第七章
 希求 けく
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 強い寒気を感じて目が覚めた。
 顔半分まで毛布を引き寄せていた。裸身では仕方がない。柔らかい毛の布を意識的に引き寄せ、羽毛の詰まった枕に横顔を押し付けながら、さてここはどこだろうと考える。身体は鈍く、頭の働きも呼応して使い物にならぬ。それでも無理を押して起き上がると、やはりそこはいちるにとって見知らぬ部屋だ。深紅の絨毯。萌葱色に若草色を差した壁紙。椅子も調度もすべてその色調に合わせてある。
(戦女神カレンミーアの城……と言っていたか)
 身動きすれば鈍く、しかし確実に訴えてくる痛みに顔が歪んだ。ふと身体を見下ろせば、腹部に痣が出来ている。打ち身でできたものではなく、針で色を刺したような。
(呪印、か。すべては消えなかったか)
 下腹を中心に、心の臟に向かって伸びている、葉のようなもの。大きさは不揃いだが、渦を描くようにして大小の黒い枝葉が模様を描いている。一度胸に近いところまで達していたが、そこは始点に比べて、じっと見なければ分からないほど薄いものになっている。はっきりと残っているのは、下腹を中心にした拳一つ分ほどの渦巻きだった。
 根は消えていないが、枝葉は断たれた。――アンバーシュによって。
 つまり、いちるは、定期的に神気あるいはそれに類似するものを取り込まねば呪いに食い殺されるというわけだった。
(神との結婚をこんな形で思い知るとは思わなんだ)
 ため息が漏れた。名交わしと同じく、繋がりを得る行為は呪いと同種のものだ。神前で誓いを交わしていないとは言え、半神の王はいちるを嫁娶(かしゅ)した。婚儀は成った。これでいちるは花嫁だ。
 椅子の上に寝間着がかかっており、大きさから自分に割り当てられた物だろうと判断して勝手に身にまとった。その夫はどこへ行ったのだろうと思う。放置してどこかへ行っているのなら腹立たしい。
 扉を叩く音がした。
 返事をすると扉が開けられ、見知らぬ女が立っている。
 不思議な人物だった。並外れた美貌もそうだったが、薄衣一枚の中央に穴を空けて、それを腰で絞ったような衣装は、うっすら身が透けていた。これでは例え真冬でなくとも凍えてしまうだろうに。
「おはようございます。お目覚めですか? カレンミーア様のご命令で、支度を手伝わせていただきます」
 頷くと、足音一つ立てず入室し、いちるを鏡台に導く。
「体調も戻られた様子、なればわたくしたちの女神にご挨拶いただいてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです。こちらこそ御礼を申し上げたい」
 嬉しそうに女はいちるの世話をやいた。もし彼女と同じ衣装を出されることがあれば丁寧に断らねばならぬと思っていたが、幸いにも持ってこられたのはヴェルタファレンで身につけているものと変わりない品だった。城の主の趣味か、深紅に金の縁取りが施されている。ただの縁取りではなく、金剛石まで縫い付けられた相当手の込んだものだ。だというのに衣装の基礎には何も施されていない。唯一が裾の細かい襞だ。カレンミーア女神の美意識の高さが窺える。
「カレン様から、もしご要望でしたら御髪を整えさせていただくようにと言いつかっておりますが、どうされますか?」
 エリアシクルの件で一房切り、プロプレシアの結婚祝いでもう一方の房を切り、囚われた時に滅多に切り刻まれたせいで、頭髪は見るも無惨な有様だ。よくもまあこんな女を嫁に迎えたものだと呆れてしまったが、こうなってしまうと整えるしかあるまい。
 頼みます、と答えた。
 高貴な女らしく気味悪いほどに伸ばした髪も、別れる時は刹那だった。これほどまで短くしたのはいつ以来だろう。少なくとも撫瑚に行く以前よりも更に過去だ。童子の頃かもしれない。
 あの頃はまだ稚い夢を見ていた。母がまだ居り、その母がいちるを捨てるまで、いちるは普通に生きて子を産み死ぬのだと信じていた。村の子の守をしながら、大人になれば母親として乳を与えるのだろうなどと考えて、村の悪戯小僧の誰かに淡い思いを寄せていたような気がする。あの子はとうに死んだし、子孫がいるのかも知らぬ。母も本当に産みの母であったのか。だが、もう二度と関わることはないものだ。
 揃えられた髪は、まるで禿のようだった。体つきは十分に成年で通るのに頭部だけ童女のように見える。唇が赤く、得体の知れない様がさらに顕著になった気がした。「飾っておきましょうね」と宝飾を着けられなければ、年相応とはとても言えない。
 仕度を整えたいちるは広い一室に通された。そこに、高い棚に肘を置いて、杯を傾けている女がいた。
 長く波打つ見事な黄金の髪、男性のような体躯だが、胸も腰も女性らしく、もしくはそれ以上に豊かで引き締まっている。彼女もまた薄衣の衣装を身にまとっているが、例え裸であろうともこの女神は自身を誇るだろう。
 いちるは目礼し、言葉を待った。
「気分は? 呪いだと聞いてずいぶん心配したよ」
「ご温情を賜り、ありがとうございます。おかげさまで起き上がれるようになりました」
 うん、と女神は人なつこい笑顔になる。
「あたしはカレンミーア。カレンと呼ばれている」
「いちると申します」
「よろしく、イチル。ああ、思った通りの目だね。あたしの好きな顔だ」
 指先でついと顔を持ち上げられ、面食らう。だがまさか不快な顔も出来ず黙していると、カレンミーアは噴き出した。
「悪い悪い。機嫌を悪くしないで、まあお座りよ」
「アンバーシュの行方をご存知ですか」
 カレンミーアの顔に何らかの兆しがちらりとよぎる。
「その話もするが、まずお前は何か腹に入れないといけない。あたしたちと違って、お前は生身だからね」
 その一言で用意が始まる。世話を焼いた女や、似たような服装をした男女がするすると机に並べていくのは、果物や野菜など調理をあまり必要としないものだ。
 確かに食事をするべきだと判断しなければならない体調だった。空腹を覚えているし、ここが神の居城というだけでなく、意識にも指先にまでも力が行き渡らない。カレンミーアは手際よく、西島特有の大振りの蜜柑を剥いて、いちるに差し出した。
 果実は、甘い。どこかで冷やしていたのか、口の中に染みる。
「まず、アンバーシュは早々に城を出て行った。お前については迎えを寄越すようヴェルタファレンに連絡したからここにいろということだ。魔眸も戦女神の城に来ないさ。少しの間休んでいくといい」
 それが後朝を交わした男のすることだろうか。
 いちるは薄く、不機嫌を表して尋ねた。
「どこへ行ったのですか」
「ビノンクシュトのところか、別のところか……あたしは聞いてない。聞ける雰囲気じゃなかったからね」
 食べなさいと更に剥いた果物を押し付けられる。今度は桃だった。甘い香りが絡み付くようだ。それを隣にやって、問う。
「何をご存知か」
「いい顔だね。よく戦ってきた者の顔だ」
 手を拭きながら言って、細指を組み、顎を載せる。
「アンバーシュはお前の呪いを解こうとするだろう。解呪には、本人か術師の手が必要だと、お前を診た者が言っていた。そのどちらも不可能なら、もっと力の強い者に頼むのが普通ではないかな。幸い、アンバーシュは気に入られているから。本人は二度と会いたくないかもしれないけど」
「まさか――西の大神の元へ?」
 カレンミーアはにやりとする。いちるは顔を覆いそうになった。
 強いも強い。強すぎる。創造主の次に力ある者に頼み事をするとは、自分の価値がそこまで釣り上がったなどと初めて聞いた。たかが呪いだ。生死に関わったとしてもそれを負わなければならない。気まぐれに選択と救済を送る大神に名指しした者を救ってくれと直訴するなんて、この世のすべての人間の恨みを買う所行だ。
「馬鹿なことを……」
「それだけ好きなんだろうさ。床を共にした女を放っていくくらいね。よかったじゃないか。こじれてたんだろう?」
 いや、余計こじれるかな、などと無責任なことを言う。
「……カレンミーア、いくらあなたでも、聞き逃せないことがあります」
「失敬。でも、怒った顔が素敵だよ、イチル」
 唸ったいちるにからからとカレンミーアは笑う。
「そういえば、エマが来ていたよ。その辺りをうろうろしているだろうから呼んでもいいかな。あたしが閉め出したせいで、ちょっと機嫌を悪くしてるかもね」
 頷くと、もう一つの声でその名を呼ぶ。ずいぶん感覚が鋭くなっていたらしく、カレンミーアの呼び声は頭に響く大音声だったが、そのおかげで少女神はすぐに現れた。激しい音を立てて扉が開き、いつもの素っ気ない装いのフロゥディジェンマが現れる。
[しゃんぐりら]
 目を見開いたフロゥディジェンマは、小走りにやってくると、座っているいちるの膝元に一目散にやってきた。こすりつけるようにして頭を押し付けられ、その髪をそっと梳く。
[外にいたのか。ずいぶん冷たくなっている]
[平気?]
 幼い少女の姿であろうとも、彼女は恐らくいちるより年嵩のはずだ。何があったのかは承知しているに違いない。隠しても仕方あるまいと、観念して頷く。
[心配をかけた。今は動けるようにはなったよ]
[問題ナイ。エマガ、運ンデアゲル]
「魔眸が来たらすっ飛んでいくくせにか?」とからかい混じりに言ったカレンミーアを無視して、フロゥディジェンマはいちるの膝でうっとりと目を閉じている。これもアンバーシュたちが言う、いちるの『力の循環』能力のせいだろうか。フロゥディジェンマが触れていると、少しだけ身体が軽くなるような感覚があった。
「そうしていると母と娘みたいだなあ。その子が懐くなんて滅多にないよ。三柱に近いせいで、悪しき者は一切拒絶するんだけど」
「やはり幼神は力が強いのですか?」
「それもあるし、エマは座がね。神獣の中でも最も力のある光の神狼フェリエロゥダは、万物を司るアストラスを補佐し、この世の獣を統べる光。その娘で、跡を継ぐことを約束されてる。その存在は、眠りについている三柱の創造神に近いところにある」
 あたしらが忘れたものも覚えてるんじゃないかねえ、と、まるで母親のような言い方をする。カレンミーアは、そんな年齢には見えない華々しい美女だが、彼女もまた見た目通りとはいかぬ年月を重ねているのだろう。彼女の艶やかな瞳には底知れぬ深みがあり、戦女神という立場、彼女たちの言い方をすれば座というものを思えば、強くもある輝きを宿すことも当然かもしれない。
(妾も、稚く純粋であったら、出自を覚えていたのだろうか)
 たかだか二百五十で、フロゥディジェンマのようだった時の記憶は、海の底に消えたかのように遠かった。ゆえに、自分が決してこの娘のようにはあれないことを知るだけだった。

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