにいる。もう一度、ここにいる)
アンバーシュは微笑みを返し、そして、一歩、踏み出した。
廻る世界。この地の名はシャングリラ。
咲き、枯れて朽ち、また咲くことを約束されたその場所で、あなたが、待ってくれている。