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 エリアシクルに与えられた力が、次第に底をつこうとしている。病人のか細い息をしたいちるは、目を閉じた拍子にアンバーシュの口づけを受けていた。力が流し込まれ、欲しいと思わなかったのに、飢えを覚えてその力を飲み干していた。
 喉がしなり、動く。
 助けるというのは、このような行いをするということ。
 こうした関係を続くことを望むというのなら、二度と目覚めぬ方がましなのではないか。
 手のひらをとられ、指が絡められる。強く握りしめられた手から、風が生まれる。
 風に吹かれた。視界に映るあまりにも広い、その場所。
 いちるは目を見張った。
 柔らかな緑の葉が広がる大地。澄んだ水の気配。根元に泉を讃えた勇壮な大樹が遠くに見える。遮るものは何もない。風も光も自由に踊る。どこを見ても空は、目が眩むほどの青さ。
 ここは、遠き日に追われた娘が唱えた楽土ではないか。
 目を奪われていたのから我に返り、これは何だと問おうとした、その時。
「っ!」
 ぽん、と小気味いい音がした。頭に違和感があり、手を持っていくと濡れたような何かに触れる。むしり取ってみて、困惑した。
(花?)
 なにゆえ、花。
 認識した途端、太鼓を叩くようにいちるの周囲に開いた花が舞い飛ぶ。視界を埋め尽くすそれに驚いて目を閉じ首を竦める。ぼす、と音がして頭に花輪が乗った。いちるが名も知らない、幾重にも花弁を重ねた花がそこかしこで開く。
 広げた手に音を立てて開くそれをつくづくと眺めていると、意識が声となって流れ込んできた。
「ああ、やっと、分かった……」
 思わず取り落とす。落ちた花々は次々に開いて同じ言葉を呟いた。囁きは、ひとつの歌のように大きくなっていく。
 いちるはアンバーシュの感情に潜り込んでいる。彼に無理矢理流し込まれ見せられているここは、あの男の心象風景のはず。
 目を開けると風が吹き、落ちた花々は一掃されて、今度は種の芽吹きから始まった。大地に芽吹いた目がみるみる茎を伸ばし、葉を広げ、蔓を伸ばし、幹になっていく。あちこちで植物の成長が達成され、香しい花が咲き乱れた。そこでもかれらは歌う。
「俺は、あなたを、愛しているんだ」
 これが愛。
 これが、恋。
 耳を押さえた。うるさい。心臓に忍び込むな。感覚を接続しているだけに、たった一音にも関わらず心臓に多大な影響を与えてくる。耳元で囁きかけられている悪寒のようなもの、包まれている感覚が、じかに触れるよりもずっと鋭敏にいちるをなぶる。
「う……」
 心臓が鳴る。血が上る。苦しい。居心地が悪くて落ち着かない。身体の隅々まで撫でられている気がする。このままでは、このままでは――。
 絶叫する寸前に接続が断たれる。
 さする手の動きは優しい。しかし、動けないいちるを嬲るように卑しく、人形を扱うように大切に、いちるの肌に熱と感覚を残していく。頬にかかった髪を分け、噛み締めた唇をほどかせ、瞳から溢れる涙を受け止める。
 身を委ねることができればどれほど楽だろう。そう考え始めた自分がいる。動きづらい身体を床に這わせて逃げようとするが、逃げられるはずがない。

[やめろ]

 みっともなく泣き顔で訴えた。
[アンバーシュ、やめろ! 妾はお前の望みを叶えることはできぬ。以前と同じように放逐しろ、妾ではなかったのだアンバーシュ。お前に添う運命を持つのは……!]
 アンバーシュは頬に手を落とす。

「でも俺は、あなたがいい」

 そう、告げられる。
 天の、星の近いところで光る空の青がいちるの世界を埋めていく。触れられたところから再びあの風景が広がる。花が降り、風が吹き、その色彩に埋もれていく。
 息ができない。口づけられたせいではなく、感情が吹きこぼれて受け止めきれないから。

 ――最後の楔の音がする。

 鎖が連なり、お互いの首にかけられる。もう逃れようがない。いちるは死にたくはなく、アンバーシュは花嫁を求めていた。例えどれもこれもが掛け違い、間違っていても、いちるの元に来れるは西の雷霆王。
「俺の花嫁」
 この上なく満ちた声が降れる。
 あたかも舞い降りた神のように。
 愛していると声が響く。



「俺のものになってくれますか?」



     ・
     ・
     ・
     ・
     *



 この元に降りられたのはあなただけ。わたしのために力を振るうのはあなた。
 絶大な力を、傲慢な怒りを、無法な感情に付き従って、彼はいちるのために神の力を使う。そのどれもが過ちで、優しい甘美をいちるに与える。望むものは何もないが、その絶対さだけがいちるのすべてを肯定する。
 ――拒絶という虚勢を越えて、この手を取る。
 横たわる荒れ地に雨が降る。
 雨が振り、大水を呼び、すべてを押し流す。
 絶叫のような雷が閃く。
 水が消えると太陽が現れる。大地に緑が芽吹く。草の芽が頬をくすぐる。

「あなたがこの腕の中にいるとき」

 彼の声が聞こえる。
 響き合う音叉のように、胸の奥が鼓動する。

「俺はあなただけのものになる」
(わたしの)

 手を伸ばせば触れるところにある。



 わたしの、神様。





     *





 自室に向かうべく扉を開けたカレンミーアがそこに踞る影を見出したとき、無意識に剣に手をかけたが、それが少女であることに気付いて手をおろした。いつの間に入り込んだのか考えるも、この娘の性質ならばカレンミーアの結界など破ろうと思えば空気のようなものに容易い。
「そんな薄着じゃ、この山では体調を崩すぞ。フロゥディジェンマ」
 吹雪のせいで暗い廊下に、凍えることのない彼女の身体はうすぼんやり光る。
「一体いつ来たんだ。人の家に入る時には挨拶をしろとは言われないのか?」
 呼びかけには答えない。じっと耳を澄ませている。
 何を聞こうとしているのかは明白だった。出しゃばりだと思ったが結界を準備してやったのだから、アンバーシュには後から礼を言ってもらわねばなるまい。
「千年姫なら大丈夫だ。快癒には至らなくとも、数ヶ月は動ける」
 だが「根本的解決にはならんよ」とメンディークは言っていた。繰り返すうちに毒が溜まり、彼女は目覚めなくなると。そうなれば、永遠に微弱に生命力を流し続けるだけのものになる。
 呪いを除くには、術者本人か、また別の強い力の主に拠るしかない。
[ダイジョウブ、ジャナイ]
 めずらしく答えがあったのは驚きだ。
 膝を抱えて、むくれたように目だけを光らせている。
[呪イ、解ケナイ。仕方ナイ。……ダカラ、ばーしゅ、必要]
「……? エマ、お前何を言ってるんだ?」
 呟く様は人だというのに、彼女の本能だけが言葉になっている。光の獣、神狼の座を継ぐべき娘の言葉は、予言めいて何も分からない。
[しゃんぐりら。ゼッタイ。守ルカラ……]

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