第三章
 暗闘 あんとう
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 ヴェルタファレンの城に、東から、妃となる女性が現れたことはすぐに貴族たちにも知るところとなった。彼女と直接顔を合わせたという幾人かの宮仕えの者たちから、変わった名前の持ち主であること、普通の女性とは思えない奇妙な言動をすることなどの噂が広がっていった。特に、令嬢たちの間では、その派手な振る舞いの話で持ちきりだった。
「ネイゼルヘイシェ夫人の格好をしたんですって! いったいどういうつもりなのかしら。あんな悪女の真似をするなんて……」
「ミィさま。わたくし、悔しくってなりません!」
 涙声で身を震わせた一人に、彼女はおっとりと首をかしげた。結い上げてもなお長く、きらめく金の髪が彼女の微笑みを淡い輝きで彩る。
「まあ、どうしてですか?」
「そんな、どことも知れぬ異国の者に、輝ける半神王の妃の座を奪われるなんて……! 王妃の座は、イレスティン侯爵家のミザントリさまこそふさわしいのに!」
 それを皮切りに、机についていた娘たちは口々に言い合った。頷き、手を振り、かしましくしゃべる娘たちは、庭という場所も相まって子雀のようだった。
「皆様、そんなに大きな声を出さないで……せっかくのお茶会ですわ。今日のために、早摘みのお茶と、れんげ蜜と、それに合う果実のケーキを用意したんですよ。ぜひ皆様に食べていただきたくて」
 ミザントリの微笑みに、娘たちは恥じ入ったように扇や手袋の手で口元を押さえた。
「ミィさま……」
「さあ、たくさん召し上がってください。食べ終わったら、お庭を散策いたしましょう。我が屋敷の花を、皆様に見ていただきたいのです」
 困ったように眉尻を下げながら、けれど笑うミザントリに、娘たちははにかんで、最初の穏やかさを取り戻していた。ミザントリはにっこりしながら、扇の内側にため息を吐き出した。本当に、困った方たちだこと。
(けれど、いらした姫君がどんな方なのかは興味があるわ。目の敵にされては、城に行きづらくなってしまうもの。『あの方』にお会いできなくなるのは、いやだわ)
「ミィさま、このお茶、とても美味しいですわ」
「よかった。喜んでいただけて、嬉しいです」
 やはり、お茶会か、とミザントリは考えた。貴族女性の交流には、食事やお茶がもっとも用いられる機会だ。すでにこれだけの女性たちに嫌悪されている状況を、その姫がどのように対応するか、見てみたい。
(できれば、人の和を尊ぶ、穏やかな方だといいけれど)
 人との関わり方に注意を払うことができるおおらかな人物か、それともミザントリが作ってきた娘たちの固い結束を踏み荒らすのか。見極めるべきだ、と考えた。それが、ヴェルタファレンに長く根ざす、イレスティン侯爵家の一人娘の義務だと思って。


       *


 顔を洗い、簡単な身繕いをした後、女官たちが来る前に水差しの残りの水で花瓶の水を足した。花は赤や黄色の鮮やかなものに変わり、気候はますます春めいて、いよいよあたたかくなってきていた。
 土地の関係かそれとも西神の意志か、ヴェルタファレンは撫瑚に比べてあたたかい。
 撫瑚の冬は身を切るようだっただけに、冷えに悩まされる冬を飛び越えたのを運が良かったと思ういちるだった。冬は、暖をとれず、飢える者も多かった。ここではそんなことはあまりないのかもしれない。
 嫌いだ、といちるは一人ごちた。
 時間が来るとレイチェルが朝のお茶を持ってくる。その後、ネイサとジュゼットがやってきて挨拶を交わし、身支度を整える。長過ぎる髪をまとめて飾る仕事は、三人とももう手慣れたものだ。頭の上で塔を作るように巻き付けたり、飾りに網がついたものにしまい込んだり、編み込んだりと変化をつけてくれるが、そろそろ時期かもしれぬ、と考えていた。
(印象づけは成功した。この者たちの手を煩わせるのもそろそろ気が咎める。何より、今の生活にこの長さは向かぬ)
 身支度が億劫でも部屋に閉じこもるわけにはいかないのは、ひとえに訪問者がいるためだ。
「ご朝食の用意ができております。どうぞ、食堂へ」
 頷き、裾を引く。案内に従って食事に向えば、すでに先客があった。
 神々しいばかりの琥珀の髪。なのに白銀に見えるような薄い青の目。朝の光を浴びる雄々しく美しい男は、いちるに微笑みかけて挨拶をする。その、とろけんばかりの優美な声。
「おはようございます、イチル」
[おはよう]
 不機嫌な応答をこの男は気に留めない。食卓につくと籠や皿にたっぷりと料理が運ばれてきた。油脂と小麦を練った麺麭は、東とは違い、たっぷりと脂の香りがして香ばしい。アンバーシュがまっさきに籠を寄越すのをさも当然と受け取る。断じて厚意と思ったりはしない。
「今日の予定は、昼食までクロードの講義、午後から自由時間ですね」
[自由になる時間などない。やたらと誘いの手紙が来る。そろそろ返答をせねばならぬ]
「茶会に出るんですか」
[多々あるゆえ、選別する。その辺りの考慮はクロードやエルンストに聞くゆえお前は出てこずともよい]
 なんだ、とアンバーシュは落胆の息を吐き出す。
「面倒なら、一気に顔見せしてもいいんですよ。講和記念と称して夜会を開くことはできます。準備は大変ですがあなたを紹介するいい機会になるし」
[客が何百人となるだろう。それでは力関係を把握するのが面倒じゃ]
 少人数の所帯で、それぞれの関係を見比べていくのが最も確実である。どれが敵で誰が味方か、把握するのは早い方がいい。
[地方に居住する者がいるなら、主都で妾のことが十分広まってからの方が効果的だろう]
「必要以上に期待が高まってしまいますよ。どれだけ風変わりで、どんな奇異な行動をするか」
[期待されれば応えるのもやぶさかではない]
 呆れた息で笑いながらも、アンバーシュがそれほど苦く思っていないことは分かっていた。いちるの仕事に向こうも満足していることが分かり、これがいいと思う。これならば、まだ対等に近い。
(せめて、もう一手。優位に立てる術があるのならそれにこしたことはないのだが)
 分かりました、と不意にアンバーシュが言った。
「返事を書くのに部屋にいるんですね。じゃあその時分に顔を出しに来ましょう」
「…………」
 まだ回避可能だ、といちるは拳を握りしめる。
 食後、クロードがアンバーシュを迎えに来た。いちるに笑みを浮かべて朝の挨拶をすると、背後に控えた者に何かを命じる。女官たちが捧げ持ってきた一抱えの布を差し出され、いちるは迷惑と困惑の微妙な顔を向けた。
[何じゃ、これは]
「気に入った布があったと聞いたのでそれで仕立てさせました」
 改めて見ると、確かに布の店で見たあの布だった。中途半端だと言っていた濃紫の布地で仕立てたドレスである。白色が主であるらしい透かし編みを、ここでは黒にして、腰を巡る帯は金と紅にしてある。派手なのはそれくらいで、色も形も可愛らしくもなく、大人びすぎているかもしれないが、いちるには似合いだろうという印象だ。
「…………」
「着て見せてくれませんか。絶対に似合う」
 にこりともせずにいちるは言った。
「お礼を言いましょう。ありがとう、アンバーシュ。どうぞ、お仕事にお行きになってください。わたくしは、今日は忙しいのです」
 西言葉では機微が伝わりにくいのに苛立ちながら、表情とはまったく正反対の柔らかな声で促した。すると、アンバーシュは大爆笑しながら、クロードとともに去っていった。


[アンバーシュが何を考えているか分からぬ]
 この暁の離宮は小さいながらもいくつか部屋があって、そのうちのひとつをいちるは執務室にしている。書き物机や学習に使う教科書代わりの書物を運び込ませ、立ち居振る舞いを見るために巨大な姿見を持ってきていた。
 今は、茶会に出ることを知らせたためか、アンバーシュの指示を受けたクロードは茶器などの食器を机に運ばせ、いちるに基本的だと思われることを指示している。アンバーシュの側で補佐をするという仕事をエルンストと交代してきたというクロードは、わずかに苦笑し、咳払いして、アンバーシュの人となりを話し始めた。
「とびきり剛胆ですが、意味が分からないほど繊細なひと、という極端な性格だと私は認識しています。姫があの人を理解したら背中をかけてもいい」
[背中]
「私は人を乗せないので」
[なるほど、本来の姿の背中のことか]
 あの美しい馬が本当に自分の物ならばよかったのに、と思うも、こうして人型を取って喋られては口に出すことは出来ない。笑ういちるに「姫、声を使ってください」とクロードが注意する。
「失礼。でも、クロード、わたくしが彼の考えが分からないと言うのには、もっと大きな理由があります」
 茶碗を置く。
 何でしょうと優しく待つ従者に、婉然と告げた。
「婚約者と公にしてわたくしをここに置いておきながら――どうして具体的な話が何も知らされないのでしょうか?」
 柔らかな青年が笑顔のまま凍り付く。
 いちるは両方の声で呼びかけた。
「クロぉド?」
「それは、その……」
 ばしん! と机を叩いたのにクロードはびくりとした。
[最も事情を知るそなたがその態度か。アンバーシュははぐらかすであろうし話もしたくないゆえ聞かなかったが、何故に妾をこのまま留め置くか理解できぬ。なるほど確かにアンバーシュは言葉を覚えろと言った。だがその後の具体的な打ち合わせが一切ないとはどういう了見か。民に喧伝しておいて穀潰しにする気か。神の遊びに民を付き合わせるのか]
 再び机を叩いた。
[妾は、飼い殺しにされる気はさらさらない]
 二度目の音に、クロードは今度は目を閉じただけだった。俯いたまま、うめき声で「申し訳、ありません……」と言う。ようやく口を開く気になったかと茶碗に伸ばした手は、クロードのまなざしに止められた。
 反抗の目だった。
「主の説明不足は、重々にお詫びします。ですが、このことは私が話すわけにはいきません。どうか、姫。しばらく時間を置いてくださいませんか」
[相応の説明もないのに求めるのか]
「……アンバーシュは、見極めようとしているのだと、思います」
[何を]
「見極めるという言い方は適切ではないかもしれません。確かめたいのだ、と思うのです。姫が本当に、この国に在ることができるのか。去ることはないのか。立っていられるのか」
 いちるは目をすがめた。
[もっとはっきり言うことはできぬか]
「これが、精一杯です」
 低い唸り声のようだったが、クロードはきっぱりと答えた。
 いちるは仕方なしに退いた。ここでやり合っても、込み入った交渉事になって長引き、誰かの耳に入ると判断したためだった。彼の意志は強固で、それならばもっと御しやすい人間がいる。
 そのままなし崩しに稽古はしまいになり、昼食代わりの軽食を前にしたいちるは、人心地ついて、さきほどのやり取りを思い返してにやりとした。
 アンバーシュはいちるの知らぬところで何かを企んでいる。その画策はいちるに知られたくないこと。不可解な婚約関係の原因と、現状の理由に繋がるもの。
(……なるほど? アンバーシュの弱みはその辺りにある、か)

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