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「ひっ! 姫様!」
 呼びかけは悲鳴だった。ジュゼットが引きつった顔を向けてくる。どこへ行ったのかはネイサから聞いているはずだ。何かを中央に取り囲んでいた二人は戦々恐々といちるを伺う。いちるの入室時に背を向けていたレイチェルはしかし二人とは打って変わって冷静に「おかえりなさいませ」と頭を下げた。ネイサとジュゼットもあわてて習う。
「おやすみになる前に確認させていただきたいことがあります。御髪を失礼します」
 鷹揚に頷いてレイチェルの手を受け入れる。彼女の手は丁寧にいちるの左の髪を耳の後ろにやった。アンバーシュの部屋から出るときに耳飾りは外している。そこにあるのは穴だけだ。数十分前に空けたばかり真新しい穴だった。
 まじまじと見るまでもなく、レイチェルは眉をひそめた。
「飾りのための穴を空けるのなら、私どもにお申し付けください。こんな、消毒もしていない留め具の針で無理に空けると、穴が歪んだり膿んでしまったりするのですから」
 彼女たちが囲んでいたのは、いちるが放り出していった針仕事用の留め具針だった。普通の針では小さすぎると、裁縫箱から適当に選び、いちるが自分で穴をあけた。若干血の付いた針をそのまま放り出してきたのはまずかったか、と己の不始末を顧みる。
「いちおう、火で炙って消毒は済んでいます」
「『いちおう』」
 いちるの子どもっぽい発音で同じ言葉が繰り返された。
「…………」
「…………」
 レイチェルの微笑に底知れぬ威圧を感じる。
「『いちおう』、空けた穴は消毒させていただきます。その穴はどうされますか? もし空けたままにされるのなら、邪魔にならない物をご用意します」
 無言のままでいるいちるに、レイチェルはジュゼットに言って、飾りも何もない、釘のような耳飾りを持ってこさせた。その間に酒気がにおう液体で耳を拭かれる。消毒を終えた耳穴に飾りをはめると、本当に釘を打ったように見えるが、はまっている石は細かく多面に研磨された水晶だ。
「耳がずきずき痛むとか、気になるところはありませんか?」
「……ありません」
「もし痛むようなことがあったら早めに私どもをお呼びください。それでは、お休みなさいませ」
 問答無用で寝室に追いやられた。蝋燭まで消されて、休むつもりもないとは到底言えない。それ以外のことも一言も言えなかったが、何も言わない方が正しかったかもしれなかった。
(だが、何故あんな風に怒ったのか……)
 いちるが黙って耳穴を空けたことが理由なのは分かるが、そのことによってレイチェルはどんな被害を被るというのか。いちるの管理が必要だから勝手をされたくなかったというのが妥当そうだった。アンバーシュの言葉と同じだ。身を削るなら断れ、という。
(アンバーシュとレイチェルは密約を交わしているのか。主従の関係なら仕方のない。彼女も苦労する……)
 毛布にくるまって目を閉じる。耳が何かに触れている違和感はあるが、痛みはない。
 女の手が触れるのと男の手が触れるのは違うものだな、と今日の出来事を思い返した。
 顔が歪んだ。
(あの、臆病者)
 一度その気になったくせに至宝の耳飾りを見た途端怖じ気づいた。愕然の打撃がアンバーシュに叩き込まれる瞬間を見て、いちるは失望したのだ。

 何が、お前を守る、だ。千年かけて口説く、だ。

 妻として貰い受けると言ってこの国へさらうように連れてきたくせに、覚悟も何もあったものではないではないか。
 腹立ちのあまり枕を殴りつけた。音が吸収され、外から人がやってくる気配がないのをいいことに、何度も殴った。
(分かっていたではないか、こうなることは!)
 フロゥディジェンマに、ほらごらんあれが意志のない男だと指して笑ってやろう、そう思って寝所に忍び込んだ。誘ってもやった。妖女、魔女と呼ばれるにふさわしい仮面を被って、しなを作った。なのに耳飾りひとつで甘い囁きを飲み込んでしまう、そんな弱い男に興味はない。
 アンバーシュが愕然として引いた後、「それ見たことか」と笑ってやるつもりだった。なのに、いちるが浮かべたのは嘲笑ではなく、蔑みと失望と怒りだった。それが、自身のことなのに不可解で、いっそう腹立たしいのだった。
(面白くなかった)
 殴りつけるのに飽き足らず、背後の壁にぶつけた。
 寝台に座り込んでぼとりと落ちる固まりを見つめて、ぎりりと歯を噛んだ。
(ちっとも、面白くはなかったわ!)


       *


 木立が並ぶロッテンヒルは、北西へ伸びるほど森が深くなり、神の住まう山を離れて海に近付く。土地が拓かれず街や村もなく、原始のまま取り残されたその土地は、静寂を好む人間はもちろん、神や獣の静養地になっている。人の腕が回らぬほどの杉の大木や、自由に伸び育つ松や巨岩を掻き抱く楢の木。染みだした水が小さなせせらぎを作って、虫や小さな動物の喉を潤している。
 ロッテンヒルに最も深く闇が溜まるのは、その森閑としたところから更に北上した岩崖地域だった。この辺りは海風と山風によって谷になっており、緑はあまり育たず、岩と石と冷たい土でできている。安らぎよりも厳しさが固まった景色は、果てと呼ぶにふさわしい。その闇に息をひそめた魔眸は、地脈に繋ぎ、覗き見た光景に、くつりと喉を鳴らした。
 湖の底にねぐらを持つ水の馬が暴れ、鎮められた。かの神獣が対価に受け取ったのは、長く細い黒髪の一束。
 髪の持ち主の名声は高まっていくだろう。その女は、確かにそれに見合う力を持っている。
 口の端に笑みを刻んだ影は、そうして再び闇の世界へと戻っていく。かすかな囁きは、いちる、と、東から来た女の名を形作った。

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