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カレンミーアの城に滞在して二日目、女神の所有する書物をいくつか読みながら暇を潰している。迎えが来ると言われていたが、思ったより時間がかかっているようだった。
カレンミーアの趣味は、いまいち、判然としない。字引があったかと思えば、聞き覚えがない国の歴史書があり、美女ばかり集めた版画集があれば、どこの誰とも知れぬ作家の紀行文。文法が古くさく読みづらいことこの上ないが、慣れるとなかなか興味深い。どうやら字引はこのためにあるらしかった。
しかし、一頁前の国や地名が覚えられず、意識が文字から別のところへ飛んでいこうとする。
金色の髪や、青の瞳。低く囁く声や、触れていった手。
胸騒ぐそれらはいつの間にか大きな腹立ちになり、いちるは窓に向かって仁王立っている。
(何故一夜だけで、こんなに落ち着かなくならなければならぬのだ!)
アンバーシュに会って一度張り飛ばせば、この怒りが収まるはずだ。だが頬を張ろうにも本人の行方が知れないとあっては、行き場がなくてうろつくしかない。腹を空かせた動物のようだ。
いっそカレンミーアに頼んで、アストラスのいる神山に連れて行ってもらうか。それともエマに頼もうか。一人の呪いの解呪などという小賢しい願い事を大神に一蹴されるなど目に見えているのに、何故あの男は姿を現さないのだろう。まさか、悔いているのか。今更、花嫁という可愛らしい呼び名をいちるに与えたことを。
俺の花嫁。愛しています。
――いちるは粟立った腕をさすった。低い男の声が今でも、耳の奥を掻き回している。
考えていると、カレンミーアの眷属の女がやってきた。
「カレン様が、ヴェルタファレンまでお送りすると申しております」
突然の申し出に驚き、カレンミーアを探すと、すぐに見つかった。だが、いつもの薄衣には鎧を着け、篭手、具足を身につけ、兜を被るという、戦準備を終えたところだった。
「悪い。ちょっと出なくちゃならなくてね。長くなりそうだから、あたしの眷属をつけて送らせてもらうよ」
いちるは静かに言った。
「迎えが来れる状況ではないということですか?」
カレンミーアは苦笑する。
「安心しなさい。ヴェルタファレンじゃない。でもまあ、あそこも今は別の意味で大変かな。どうするかはお前次第だよ」
戦の火の手はあの国に及んでいないと聞いて、幾分か心が軽くなる。だが、この西島のどこかで戦女神の加護を求めている者がいるのかと思うと、少し苦い味が感ぜられた。それらの葛藤を見抜いて、当の女神は笑うのだった。
「あたしたちは、常に両の側面を持っている。あたしは分かりやすいね。勝利と敗北。勝利者にとってあたしは祝福で、敗者には呪いだ。アンバーシュも同じものがある。バーシュの本質は」
「慈愛と残酷」
先んじて言ったが、女神は正解とも不正解とも答えない。
だがいちるはすでに知っている。アンバーシュは情け深く、そして残酷とも称されるだろう。内に入れた者を徹底的に庇い立てするが、その情が時折惨さを引き寄せる。いちるについても。昔の女についても。
そう考えてみれば、果たして神とは何なのだろうか。超常的な力と強い生命力を有しているだけで、彼らの生き方は人間と何ら変わりないのではないか。
カレンミーアと挨拶を交わし、彼女を見送ると、いちるも城を出ることになった。戦女神の持ち物である車と、それを曳く天馬。空を飛ぶことができる眷属たちがついてくれる。
戦いを司る女神の眷属たちも武装をした、美しい男女だ。所蔵されていた書物で確かめた通りならば、彼らは女神に見初められた戦士たちだった。戦いで命を落とした時、強さを見初めたカレンミーアが彼らの名と魂を預かり、眷属とする。中には願いを叶えてもらう代わりに魂を差し出す者もあるという。
いつの間にか潜り込んだフロゥディジェンマが、いちるの膝の上でうとうとしていた。
雪山の上にあるカレンミーアの城は、視界が利かないほどの吹雪に晒されていた。雲を抜けると、いちるにも力の膜を抜けるような感覚があり、いつもの慣れ親しんだ六つ目の感覚が戻ってくる。異能の目が、地脈を通じて広がっていくのに安堵する。神々のいるところには力が溜まる。そういったところでは異能が鈍ることが近頃確信になっていた。
開いていた感覚を、少しずつ絞っていく。すべての物事を、いつも目を見開いているように知っている必要はないからだ。南方で上がっていた戦の火の手が萎んでいくことも、どこかの神が嵐を起こしていることも、忘れるようにする。
結晶宮に到着すると、宮廷管理官たちが出迎えた。先頭にいるロレリアが頭を垂れ、一斉に後ろの者が続く。彼女たちに頷き、戦女神の眷属たちに礼を言って見送った。
さて、と向き直ったいちるは、強健な女性官吏が緊迫した面持ちで自分を待っていることを改めて受け止めた。この国が危機にさらされているわけではないと、周囲を軽く探ることで確認する。
「ご無事のご帰還、お喜び申し上げます。まずはお部屋でお休みいただき、その後、お聞きいただきたいことがございます」
「このまま聞きます。どこへでも、手近な部屋に」
そうして目を擦るフロゥディジェンマに言った。
「エマはこのままお休み。来てくれてありがとう」
くるんと瞳を回し、頷くと、小さな足で駆けていった。
いちるの意志を汲んで、すぐさま結晶宮の一室が準備される。椅子に座り、飲み物が用意されて早々、ロレリアは素早く状況を説明した。
「アンバーシュ陛下がお戻りになりませんでしたので、クロード様に確認を取ったていただきました。陛下は、大神の御許へお出ましになられているとのことでした。しかしつい先ほど、ティトラテス皇国より助命嘆願書が参ったのです。アンバーシュ陛下が、大神の御命令を受けて、ティトラテスに審判を下しているらしく」
「審判」
聞き慣れぬ言葉だった。
「御力を持って裁きを下す、つまり――皇国を滅ぼそうとなさっているようなのでございます」
いちるは眉をひそめた。何かの間違いではないかと思ったのだ。
(確かに、妾が囚われたのはティトラテスの馬鹿どものところだったようだが)
それだけで雷を降らせるというのは私刑に過ぎる。それに、西の大神に会ったことでどうして国を一つ滅ぼさねばならない大事になるのか。続きを促した。
「クロード様の御使いが知らせてきたところによると、どうやら、アストラスはアンバーシュ様に対価を求められたそうなのです。何か望むものを与える代わりに、ティトラテスを滅ぼせとお命じになり、それを」
ロレリアはこちらに食い入るような強い目を向けてぐっと口を閉ざした。その場で様子を窺っていた宮廷管理官たちも、そっと視線を下に向ける。
アンバーシュが父神に願い事をした。大神でなければ叶えられぬような願いを。
いちるの解呪であることは明白だった。
震えた唇から零れた吐息を、素早く飲み込んでなかったことにする。歯を食いしばり、それでも足りず唇を噛んで、しかし足りずに椅子の肘掛けを握りしめる。
「愚か者が――」
定められていた言葉だと知っていたのか、周囲の者たちは刹那肩を竦めてその地響きの声を受け流す。
(たかだが一人のために大神に願い出て、対価に一国を滅ぼす。なんという傲慢、なんという愚!)
「イチル姫、お願いいたします。わたくしどもにはアンバーシュ陛下をお止めする力はございません。姫のお力を持って、陛下の真意をお尋ねいただきとうございます。お止めせねばなりません。調停国であるはずのヴェルタファレンが、独裁の誹りを受ける前に」
賢女の誉れ高いロレリアがいちるなどに懇願する。いちるの心も引き締められようものだった。
「あれの振る舞いは、わたくしの責。わたくしが止めねばならない」
顔を歪めたいちるは、少し迷って付け足す。
「あなた方は、それほどまでにわたくしにへりくだる必要はありません。わたくしは神でないし、危機には手を貸したいと思っている」
目を見開いた宮廷管理官たちは、険しいまなじりをふっと緩めた。彼らが何かを口にする前にいちるは命令を放つ。
「宮廷管理官の総力を持って、あなた方が呼びかけられるすべての半神、神々にヴェルタファレンのいちるがお目通り願いたいと伝えなさい。目的はと尋ねられればアンバーシュを止めたいのだと話してよろしい」
アンバーシュを止めます。
繰り返した言葉に一同は深く首肯し、散っていく。いちるは人を呼び、己の女官たちに宮廷管理官と相談しながら神と相対するにふさわしい支度を揃えるよう命じる。神々が集えるように、結晶宮は清めて整えること。国で流血沙汰や穢れを極力除くこと。だが対応の詳細は専門家である宮廷管理官がよく知っているだろう。
いちるは馬車を出すように命じる。行き先はロッテンヒル近郊マシェリ湖。エリアシクルに会わねばならないからだ。
[しゃんぐりら]
[エマ。やすんでいなかったのか]
この少女はいつも音もなくやってくる。無垢な目はいたわりを告げた。
[手伝ウ?]
[大丈夫だ。アンバーシュを連れ戻してくるから、ヴェルタファレンを任せてもよいか]
[マボウ、来ナイ。シバラク。デモ、チャント、守ル]
「来ない?」
[様子、窺ッテル。しゃんぐりら、花嫁ニ、ナッタ。繋ガリ、出来タカラ]
相変わらず分からないが、心無しか瞳が笑っている。頬を包んでやると、うっとりと目を閉じた。恐らく嬉しいのだろう。アンバーシュといちるを結びつけようとしていたフロゥディジェンマは、己の思惑通りに事が運んで喜んでいるのだ。そう思えば、やらねばならぬな、と決意が湧いた。
(お前を止めるぞ)
この命は、一国の存続ほどのものであがなうべきではない。妾(こんなもの)などに世界の一部を賭けるでない。
お前を止める。
[アンバーシュ。お前を、止める]
どこか遠いところから声を聞いた気がした。優しく首を振る仕草のようだった。もしかしたら、アンバーシュ自身、自分の行動を否定したいのかもしれない。
力を集めているために、上空には常に雷雲が巻いている。アンバーシュが移動すると力の起点も動く。それを予測して、地上のティトラテス国民はあちこちに逃亡しているはずだった。じわりじわりと、都の城を目指すようにしているため、皇帝はすでに逃げてしまったかもしれない。
それでいい。無用に人を殺めたいわけではない。与えられた任務は、国を一つ、滅ぼすだけだ。王がいなくなり、政府が機能しなくなればいいだけなのだから、アンバーシュは適した領地や城に雷を降らすだけでよかった。
(恨むのなら、大神を恨んでください)
――その女は魂にまで呪いが刻まれている、とアストラスは言った。
神山を守護する神鳥ギタキロルシュに用向きを告げ、面会を取り付けたアンバーシュは、全なる父神の第一声を、顎を引いて受け止めた。
「ふうん、シャングリラの娘に呪いが刻まれているとはなあ。大変だな、アンバーシュ。お前の望みは解呪だな? 確かに私でなければその呪詛はすべて取り除くことはできないよ。だがな、いくら神の花嫁とはいえ、私の力を大盤振る舞いするわけにはいかないのだよ。そうだな、私の望みを叶えることと引き換えにしよう。アンバーシュ、お前、ちょっとティトラテスを滅ぼしてこい」
語る前に起こりうること知っている大神は、一息にアンバーシュに告げた。
願いを告げれば、代わりに何かを求められるのは分かっていた。アストラスは人の王のような願い事を口にすることは滅多にない。魔獣と呼ばれるような魔法の生物を退治させたり、島を一つ隠させたりと、人の手に及ばぬ仕業を求める。提示された、人間世界に大きく作用する一国の進退、というのは妥当なところだった。
「ティトラテスは巨大化し、神への恩恵を忘れつつある。我らを思い出せとそろそろ釘を刺さなければならない。蔑ろにした神は祟るぞ。お前も力を誇示できていいんじゃないか?」
好き勝手に話す西の大神は、そうにこにことしてアンバーシュに語りかける。
床にまで流れる金色の髪。様々に色を変える瞳と虹彩。少年のようで、老人でもある、無垢な表情。美しいと表現されるが、大神をすべて言い表すことは不可能だ。常に形を変えて留まっていない。唯一変わらないのが、彼の耳は潰れており、聴力を失っていることだった。髪に隠れているが耳に当たる部分には穴が開いているだけで機能を果たさない。大神という座にあるため、起こる出来事を知っていたが、彼は自分の思うようにしか語る言葉を持たなかった。
父神の元を辞したアンバーシュは、その足でティトラテスへ飛び、適当に雷を降らした。一日に何度も雷を降らせると他の地域に影響を来すため、風神や雨神の領土を侵さぬようにすると活動を抑えながら行動するしかない。一日ですべてを終えて、すぐに戻りたいというのに、もどかしくて仕方がなかった。
(イチル。早く会いたい)
顔を合わせた時、どれほど嫌悪に顔を歪められようとも。
あなたが生きているのなら、何を犠牲にしても構わないのだ。
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