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 午後になっていちるはすぐに図書室へ足を向けた。あのまま部屋にいると必ずアンバーシュがやってくることが分かりきっている。毎朝顔を合わせることもうんざりし始めており、こうして棚と棚の間に隠れるようにして、木枠にもたれながら書物をめくるのが大事な休息時間となっていた。
 東にはない哲学や数学や芸術を紐解くのに飽きると、決まって神話の本を選んだ。
 西は、とんでもなく神話が多い。それも自叙伝かと思うほど微に入り細にわたっている。神の名前で一冊の本が編まれるくらいで、いちるが撫瑚で読んでいた革製本はそれら大量の物語を少しずつ拾った程度のものだったらしい。
 創世の物語は、東西、ある程度共通している。

 太陽の神と月の神が、光を交わらせて大地を照らす。そこに大地の神が現れた。三柱の神が、やがて西と東に分かれる二神を生み出す。西のアストラス、東のアマノミヤだ。
 大地の神はさらに獣神たちを生み出した。永遠を生きる神獣たちである。
 三柱は更に神を生み出した。川の神、風の神、森の神、雨の神。
 しかし最後に孕んだ火の神があまりにも強すぎたため、大地の神は深い眠りにつく。
 大地神を安らかに眠らせるため、太陽の神と月の神は空に身代わりの光を置いて、とこしえに隠れることにした。
 この時、この刹那に真の闇が降りて、いずこかより魔眸が現れた。
 子神を守るため、二柱は光が耐えぬよう、交互に光を放ってやることにした。これが、我々が今見ている太陽と月である。
 やがて、神殺しの火の神を巡り、神々の間で争いが起こった。多くの神獣、古い神々が死んだ。
 そうして、時が流れ、火の神の争いを知る者よりも年若い新しい神々が増えた頃――アストラスとアマノミヤは、それぞれの考え方の違いから、大地を分けて永遠に似た時間を相争うようになるのだが、東者のいちるが西国にいる現在、このさきの未来は、どうなるか誰にも分からぬのだった。



 人の気配を感じて目を上げる。床に広がる裾は、気付く者が見れば気付くだろうが、まったく構わずに折った膝の上を台替りにして本を広げていた。そのままの体勢で聞き耳を立てる。
「…………るなんて、わたくしは暇ではなくてよ、お兄様」
 セイラだ。鼻にかかった甘い声はすぐに分かる。
「時間が空いていることを知っているから呼び出したのだ。お前が忙しいことは知っている。そんな面倒そうな顔をするな、セイラ」
 もう一方はエルンストだった。兄妹がこんなところで密会とは、なかなかに面白いではないか。何の話が聞けるか、唇を歪めて声と息を堪える。
「面倒なら呼び出しに応じませんわ。わたくしのこと、ご存じないのね」
「言葉遊びをしたいのではない。……耳飾りはどうなった?」
 ふっとセイラが笑ったのが聞こえた。
「残念ながら、まだ。……お兄様も大変でいらっしゃいますこと。あれがなければ話を進められないなんてほざく爺婆たちの言いなりなんて、妹は涙が出てしまいそうですわ」
「口が悪いぞ」
「本当のことしか申しませんわ。お兄様もお可哀想ですし、何を言われても黙っているし動こうとしないアンバーシュもとっても哀れ! うふふ」
 うっとりとした笑い声にエルンストの苦悩のため息が重なる。
「何故陛下はお前を少しでも側に置かれたのか、まったくさっぱり理解できん。こんな金のかかる嫌みな女を……」
「褒め言葉と受け取っておきますわ。でもお兄様、彼がわたくしを選んだ理由はごく単純ですのよ。わたくしが、踏まれても踏み返す女だからですわ」
 エルンストは何も言わなかった。
「……とにかく、もう少し捜索の手を広げてもらいたい。この前の魔眸襲撃の件で、王妃を求める一般市民の声が大きくなっている。余計な活躍をしてくださったおかげで、本当に頭が痛いことだ。名前だけが一人歩きするのは好ましくない。まだ実力も見極めきれていないし、意外に金のかかるひとかもしれないし」
「確かに、市井の人気は高まったようですわね。風変わりな容貌で街を練り歩いた後に、あの襲撃の撃退。代わりに貴族たちの評判は低いまま、魔眸をあの女が呼び寄せたのだと言われる始末。けれど最後に彼女が陣頭を指揮したのだという話が街の者たちに広がってしまった」
 すると、セイラは笑い出す。
「でもわたくし、一番悪いのはアンバーシュだと思いましてよ。あの弱虫」
「セイラ」
「まあ、恐いお顔。本当のことですのに。あの方が立場をはっきりなされないからあんな評判が立つのでしょ。ああ、ご安心くださいな。きちんと仕事はいたします。わたくしにも浅からぬ因縁がございますもの……あの方が大切にしていらした、あの耳飾り」
「ヴェルタファレンの至宝だ。ヴィヴィアン様の物ではない」
 今度はセイラが黙り、笑ったようだった。
「……それで、どうして図書室ですの? いつもはお庭を散策しながらですのに」
 ぎしりと本棚が軋む音。
「イチル姫が来られたから、東について書かれた書籍を探そうと思ったのだ。一人では手に余るから、お前に手伝ってもらおうと思ったのだが……」
「この量を? 二人で? 部下に任せればよろしいのに」
「…………」
「必死になっているのを知られたくないのね。お変わりなくて嬉しいわ。でも今日は時間が足りないでしょう。後で図書係のものに目録かなにか届けさせてからでもよいのではありません?」
「一応めぼしいものだけ運んでいく。手伝ってくれ」
(こちらに来るか)
 いちるは待っていたが、二人はそのまま入り口近くに置いてある百科事典や辞書の類いを持っていったらしい。いちるは発見されることなく、聞き耳を咎められることはなかった。
 つまらぬ、と凝った首を仰向ける。
(耳飾り、な)
 部屋に忘れたとセイラが挑発した、その品を示している可能性が高い。
(ヴェルタファレンの至宝)
 本を棚に差し置き、ヴェルタファレンに関連する書物が並ぶ棚の前に立つ。背表紙をなぞり、細指で抜き出したのは、緑に染められた革表紙の、親指の長さより重い冊子だ。いつかクロードが持ってきた中にあった一冊だった。
 歴史書と銘打たれた中身の、ヴェルタファレンと王家をざっと見ていく。耳飾り、装飾品に関連する単語を斜め読みしていくと、アンバーシュ即位の項が目に留まった。
 これか、といちるは唇を舐める。

 今から三百年前。悪女と名高いネイゼルヘイシェを始め、様々な要因で疲弊したヴェルタファレンを、時の国王が西の大神アストラスに差し出した。アストラスは南のイバーマで最初に開始していた、調停者と呼ばれる神々の統制の拠点をヴェルタファレンにも置くことにし、アンバーシュを即位させた。この時、アストラスが、調停者の証として授けた装飾品一式がある。

 石や、水や、工芸の神々が作った至高の逸品。ならば、宮廷管理庁が保管する法具と同じ重さがある品だろう。これがなくなった、その原因はどう考えてもそれを自由に扱える立場のアンバーシュにしかない。
(……ヴィヴィアン)
 それは、西国の女につけられる名ではないか。
 本を閉じ、棚に元通りにする。
 さて、誰にどのように聞けば安易に情報を得られるか。
(できれば、責任のかけらも感じていないような、軽薄で、先のことも考えないでていて、他人の不幸を甘く感じるような、立場も頭も軽いのがいいが)
 予想が的を射ていれば、その女と耳飾りは、まず間違いなく、アンバーシュの弱み。あるいは逆鱗であるかもしれないと、ひっそり笑いを噛み締めた。

 アンバーシュが引き上げたであろう頃合いを見計らって自室に戻ってくると、 エルンストが待ち受けていた。さきほどの会話を聞き耳立てていたとはいちるは一切言わず、彼の持ってきた貴族対応の優先順位の名簿をざっと眺める。一度目を通したらエルンストが引き受けてすぐに処分するという。
「それで、姫にはイレスティン侯爵令嬢の招待を受けていただく存じます」
「ミザントリ・イレスティン侯爵令嬢ですね。この方はどういう立場なのですか?」
「姫がいらっしゃる前まで、お妃候補の筆頭でいらっしゃいました」
 いちるはゆったりと片眉を上げてみせた。考えも及ばなかった、とか、意外だったという顔を作る。侯爵令嬢のほかに名があるはずの、ヴィヴィアンなる女のことは露も知らない態度は完璧だった。その上で、にっこりと微笑みかける。
「そうですか。それで、向こうはわたくしに敵意を持っているのでしょうか?」
「面白くは感じていらっしゃらない、と思います。そもそも、ヴェルタファレン王家の血をかけらも持ってないアンバーシュ陛下が即位されたことによって、それまでの貴族階級はほとんど形骸化してしまいました。よって、イレスティン侯爵のご息女がそれでも陛下の妃候補になり得たのは、ひとえにその美貌や才覚や、人心掌握の術にあります。ミザントリ嬢は未婚の女性たちの筆頭ですから」
「嫌われてしまえば一網打尽にされてしまうわけですね。気に入られろとは言わないけれど嫌われるなというのが理想ですか」
 その通りです、とエルンストは頷きかけた。だが、いちるは笑って言い放った。
「わたくしは、別に気に入られたいとは思わないのだけれど?」
 一瞬、エルンストはいちるに対する返礼の笑みのままだった。だが何を言われたのか理解した表情の変化は見物だった。
「姫……! それは……あなたに侯爵令嬢に膝を折れというわけではありません! 先達に挨拶をする、ただそれだけのことで」
 いちるは椅子の肘掛けに身体を寄せた。斜めに腰掛けて、肩肘で顎を支える。
「そもそも、わたくしが招待を受けるというのが気に食わないのです。アンバーシュの妃候補は、いったい誰だというのか」
「それは、もちろん」
「わたくし。そうですね」
 輝くいちるの笑顔に反して、エルンストの視線が次第に下がっていく。
「わたくしは理解しているつもりです。アンバーシュの横暴にも、わたくしの立場の弱さにも。力ある人間に礼を尽くすという義理も分かっていますが、わたくしの微妙な心の緊張もよく分かってください、エルンスト」
「はい、それは……もう……」
「あなたに免じて、一度はミザントリ嬢の招待を受けましょう。けれどその後の交遊はわたくしが決めても構いませんね? ああ、ご心配なく。イレスティン侯爵だけに頭を垂れたと思われないよう、この名簿を見て偏りがないようにしておきます。では、お下がりなさい」
 笑顔で追い払い、お茶を片手に名簿の名前を順に頭に入れていく。
 しかし、ヴィヴィアンという名は見つけられず、日取りはあっという間に決まり、それはお茶会ではなく、散策の会ということになっていた。

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