「状況はいかがですか」
上品な表情で、江上藤一はUGの首領に問いかけた。
「布陣が完了したようです。後続の戦闘部隊が本部に入ったと」
「犠牲が多くないことを祈りましょう。精神薄弱とされる第三階層者が命を賭けてまで己の任務や仕事を忠実であるとは思いませんが、己の権利や財産には固執する人たちです。彼らの無茶で、UGの方々に危害が及ばないといいのですが」
「非戦闘員の無茶は確かに危険ですが、我々はそういう事態にも対処できるよう訓練しています。爆弾程度ならなんとかなるでしょう」
「爆弾、『程度』……」
藤一は瞬きをし、苦笑した。
「まだまだ、UGについて知らないことがあるようですね」
「あなたはどうしてUGに協力を?」
第三階層の三氏、エガミ一族で実権を握っている男は、静かに微笑んだ。
「友人と約束をしたんです。いつか、あなたがその時が来たと思ったときに助けてやってほしい、と。第三階層者は閉じられているゆえに独特の繋がりがあるんです……エガミはクドウの遠い親戚です」
ボスは微笑んだ。知っている、という顔だった。
「ねえ! 大変、テレビに……」
「ラジオもだぞ!」
「携帯見ろ、携帯見ろ! このページ見ろよ!」
そして誰もが様々なツールを覗き込み始めた。怯えと興奮を帯びていた顔は、やがて真剣なものに変わっていく。
「……階層者社会の改革?」
「これキリサカ氏だろ? おいマジかよ。マジで言ってんの?」
「革命? テロの間違いじゃ……」
様々なページ、チャンネル、ツールで繰り返されるUGの革命宣言を、吸い込まれるようにして第一階層者たちは聞いていた。否定的な言葉を叫び出す者もいれば、何も言えずに空を見上げる者も、この革命の是非や成功を論じる者たちもいた。
しかし共通して言えるのは、革命を知った者たちは、誰もが空を、階層を見上げたことだった。
*
白い指先は本を閉じ、その表面に印刷された灰色の空をなぞった。彩度は失われていたが、色彩があるなら、それは美しい青々とした空だったのだろう。薄い雲が何層にも重なり、しかし空の突き抜ける青は失われず、絵画のような、宝石のような、不自然でも自然でもとれる美しい色をしていたのだろう。
窓の向こうに空に目をやれば、すぐに何が起こっているのかを感じ取れた。だが、何ができるわけでもない。肉体はここにあり、戦場に向かわなければ、反撃もできないのだ。統制コンピューターになったとしても、人間の原始的な『戦争』の前に、この身体は無力に等しいのだった。
扉が開き、屋敷の主は驚いたように立ちすくんだ後、静かに名を呼んだ。
「……セシリア」
「ただいま」とセシリアは笑みを浮かべた。タカトオは感情を抑えるように息を吐く。
「帰るなら、帰ると連絡をくれれば」
セキュリティをすべて通過して、セシリアは黙ってタカトオの屋敷の書斎に入り込んでいた。セシリアは膝の上の本に目を落とし、また表紙を撫でた。
「もしかしたらいないのではないかしら、と思ったのよ。だって、エガミも、みんなも、逃げてしまったんですもの」
調べようと思えば調べられたが、そうはしなかったことをセシリアは告げた。すでに七割の第三階層者、多くは非戦闘員が、この階層を逃亡し、第二、第一階層に降りていったデータがある。
「あなたは逃げなかったのね。わたくしがいるから? それとも――紗夜子が来るから、かしら」
捨てた娘の名を出した途端、タカトオの目が少しだけ細くなった。
「あなた、殺されてよ?」
「……君も、そうだろう」
セシリアはうふっと笑った。
「わたくしがしたことは何の疑いもなくてよ。でも、あなたは
タカトオの肩が二ミリ揺れたのを見て取る。
「あなたは紗夜子が憎かったのではなく、紗夜子がわたくしと同じものになるのを恐れただけ。第三階層に育ち、タカトオ家から輩出される次なる【女神】にしたくなかっただけ。だから、第三階層者としての育つことのないよう、普通の人間になるよう、第一階層に落とした。名前を、『エリシア』に変えてまでね」
セシリアは優美に笑う。
「だからこそ、紗夜子は普通の、力のない、ありふれた、健全な少女として育つことができた。第三階層に居続けたなら、紗夜子への譲位は、きっともっと早かったわ」
「セシリア」
「あなたがそうしたのはエリシアとの、」
「セシリア!!」
叩き付けるようにタカトオは言葉を遮断し、肩を怒らせ、拳を震わせて、セシリアを睨む。
不意に、感傷のようなものが込み上げた。
ああ、なんて遠くまで来てしまったのだろう……!
最初の記憶から、友人と呼べる少年と少女との出会い、色彩や光の印象、第三階層の光景、自分が【女神】となったその瞬間、その後の『勝負』を賭けたこと、そうして今こうしていることまで、ひらめくように思い出し、セシリアは目を閉じた。
「セシリア……何故あの子を生んだ? 君が子どもを望んだのは、その子に自分を殺してもらうためだったのか?」
紗夜子の、黒い瞳。畏怖と怯えと悲しみを秘めた、弱々しくも美しい、やがて強靭な精神を得るだろう底知れない輝きを持った、黒い瞳。わたくしと同じ銀色では、決して、あの子ほど硬質な瞳の色にはならない。
黒い瞳が開いた時、運命を知った。
紗夜子は、わたくしを越えるべく生まれたのだと。
「わたくしは、【女神】」
セシリアは立ち上がる。白い裾が、髪が、音を立ててこぼれる。光を散らして。
「創始者たちが消去したはずの記録が、【エデンマスター】の底に隠れていたわ。わたくしはその断片と自らの知識で、すべてを理解した。この世界は、巨大な船だということ。そして自らの由縁を。タカトオ、ある意味ではすでに楽園は開かれているのよ。人類はすでに侵食を受けている。だからこそわたくしや、エクスリスのような人間が生まれるのよ。銀の髪銀の瞳をした新人類が」
「しかしそれは操作したものだけだ」
「今はね。でも、あなたたちは知らない。第一階層で、どれほどの人間が、禁じられている人工授精を行っていると思う? 生まれたその子たちが、どれくらい秘密裏に殺され、どのくらい育てられていると思う? タカトオ。第三階層者だけが、選ばれた人間だけが、銀色を持つわけではないの。秘密はやがて暴かれ、世界は移り変わるのよ」
セシリアも、【女神】とならねば知ることのなかった真実だ。
しかしまぎれもなく存在する現実でもある。
「世界は、次の手に委ねられるものなのよ。エデンはわたくしの手を離れつつある……でも、『人類はまだ弱すぎる』。『外』に出て行くための強さを手に入れるには、まだ時間がかかる。次代に【女神】を譲り渡すしかない。他の手ではいけない。……【彼】に対抗するには」
もう行かなくては、と彼女はドレスを軽く持ち上げ、歩き出す。先ほどから、総督府の本部にある【女神】が、侵入者を伝えるアラートと、警告と、被害状況を申告してきており、耳が聞こえなくなるかと思うくらいうるさかったのだ。
だからセシリアは聞こえなかった。タカトオが銃の安全装置を外し、引き金を弾かんとしていたことに。