第四章
 況や愛とは いわんやあいとは
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 ミザントリ・イレスティンの来訪は、暁の宮の住人の見舞いを口実にしていた。いちるが事前に許可を出していたため、他の貴族や官僚を押しのけ、特別に部屋に案内されることになっていた。
 好奇と嫉妬の目に慣れている侯爵令嬢は微笑とともに挨拶を述べて部屋に至り、いちるを見て目をぱちくりとさせた。
「どうなさったんです。その格好に、その荷物!」
 今日のいちるは、濃紺の地に生成りの編み飾り、首元で蝶々に結んだ飾り紐という出で立ちだ。髪は不揃いが目立たないように三つ編みにして頭の左右で巻き付け、輪にして残りは垂らしている。東国でも西側の貴人がする髪型に少し近い。
「姫様。セイラ・バークハード騎士団長がおいでになりました」
 ネイサが知らせる。入室したセイラはミザントリにわずかに目礼した後、踵を鳴らし、本心は異なるだろうがいちるに対して礼儀正しく膝を折る。
「セイラ・バークハード、お呼びに授かりまして参上いたしましてございます。何の御用でしょう」
 艶とした声が低さを帯びると何とも言えない凛々しさがあった。普段はこうした態度を取るらしい。さてその顔がどのように崩れるか。いちるは右手を差し出し、彼女の目の前で開いて見せた。
 耳飾りが光を弾く。
 セイラは息を呑み込み、耳飾りに魅入った。
「あなたが探していたものは、これですか?」
 わずかでも身を乗り出した一瞬にいちるは手を引き、目を見つめて笑う。
「……どこでそれを……いいえ、そのことはどうでもいいですわ。お礼を申し上げます。見つけてくださってありがとうございました。それをお返しになってくださいます?」
「セイラ・バークハード。あなたは仕事の最中は髪を結い上げるのですね」
 セイラは警戒心を露に、わずかに顎を引く。
「……ええ、それが?」
「装飾品の類いもしないようですね。普段はつけるのでしょう? あなたはきっと洒落者でしょうから、色々な種類の、色々な形の物を持っている」
 何が、と言いかけたセイラの表情が、凍り付いた。
 いちるは、慈愛に満ちた笑みを向けた。
「あなたの耳に、この飾りのような穴は空いていない。だからこれは、あなたの物ではない」
 忌々しい顔をセイラは隠さなかった。それでも負け惜しみのように反論を絞り出す。
「……わたくしの家族の形見かもしれませんわよ?」
「わたくしはもうこれが『何』かを知っています。あなたに反論の余地はありません」
 耳飾りを両の耳にかけると、レイチェルとジュゼットを呼ぶ。現れた二人は、従者を伴って、部屋の中に置いてあった大小の鞄を持ち運び始めた。
「思ったより時間がかかりました。早く行きましょう。セイラ、あなたも供をしなさい」
「はあ? 何を言っていらっしゃいますの?」
「外出するには供が必要だと言われたので、あなたならば適任です。供をなさい」
「ま、お待ちくださいませ! どこに行くんです?」
 静止の声を上げたミザントリの視線は、答えを得られそうな女官三人に向けられる。ネイサはいつも通りの制服だが、レイチェルとジュゼットは外出着に着替え、帽子を被った格好で、いちるの言葉に従った。ゆえに、一言も言わず、申し訳なさそうに目を伏せている。
 いちるは言った。
「ミザントリ、あなたの家に。――今からわたくし、家出します」





 雲が透けて空は明るかったが、金色に曇っていた。水の匂いがする大気が、豊潤に穏やかに流れている。アンバーシュの傍らのロレリアは、ともすれば暑く感じられる、宮廷管理官の詰め襟の制服姿で、汗ひとつかかず、緊迫した面持ちで扉が開くのを待っていた。この時ばかりは扉を守るのは普通の衛兵ではない。衛兵であり神官でもある神官兵がその大部屋の扉を押し開く。
 辞儀をした神官兵の前を通り過ぎ、椅子が二脚置かれた室内に足を踏み入れ、ロレリアは二人を案内した。
 室内には人影が二つ。青年たちだった。
[遠路はるばるようこそ。お久しぶりです、スズル]
[そちらも壮健で何より]
 静かに応えたのは、深い青髪の美麗な青年神。東神アマノミヤの息子、水を司る珠洲流だった。傍らに控えている下げ髪の涼やかな人物は、珠洲流が常に連れている彼の眷属、恵舟(えしゅう)である。
[急な訪問で驚きました。今日はどうしたんです?]
[東の娘の様子を気にするのは別段不可思議ではなかろう]
 珠洲流の応答は素っ気ない。切れ長の目で淡々と話されると気持ちがくじけてきそうだと、楽しくアンバーシュは思う。
 水が揺れるように目を細め、珠洲流は言う。
[東の娘はどうしている?]
[元気ですよ]
 いささかはっきりしすぎた返事になった。珠洲流が疑わしい目を向ける。
[うん、元気です。元気すぎてちょっと困ってます]
 珠洲流の目が、アンバーシュの後ろに控えるクロードに向けられる。その目はやがてロレリアに移る。会話は特殊な力で行われているものの周知できるように響かせているので、内容を聞いているはずの彼女だったが、目を伏せたまま身じろぎもしない。再び視線はクロードに戻るが、クロードは苦笑とも微笑ともつかない顔をしている。
[どういう意味か]
[色々あったんです。別に悪い意味じゃないですよ]
[何があったと聞いているのだが]
 怒っているわけではない口調で問いが重ねられる。
[そうですねえ、目立った出来事としては、魔眸を退ける手伝いをしてもらいました。それから、湧水の神馬エリアシクルと知り合ったらしくて、しかも気に入られたみたいです]
 珠洲流が瞬きして驚きを表す。
[エリアシクル。西の神馬の長にか]
[そう、あの偏屈に。まだ半年も経っていないのに、思いがけない資質があってこちらとしては面白……いやいや、助かっています。どうしました、別に皮肉を言ったつもりはないんですが]
 優美な眉がわずかに潜められたのを見て取って、尋ねた。
 長らくの敵であった知己は、表情の変化が小さすぎて何を考えているか分からないときがある。それは、彼が敵陣営の者に対する感情の抑制だった。アンバーシュは、もっと表情豊かに自身と同じ血を分けた神々と話している珠洲流を見たことがある。
 不機嫌か、何か考え込んでいるか、変化を見せた珠洲流は、静かに頭を振って再び問うた。
[では、その娘は今どこに? 私の目的は、あの娘がどうしているのか確かめることだ]
 視界の端で、クロードが祈るように視線を斜め上にやっていた。今朝方の騒ぎは、すでに主立った者には周知されている。しかし昨夜のことはまだ誰にも知られていないらしく、あのときの一悶着は本人たちの胸の中にだけある。アンバーシュは、今朝の騒ぎはそれが原因だと分かっており、引きつりそうな顔を精一杯笑顔にした。
[今は外出しています。友人ができたようで、彼女たちと]
 友人という言葉の響きに、珠洲流も恵舟も驚いたようだ。いちるが見たら静かに怒っていただろう。
 アンバーシュはにっこり笑顔を浮かべた。嘘は、言っていない。

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