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「読むだけだと、面白さはさっぱり伝わらない」
「物語ではありませんよ、アンバーシュ」
聞き取った事件の詳細を文書にし概要を奏上されたものを評して紙切れをもてあそび、アンバーシュは高く足を組む。クロードは彼の前に立ち、しかめ面で問いかけた。
「先日も言いましたが……いったい、どうするつもりですか? 姫も現状の不可解さに疑問を持っています。あなたが動かなければ、事態は何も変わらないんですよ」
アンバーシュは書類を置いた。水馬エリアシクルの件で、終えるべき仕事が後回しにされ、積み上がっている。有能な臣下たちに主な裁決は任せているが、それでも回しきれない仕事はアンバーシュが引き受けている。本来の国運営ならば立場は逆なのだが、アンバーシュは自分がこの国の飾りであると思っていた。彼らの国は、彼らが動かすべきだ。光が必要ならばあまねく照らしてやろう。
だから象徴に甘んじるがゆえに不動になりがちなのは自覚があった。
アンバーシュの視線を受けて、クロードの背筋がぴんと硬直する。
「あなたには言いますが――俺は、てっきり彼女が何か仕掛けてくるかなあ、と思ってたんですけどね」
クロードが眉をひそめる。
「それで、あのおかしな言動ですか?」
「気付いてました?」
「頭でも打ったのかと、ビノンクシュト様かナゼロ様にご相談しようかと思っていましたから……」
いちるは思ったより慎重だった。視界の端に入れているのだが、なるべく気付かないふりをしようとしている。喩えるなら好奇心を押し隠した猫だ。だからああいう風に煽れば何かしてくれると思ったのに。
(期待はずれだった)
それどころかこちらを放って外を楽しんでいる様子だ。ミザントリや他の娘たちから厚く御礼を申し上げてほしいと感謝の言葉が何度もあったことや、イレスティン家の使用人たちがいちるに神気を見たと興奮する者たちがいたという報告が上がっている。
不思議な気質だった。東では姿を隠し国を動かしていた妖女だったくせに、ヴェルタファレンでは何故か人助けをしている。
(そうでなくては)
忍び笑ったアンバーシュは、まだそこにいるクロードに言った。
「まだ何か言いたそうですね」
「……姫がその、お可哀想だと……思います……」
傷ついている、あれが?
内心で首を傾げる。
臆病者と、愚か者と言われようが、それが積み重ねられて己の一部になっている。隠す方が綻びるものだ。アンバーシュは、同じように考え動かないもう一人を知っている。
だからこの距離、硬直であり綱引きだ。どちらも駆け引きで動けなくなっている。どちらもこの状況に盲目的に怒ることも、恋愛に傾くこともできずにいる。
「では、あなたも俺を臆病者と呼びますか?」
「その……王城の噂は、憶測であることが多いので……」
クロードに柔らかく笑ったのは虚勢ではなく、苦笑だった。
「まあ、焦る必要はありません。そのうち好きになってもらう予定なんです。今度は計画的に恋愛をしますよ」
「アンバーシュ……あなたは」
クロードは冗談か本気か分からないという批難を顔に表した。
「イチル姫を、愛していないと?」
アンバーシュは引き続き、事件の事後処理を怠らないように命じて、とりあえず一度仮眠しに戻ることを告げた。
今日は遅くなる。いちるも早く休んでいるだろうし、どんな顔をしているのか見れないのは残念だったが、お互いにすることがあるのはいいことだ。
上着を脱いで襟を開け、寝台に潜り込んで息を吐く。目が重い、と感じたこの状態は、あまりよくない夢を見る兆候だった。
(まずいな。これは……)
背中の中心と、目の奥と、頭の後ろがぐうっと引きずられる感覚があって、意識が闇の中に落ちた。落下する恐怖感の刹那、過去を夢に見る。
花のにおい。
紅茶の葉に加えられている花の香りだ。彼女は茶が好きだった。毎日女官たちを相手にして、気取ったときにはアンバーシュは他の近しい友人を招待状で招いて茶会を催した。もう十年以上も前のことだ。
光が眩しい。彼女の顔の半分が見えない。半分は笑っているのに、見えないその部分は歪んでいるかもしれないという怯えが湧いた。
『アンバーシュ様』
声ははっきりとは覚えていないのに、その音の触れ方を思い出せる。微笑を含んだ、うかがうような柔らかい声。
『……いや……』
なのにそれはひび割れる。
『見、ない、で……』
顔が、引きつっていく。みるみる目は吊り上がり、茶器は割れ、椅子は倒れ、悲鳴がつんざいて世界が割れる。顔を覆った娘の悲痛な声が、助けんと手を伸ばすアンバーシュを否定する。
『見ないで。私を、見ないで――!』
――おい、アンバーシュ。
黒色が急に固まりになった。音になった呼び声は、低く冷たく、なのにあたたかい。夢がひどく寒かったからだろう。短く息をこぼしたアンバーシュは、刹那の夢が終わったさきに、東国の千年姫がいることに再び深く息を吐いた。
「……俺を、呼びましたか?」
答えはない。漆黒の瞳にささやかな光が真珠玉のように射している。緩く瞳を瞬かせた女は、人差し指と親指で、汗に濡れたアンバーシュの髪を分けていく。子どもの髪を撫で付けるような動きだ。
まだ部屋は暗い。窓の覆いの隙間から光はかすかにも見えない。横になってから数時間も経っていないだろう。ほんのわずかな時間に長く短い悪夢を見たのだ。
「…………ん?」
さきほどの光景が夢なら、今は現実だろう。
ならば、どうして、いちるがここにいるのか。
仰向けになったアンバーシュの横から覆いかぶさる形で、いちるは顔を覗き込んできた。
「お、……!?」
思わず叫んで抜け出した。だが巧く抜け出せず壁に背中をぶつけてしまう。毛布を蹴る形で逃げ出してしまったアンバーシュは、目の前の女が夢幻と消えないことを悟って汗を掻く思いをする。
右手で頭を抱えた。
予想外すぎた。先刻なかなか仕掛けてこないと油断していただけに。
「何を……してるんです、あなたは」
東国で妖女と呼ばれていた女は、うっそりと目を細めて笑みを刻んだ。
[お前がしたことをやり返したまでのこと]
息を詰めた。まさか、気付かれていたとは思わなかった。
寝静まった時分に誰にも知られず部屋に忍び込んでいた。当直にも続き部屋の者にも気付かれていない自信があったのは、やはりこれが後ろめたいことと分かっていたからだ。
「……俺も鈍ったかな」
[妾に幸運が味方したのであろうよ。雷霆王は、夜中に女の寝顔を見るのが趣味か]
「……あなたの顔を見たかったんです。まだ夜の顔は見せてもらっていないから」
いちるが嫌な顔をする。どうやら調子が戻りつつあるようだ。汗はもう出ていない。額に浮いた雫を払って、相手を見据える。
「それで、何をしにきたんです? 独り寝が寂しいんですか」
女の唇に浮かんだのは、挑発的な輝きだった。
いったい、何がいちるをその気にさせたのか。警戒してしかるべきだっただろうに、アンバーシュが伸べた手を女は身じろぎせず受け入れたから、ふと湧いた「触れたい」という思いが慎重を軽くした。
何故なら、それまで触れられることをいやがっていた生き物が、こうして逃げもしないことは、思いがけず嬉しかったのだ。
是と取った。手を伸ばしても女は逃げない。溶けない。消えない。手を振り払わない。泣き叫びもせず、じっとアンバーシュの目を見ている。
「……黒水晶のような目だ」
言いながら、覗き込む。白い頤が上を向き、喉元が露になる。その頬に手を滑らせ、かかっている髪に触れた。左の一房が短くなったままだ。
「髪を、切ったんでしたね。いくら人の命のためとはいえ、簡単に自分を削らないでください」
[妾は髪すら自由にならぬのか?]
身じろぎしないいちるが嘲笑する。表情が動くと、手のひらに伝わる。久しい感触だった。あたたかいが、沸き起こるのは以前とは別種のものだ。
感情は、凪いで静かだ。なのに自身の思い通りにならないところで燻るものがある。人の肌に触れた瞬間に感じたその熱は、感情の外にあるもの。本能だとか理性の箍。気付かないふりをするために、その衝動の熱に身を委ねることにした。
顔を引き寄せようと髪をかきあげ、首を捉えた、その時、アンバーシュは何もかもを忘れた。
ちりりと鳴った金の飾り。
琥珀と金剛石が、いちるの耳に揺れていた。
ど、と心臓が打った。血の気が引いた顔で女を凝視する。口の中から唐突に言葉が消えて、殴られたような衝撃があった。
[何か気に障ったかアンバーシュ]
何もかもを知っているくせにそううそぶく女がいた。なんという悪夢だろう。
それは、アンバーシュは探させなかった。思い出の品に、別れの形見に持っていったのならばそれでいいと、すべての者に忘れるよう言い渡した。それでもなお証として必要なのだと言う頑固者たちは黙殺していた。これはただの耳飾り、アストラスの魔法はかかっていない、これが妃を選ぶなどということはないと言い聞かせてきた。
暁の宮の先住ヴィヴィアン・フィッツに贈った『光輝』の名を持つ耳飾りが、この女の耳を飾っている。
いったいどこに。誰が。
そのまま硬直した両者の距離は、それ以上縮まらなかった。いちるは艶やかな空気を、眉間と鼻の頭の皺と吊り上がった目で一掃すると、涼やかな衣擦れの音を立てて身を引き、アンバーシュを睥睨して一言。
「この、痴れ者が」
堂々と出て行く。外で泡を食う衛兵のうめき声は、あまりにも表情が恐ろしかったせいか。
残されたアンバーシュは呆然といちるが消えた扉を見つめ、しばらくしてから頭を抱えて完全に敗北を喫したことを悟った。
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