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「家出と言いながら、たかだかロッテンヒルだなんて。ほんっと馬鹿馬鹿しい! ああ、ミザントリ様のことではありませんのよ。心当たりのある方を傷つけるための言葉ですから!」
忌々しそうに言ったセイラにミザントリは苦笑している。落ちてくる木漏れ日を可憐な帽子で拾い、彼女はいちるには控えめな微笑で示してみせた。
「父が用意してくれた、わたくしだけの別邸なんです。邸というほどの広さもありませんけれど、どうぞ」
首都の西、ロッテンヒル、そこから北にある岩崖のシュミスタン地域とのほぼ境界に近いところに、ミザントリの別邸がある。
小さな二階建ての家だった。ロッテンヒルの深い森の中、小人の家のような佇まいで、見ている分にはいいが貴族の娘がひとりで住むには小さく不便そうだ。
べええ、と鳴き声がする。奥の小屋の影から、こちらに向かって、山羊が鳴いていた。
「ただいま、ノリア。今日はご機嫌ね」
言って、ミザントリは山羊の顔を撫で回した。鳴き声と首についた鈴が、騒がしい音を響かせた。続けて、こけーっ、と後ろで鶏が鳴く。
いちるは眉をひそめた。
(……これは、なかなか……)
「当てが外れて残念でしたわね」とセイラが声を潜めて笑った。日々の喧騒から遠ざかるつもりだったのが、思いがけず田舎の騒がしさに遭遇したようだった。
訪れたいちるたちを迎え入れたのは、前掛けをした四十くらいのふくよかな女だ。林檎のような真っ赤な頬は、麺麭のように丸い。
「いらっしゃいまし、姫様方! おかえりなさい、お嬢様。お友達が来られるならアンザにおっしゃってくださらないと、お部屋のご用意もできませんし、お食事も腕を振るうことができないじゃあありませんか。でもご安心くださいな。ちょうどパイ生地を作っていたところですから、極上の桃のパイを召し上がっていただけますよ! 姫様方は甘い物はお好きですか? だったら他に焼き菓子をお持ちしましょうね。甘い物だけだと飽きちゃいますから、何か他に摘めるものも。さあさあ、そんなところで立っていないで、お部屋へどうぞ! すぐにお茶をお持ちしますからね」
扉を吹き飛ばす勢いでのしのしと歩いていく。
少しの間途方に暮れた。好きに喋って勝手に去っていったアンザは田舎のおかみそのもので、めずらしく善良な人物に会った気がする。
レイチェルとジュゼットはいちるの荷物を手に裏口へ回る。滞在の準備は彼女らに任せて、いちるは、ミザントリに続いて別邸に足を踏み入れた。
入ってすぐに二階へ続く階段があり、狭い廊下の右手に部屋がひとつ。ここを通り過ぎて、突き当たりの部屋に入る。この一間がかなり広く、開け放った扉から別の小部屋が覗ける。その向こうの廊下から、アンザが茶を持ってやってきた。
「女性ばかりでいらっしゃったのに、何事もなくてよろしゅうございました。最近、近くの村の女子供が行方不明になるということがありましてね。無事に帰ってきた者もいれば、帰ってこない者もいて、そりゃもう恐ろしいって噂で」
「大丈夫よ。バークハード騎士団長様もいらっしゃるから。お茶をありがとう、アンザ。後はわたくしがやるから」
「はいはい、口うるさいアンザは台所に戻ります。何かあったらすぐお呼びくださいな。姫様方、どうぞごゆっくり」
「レイチェル、ジュゼット、あなたたちも下がっていなさい」
世話をすべく現れた女官たちは一礼して出て行く。
勧められたぱんぱんに綿を詰めた椅子に腰を下ろす。長椅子の肘掛けにもたれかかって斜めになると「くつろぎすぎですわ」とセイラが小言を言った。
「仕方がありません。馬車が窮屈でしたから」
陸路を行く車はひっきりなしに軽く宙に浮き、骨や関節が固い椅子に当たり、身体を自由に伸ばすこともできない。アンバーシュの馬車は空を飛び、屋根もないのにほとんど揺れないのだが、あれはいったいどういう理屈で動いているのだろう。
「まったく……。ミザントリ様、お茶はわたくしがお淹れしますわ」
「いいえ、お客様にそんなことさせられません。どうぞゆっくりなさってください」
部屋をぐるりと見る。いちるが腰掛けている椅子は、城で見たようなものとは違い、植物ではなく動物模様の布が張られている。四角を組んで表しているのは、鹿だろうか。床に敷き詰められた絨毯は、短い毛の物と、鳥と翼の模様の物の二種類。壁は生成り色で、動物と戯れる乙女の絵がかけられている。
「お珍しいですか?」
いちるは頷いた。
「この部屋は動物の意匠が使われているのですね。わたくしの部屋は、植物模様だった。先住の趣味でしょうね」
いちるの視線をセイラは無視した。
「ミザントリ様がこんなところにお屋敷を持っているとは知りませんでしたわ。一の郭に侯爵邸がありますのに」
「わざわざ、とお思いになるでしょう? 確かに不便ですけど、一人になりたい時はここを使うんです」
セイラの目が意地悪く光る。
「二人、ではございませんの?」
「父の目をごまかすのは難しいって、ご存知のくせに」
茶碗が置かれた。白磁に金の縁の器だった。礼を言って口をつけると、いつもより濃く少し渋みのある、辛みのある甘い香りがする。
大きく開いた窓の外は、広い露台になっていた。ロッテンヒルの緑の影で涼を取ることができるだろう。
「騎士団長様も、どうぞ」
セイラはちらりといちるを見た。いちるは鷹揚に頷いた。そこでようやく、セイラはゆっくりと腰を下ろしたが、眉間の皺は消えないままだ。
「本当に……どうしてこうなったのかしら?」
「誰も彼も、過去を秘密にするからでしょう」
窓からの風に、茶碗から上る湯気が揺れて香りが散った。ミザントリが両手の甲に手を置いて、悪戯な笑みで楽しそうにしている。
「そういう話をするのにこの家はうってつけでしょう?」
それぞれに息をつく間があった。心地いい家だ。明るく、風が通り、調度も美しく品がいい。人の出す音が聞こえぬ代わりに生き物の声が聞こえ、緩やかな緑と空気のそよぎに身を委ねることができる。鋭敏になった異能の力が、うるさいものを拾うこともない。もし何もかもから解き放たれることがあるならば、こんな風に穏やかでいられるのかもしれない。
「……ちょっと。ちょっと、何か仰ってくださいな。あなたのためにここまで来たんですのよ!」
「忙しないですね。お茶を楽しむ余裕もないなんて、可哀想」
右頬を引きつけらせたセイラをミザントリがまあまあとなだめる。
いちるは紅茶を飲んで口を湿らせると、二人の顔を順に見て口を開いた。
「十年前、何があったのですか?」
セイラとミザントリは通じ合うように目を見交わした。発言を譲られたミザントリが、居住まいを正し、いちるに向き直る。
「――十年前。それまで、暁の宮にお住まいだった一人の女性が城を去りました。その方の名を、ヴィヴィアン・フィッツ。アンバーシュ陛下の婚約者とされていた方です」
あちこちで囁かれていた名前が、ようやくはっきりといちるの前に示された。
「その素性は?」
「市井の方だったそうです。陛下が見初められて、暁の離宮に。十年ほど滞在されて、けれど何か事件が起こって、城を出て行かれました」
「事件などではありませんわ」
低い否定だった。静かだというのに顔を見れば、怒りを表す猫科の獣の目をしているセイラがいる。ミザントリがはっと目を見開いた。
いちるは眉をひそめる。
(知人だったのか)
「何もかも、全部、アンバーシュが悪いのですわ!」
荒々しく鈴を振り回すような声で、きんきんと叫ぶセイラは、握りしめた拳が振り下ろせるなら、きっと机を叩き付けていただろう。そこにはあの裸でしなを作った女はおらず、怒りに身を震わせ己のふがいなさにほぞを噛む人間しかいない。
「十年も城に住まわせておいて、妃の身分を与えず、ヴィヴィアン様の優しさにつけこんで立場を宙ぶらりんのままにして。あの方は結局は心ないあんぽんたんどもにめちゃくちゃに傷つけられて、なのにアンバーシュは何もせずに放逐し、二度と会わないとまで言う始末」
聞いているミザントリの方が目を伏せる。
「至宝の耳飾りの行方が知れなくなって、探さないということで優しさを示したつもりかもしれませんけれども、そんなの、少しも優しさではなくってよ!」
「騎士団長様、姫の前です」
慎ましくミザントリが制するのは、国王を詰る女がかつて彼の愛人だったということを知っているからだろう。
「『そうして何もできなかった自分が、何よりも憎らしい』……」
いちるは呟いた。
「……!」
セイラが剣幕を引いた。いちるは口の端に笑みを刻み、鼻で笑う。
「ミザントリ、わたくしに気兼ねする必要はありません。アンバーシュに腹を据えかねているのはわたくしも同じこと。ゆえにここにいるのだから」
おおよその事情はこうだろう。
十年前のアンバーシュの恋人であった女が城を去った。
原因は、アンバーシュの煮え切れぬ態度と周囲からの圧力。
二人は何らかの仲違いの末に別れ、贈られた至宝の耳飾りの行方が知れなくなったが、アンバーシュが探させなかった。
そうして、昨夜の失笑するほどの狼狽から導き出される結論。
(あの男は、未だに昔の女(ヴィヴィアン・フィッツ)の傷を抱えている)
剛胆で、何者にも動じなく見える。泰然とした立ち居振る舞いをし、気まぐれで、いちるを手慰みにしようとしたアンバーシュ。
それは繊細な己を隠す仮面だというのか。
まだ、何を、隠しているのか。
ミザントリがいちるを見てわずかに身を引いた。
「よほど……お怒りなんですね……その顔は……」
「ふん。せいぜい、攻防なさることですわね。アンバーシュは、どうせあなたまでをも宙ぶらりんにするに違いないですわ」
ぎりぎりとした声で言って茶を飲み、深々とため息をつく。そうして目を上げ、顔を向けたセイラは、うってかわって穏やかできらびやかな微笑みで「失礼しました」とミザントリに謝罪する。
「つい取り乱してしまいました。お見苦しいところをお見せして申し訳ありません。わたくしは少し出ておりますから、お二方はごゆっくりどうぞ。ミザントリ様、ごちそうさまでした」
声を一音高くして明るく肩を竦めるという変わりように、いちるは白い目を向けたが、ミザントリは慣れたように「いいえ、こちらこそ」と返していた。
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