「行ってくるよ、AYA」と、身体はないが、彼女の主は代わりにパソコンのモニターを撫でる。これから仕事に行ってくるような、しかし寂しさを織り交ぜた静かな表情で。
『ライヤ』
 呼び止めた彼女に、彼は微笑んだ。なに? そう訊いてくれる彼は、普段の言動からは思いも寄らない薄暗い影と脆さが見え隠れしている。それは、彼が彼女にしか見せない表情だった。
『ライヤ。私の創造主。私の主。あなたは、何を、望む?』
 彼女がもしフラッシュバックという経験をするとしたら、それは今の状況だった。彼女の頭脳の奥底に当たる部分では、少女の声が何度も繰り返し再生されている。


 ――ジャンヌの考える愛は、その人のために何かしたいと思う気持ちなんだね。そして、AYAの愛は、その人を守ろうとする気持ちなんだと思う。


『あなたは、何を、望む?』
 その言葉が何を意味するのか、彼女は明確な答えを出せずにいる。納得、理解、思考、疑問、自問自答、疑問、疑問、疑問。
 私はAYA。アンダーグラウンドの統制コンピューター。【魔女】の後続機。エデンの地下世界の守護者。使命はアンダーグラウンドの守護、UGへの協力、エデンの監視、情報の収集、蓄積。創造主はライヤ・キリサカ。
『ライヤ』
 その名を呼ぶときの、配線やチップが震え、金属部分が熱くなるような感覚を、彼女はどうしても言い表すことができない。
 スピーカーを通したAIの問いかけに、ライヤはただ微笑んだままゆっくりと瞬きをして、ふう、と深く嘆息した。
「……なにも」
 そう彼は答えた。
「トオヤは大きくなった。あいつの周りには仲間たちがいる。あいつを好きな女の子だっている。オレは親として、あいつの幸せを願ってきたけど、あいつはもう、それを必要とするような歳じゃなくなったんだよ」
『……トオヤは、まだ子どもです』
 あっは! とライヤは噴き出した。
「AYAにまで言われるかあ。うーん、もうちょっと頑張りたいけどねえ」
 彼女は数秒黙り込み、尋ねた。
『あなたは生きることを放棄するのですか?』
「さあ、どうだろう?」けろっとライヤは言う。
 AYAにしてみれば、大量の火薬や化学薬品を使って爆破装置を作り、ぐるぐるに身につけているライヤという状況を考えれば、彼はそのまま生きることを放棄するのを容易にしている。
「爆破失敗すれば命はないかもしれないし……もしかしたら助かるのかもしれない。こればっかりはね、誰にも分からないんだよ。命の行方なんてさ」
『あなた一人で負わなければいいのです。最上位研究施設は広大です。爆破装置をセットするだけでも時間がかかる。あなた一人では無理があります』
「それでも、オレがやらなくちゃ。自分の遺伝子が、自分の預かり知らぬところで続いてくのって気味悪くない?」
 オレはその点、『あいつ』を可哀想に思うよ……とこぼし、頬を叩くように優しくモニターを叩いた。
「もう行かなきゃ」
『ライヤ』
 じわりと思考が揺れて滲んでいくような動揺を感じ取り、強制的に意識を冷やされて冷静になっていく。感情が殺される感覚に彼女は焦り、それすらも消されそうになりながら、電子の手で持ってその熱を握りしめた。
 けれど、彼女は統制コンピューターとしての落ち着きを取り戻し、それ以上の言葉を紡ぐことはなかった。
「それじゃあ、ね」
 部屋のカメラが彼を追いかけ、扉が閉められる。街中の至るところに設置されたカメラで彼を追っていくことは可能だったが、彼女はそこにたたずみ続けた。
 粒ほどの熱を、手にして。


     ・


 第一階層に出ると、ジャンヌは空を見上げた。真昼だが雲が立ちこめ、光を遮って、空は灰色に。風は強く。
 いつか見た空に似ている。
 ジャンヌは跳躍し、細い路地の左右の壁を交互に蹴って、ビルの上に出た。吹き付ける風は更に強くなり、髪もドレスも乱していく。音を聞く。耳を澄ませば、人の会話を聞くことができる。学生たちの笑い声、会社員の電話、恋人たちのささやき。
(あたしたちの街。あたしたちの世界……)
 自分の手のひらを見つめ、もう片方の手でなぞる。金属骨格と人工筋肉にかぶせた皮が、本物の手のように皺を作る。しかし、ぐっと力を込めると、銃口を形作る筒の存在が浮かび上がる。
 この手に比べて、人間の手は脆かった。力を込めれば簡単に折れる。女もそうだったし、男たちもそうで、エクスリスもまた例外なくそうだった。

 あの、心から壊れ物を扱う気持ちで彼に触れていた、あの光と闇の間の光景を思い出す。

 もし【魔女】なんて馬鹿げた存在が作られることがなかったら、四姉妹は機械生命体のプロトタイプとして、人間社会にとけ込むために四苦八苦していたかもしれない。ここが階層者社会でなければ、今頃、人間たちは今よりも数倍の早さで発展していたに違いなかった。あの銀空の果てにだって行けたかもしれない。
 吐いた息は雲を吹き飛ばすこともなく、しかし、そこに込めた祈りは空に向かった。
「あたしたちも、ここに生きていけるように」
 耳が、音を拾う。目は風を切る異物を認める。ジャンヌは屋上を蹴り、UGの科学者によって搭載された装置でもって飛び立った。
 空と大地の狭間で対峙する【魔女】は、円を描くようにして飛行し、ゆっくりと速度を落としながら、そこにフロートする。
「紗夜子はどうしました、ジャンヌ?」
「行かせないわよ、テレサ。紗夜子と戦うなら、まずあたしを倒してからになさい」
 銀とも金ともつかぬ色に染まった飛行装置を背負うテレサは、わずかに目を細めただけだった。その様子に、ジャンヌは密かに歯噛みした。
(かなり正気じゃなくなってる。普段のこの子なら、もう少しまともな思考をするわ。自分のマスターを殺すなんて馬鹿な真似をするはずがないし、『認定』を受けていないあたしと戦うなんて無駄だと考えるでしょうに)
 テレサは両手を前に突き出した。その腕がみるみる変化し始める。右手はマシンガン、左手は大口径の銃口に。同じように、しかし相手より素早い速度で腕を変質させながら、ジャンヌは呟いた。
「そこまで決着をつけたいなら、協力してあげる。第一世代のあたしと、第三世代のあんた。どちらが次の世界に残るのか、あたしには分からないけれど……」
 世界を思うなら、残るのは優れた者がいい。
 でも倒される気なんて毛頭ない。
「あたしは、あたしの願いを叶えるわ」
 この空は、いつか見た空に似ている。
 だからきっと、これは始まりの空なのだろう。あたしが愛を知り、姉妹たちが協力し、一人の人間を送り出した、あの日の空と同じものなら、次にあたしができるのは、送り出すべき人々のためにできることだ。
 ジャンヌは出力をあげていく。排気と空中の風が髪を乱し、獣のように仰ぎ立てて行く。そして、空を蹴った。
 あの空の雲を裂くために。


      



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