<< ―
■ ―
>>
冷えた身体がわずかに温もりを取り戻した感覚があったが、目を開くことは叶わなかった。もう一つの目で見た景色は、しかし薄暗がりとなって閉ざされている。何かが手に触れているのでそちらを見ると、見事な濃紺の髪をした美しい男がいちるに微笑みかけているのだった。
[あなたは]
[えらい騒ぎになったのう、千年姫]
声に聞き覚えがあった。その髪の色、瞳に覚えがある。思慮と沈黙を尊ぶ、知性ある古神。
[エリアシクル]
[呪いが芽吹いたな。結局は発動したか。吹き出す気配がなかったので見逃したのだが]
項垂れる。
[お気付きでしたか。……お恥ずかしい]
[術師は相当に執念深かったようじゃな。条件は、『所有』によるものか]
いちるは首を振った。
分からぬのだ。あの頃のいちるに異能に関する知識はなく、それどころか国を動かしている術師や力ある者たちについて何も知らなかった。自身に備わっている能力が、遠見あるいは遠目と呼ばれるものであることや、読心、その範囲の及ぶところも知らずにいた。
撫瑚を繁栄されるために連れてこられ、異能の使い方を様々な方法で教えられた。痛みによって引き出したり、飢餓や狂気に落とし込まれることもあった。そうして花開いた力を永遠に留め置くために、卜師は呪いを施したが、その卜師は数年の後に死に、どのような呪いを用いたのか知ることはできなかった。
身体の、魂の奥深くに植えられたそれは、いちるが撫瑚にいる限り、決して表に現れるはずのなかったものゆえに、潰えたものとばかり思っていた。
[あれは……卜師は、今思えばさほど強い力の持ち主ではありませんでした。呪いといっても、所詮人のものだと考え……わたくしの力が表面化した後に完全に抑え込めたものとばかり思っていたのですが、己の過信と未熟を情けなく思います]
[そなたと呪詛の相性が良すぎたのであろう。性質を理解して呪詛を紡いだ術師は、力は足りぬようだが頭の方は優秀だったようじゃ]
憐憫の目をして語る男神は、手を伸ばしていちるの髪を撫でた。長さの異なる髪を優しく撫で付けられ、思わず肩が縮こまる。初よのう、とエリアシクルは大らかに笑った。
[呪われてしかるべきだと思うたか]
誰が、誰を、ということを、エリアシクルは正確に見抜いたようだった。
西島に来るにあたって、明かすべきだったのだろう。この身体には呪詛が巣食っている。西の神々の力で解呪は可能か。そうすることが、公正な振る舞いだったと理解している。だが、いちるがそれをしなかったのは。
[――そなたが思うほど、そなたは何の責任も重みも背負っていないのだよ。イチル。あらゆるものに優しく美しい部分だけを見出して生きていくことはできる。その方が世界はずっと優しい]
[汚れと澱みがあってこそ、この世。在るものから目を背けたくはありません]
髪から流れた手はいちるの頬に添えられた。
[そなたのそういうところが、可愛くて哀れじゃ]
エリアシクルが離れる。手の中に青い水がたっぷりと注がれた。水だというのに形を保つそれは、彼の住まう湖を作るものだろう。
[それを飲むといい。声が出せる程度には回復するじゃろう。一時しのぎだがな。わしが力を貸してやれるとしたらそのくらいじゃ。後はひよっこアンバーシュに任せよう。ただ、一つだけ言っておくならば、イチル、そなた自身の思い込みを解消せよということか]
思い込みとは、と尋ねようとして、あっという間に彼が遠ざかっていく。声も目も利かなくなり、足が下へ絡めとられるのに息を詰める。その場所こそがいちるが今いる、留め様のない呪いの泥の中だ。冷たい。なんて暗く。重い。
いちるは息を吸い込み、その中へ意を決して潜った。じわりと身体の中に溶け込んだ種子がみるみる根と枝葉を伸ばしていく。いちるの力を養分として吸い上げ、黒い花々を咲かせ、散らし、種を落としてはまた芽吹く。永遠に続く運動だ。
(こんなもの、平気だったはずなのに……)
ああ、けれどなんと凍える痛みか。
光が、ちらつく。雲間を裂くように、汚泥を貫かぬだろうかと考えている。
エリアシクルから授けられた水溶を握りしめていたのを思い出し、それをそっと見つめた。青く深く輝くそれは、ビナーの女神の城や死んでしまった女神を思い出させる。空よりも濃く、石よりも透き通って輝くこれは、水を司る者たちの持ちうる色なのだ。
その水から呼びかける声がする。
胸の痛みを飲み込み、いちるはエリアシクルの水を口に含んだ。
ぷかり、と息を吐く。肺と胃から吐いた息が膜を生み出していちるを包んだ。柔い壁に泥がゆれて流れ、いちるをどこかに運んでいく。心地よく温かなものに包まれて目を閉じたいちるは、次の瞬間、現世のどこかにいた。
槍の先端と、百合の意匠の天井。目を開けるが、瞼が重すぎてすぐに閉じてしまう。その動きだけで疲労がのしかかった。
(身体が重い……)
「……目が覚めたんですね」
顔をわずかに動かすのだけでも一苦労だ。広大すぎる寝台の上、いちるの隣にアンバーシュが座っている。目を逸らしたいが体力がなく、そのまま目を閉じるだけにした。
「エリアシクルが来て、帰っていきましたよ」
[知っている。少し話をした。よく御礼を申し上げておいてくれ]
息をついてから、ここは、と尋ねると、戦女神カレンミーアの城だと言われた。どのような女神かも覚えがないし、知るための力をうまく働かないために、それ以上知ることは避けた。
「俺に言うのはそれだけですか」
返事に瞬間、悩む。
[……それ以外に何を言えと? すまなかったと謝られたいか。憐れみをかけるなと突っぱねられたいか。そのどれもが容易じゃ]
結局は口にした後、眠っているように吐息するいちるは、アンバーシュがどのような顔をしているのか分からない。ただ、布がこすれる音。寝台の骨組みが軋む音がして目を開けると、敷布の上に手のひらを押し付けた男の手と腕が見えた。
覆いかぶさるようになったアンバーシュが、髪を零しながらいちるを見ていた。色素の薄い瞳は、白で塗りつぶしたように恐ろしげに光っている。影になっているためになおさら輝きは強く、竦む思いがした。いつか、さほど遠くはない以前に見たことがある目。
征服者の。
[アンバーシュ]
額に降り頬に降り、唇に近付いたそれにいちるは抗う力を持たなかった。声すらうまく届かぬというのに何ができようか。喘いで身をよじらせ、逃げようとするが力が入らぬ。
「いやだ」
なんとか絞り出した声に男が動きを止める。
「やめて」
己の望みに忠実に動こうとした男は、そうしてすうっと息を吸い、目を細めた。
「この期に及んで、そんなに傷つきたいんですか?」
吐き捨てた言葉はいちるの頬を張るようだった。
「そんなに傷つけられたいんですか? それとも俺を傷つけたい? 辱め辱められたという傷をそれぞれにつけたまま生きていきたいというのなら、俺はそれでも構わないけれど」
「アン、バーシュ……!」
「何故あなたを助けたと?」
滑った手が頬と首を撫で上げる。まだ揃えることのできていない髪を辿ると、短いものは彼の手を逃れ、長いものは絡めとられた。
「魔眸に囚われたあなたはきっと手段を選ばずに戻ってくるでしょう。己の身を削っても。けれど、やつらの自由にされるくらいなら――俺が奪います」
「俺は怒っているんですよ」笑った顔で言う。
「あなたが損なわれるのは我慢がならない」
そうしてお前が壊すのか。
楔を打ち、鎖でつなぎ、引き合おうと。アンバーシュの言う傷で、お互いに一生消えることのない傷で繋ぎ止め合う。この男が望んだ永遠に添う形は、縛めの音がつきまとい、膿んだ傷に顔を歪ませる形で実現する。
[そんな形にしてまで、なにゆえ妾を繋ぎ止めようとするのだ]
痛みを与えられることには慣れている。だが好んでいるわけではない。傷つけられるのは嫌だ。痛いのも嫌いだ。しかし言葉の杭で穿たれたいちるは、弱体化しているがためにか弱く歪んだ顔で問いかけていた。
<< ―
■ ―
>>
―
INDEX ―