マスタールームのパスワードを打った七重の指は震えていた。呼吸で肩は震え、瞬きが忙しない。涙をこぼすことを禁じるかのように、彼女は素早くコードを打った。
「ここから先は俺が行く」
 中央から左右に割れる扉の前で、トオヤは言った。
「お前、その足じゃ無理だ。ジャック。ディクソン。退避は任せた」
「認めるわ」と七重は答えた。
「了解。……気ぃつけてな」
「紗夜子さんに会ったら、すぐ行くよう伝えておこうか?」
 トオヤはふっと笑った。
「いや――もう来なくていいって言ってくれ」
 もう一度言った。
「頼んだ」
 その意味に含まれる様々なものに、二人は頷く。
 爆発の音がひっきりなしにしている。UGたちはあちこちのサーバーを破壊する任務を負っていた。サブルームを破壊して回っているのだろう。祝砲か、それとも破滅か。どちらかを言い切れるほど思い込みは強くなかったし、正義を振りかざすつもりもなかった。
 始めるために戦ってきただけだ。欲しいものを望んだだけ。
(紗夜子。お前に光をやるよ)

 きっとそれは、お前が闇で見る一番強い光だ――。

 退避する三人に手を挙げ、トオヤは開ききった部屋に足を踏み入れた。


 だだっぴろい、殺風景な部屋だった。箱を作って、その内側に足を踏み入れたらこんなところだろうという、壁も床もつるつるした、何も置かれていない部屋だ。コンピューターはどこだろうと考え、次の瞬間ぞっとした。この、五面を構成するものが、統制コンピューターなのだ。
 どこまで巨大か、分からなくて寒気がした。
 それでも、トオヤは黙って部屋の四隅に爆弾をセットした。スイッチ式のものだ。安全なところまで退避した後にスイッチを押せばいい。
(セシリアはどこだ……?)
 装置を仕掛けた安堵と、次に向ける緊張で心を固め直したその瞬間は、隙になった。
「――っ!!!!」
 気配を感じて、銃口を向けるべく伸ばした右腕、その肩を撃たれる。銃が落ち、スイッチが落ちた。そのスイッチは、次なる銃弾で打ち抜かれ、破壊される。
 何もなかったはずの床が、魔法を解くようにして隠していたものを表した。一人の女が、生まれるように起き上がる。銀の髪、銀の瞳、銀のごとくきらめく容貌。
 女神は、微笑む。

「いらっしゃい、トオヤ」


     ・
     ・
     ・


 うつろな瞳の少女を、カメラが捉えている。カメラは不自然にぶれる。どうやら、持ち主が非力らしい。見えないその人物の華奢な手が映ることから、まだ幼い少女のようだと分かる。
「好きですね、それ」
「うん」とたどたどしい幼児の声が答える。観察者は、もうすっかり飽きてしまったというのに、彼はまだ飽きるということを知らないらしい。プレーヤーの操作まで覚えて、繰り返し、そのビデオを見ているのだった。
 映像のメインである黒髪の少女の背後には、広大な庭と、まるでドールハウスのようにちょこんと置かれたテーブルセットが映っており、カメラはそれをパンしたり、空を写したりと自由な撮影をしている。
『さぁちゃん。走ってみて!』
 言われた通り少女は走る。『戻ってきてー』と言うと戻ってくる。そのたどたどしい動きも、従順さも、少女の愛らしさと相まって人形のようだった。
『あっ、鳥!』
 少女がふっと空を見上げた瞬間、カメラも空を向く。一瞬真っ白に染まった空が、薄い水色に染まっていき、黒い影は鳥の形を成す。その鳥を追いかけるようにして、もう一羽。
『おかあさんかなあ。恋人かなあ?』
 仲間と言わない辺りがませている。すると、それまで黙っていた少女が言った。
『おねえちゃんかも』
 カメラが少女を捉えると、少女はじっとカメラのレンズを睨んでいた。あはは、と笑う声が『そうかも』と言い、妹を呼んで。
『だいすきよ』
 その声が言うと、少女ははにかんだ。茫洋とした瞳に光が射し、柔らかく、少女の背後の日だまりよりも温かく、輝いていた。
 映像は停止し、画面はブラックアウトして、メニュー画面を映し出した。白い少年は、黙って再生ボタンを押す。
「ユーリ」
「なあに、シゲル」
 画面から目を離さない少年に、観察者は尋ねた。
「楽しいですか?」
 少年は振り向き、瞬きをする。
「シゲルは、ぼくのこと、すき?」
「その質問は脈絡がないですね」
 回答を遠ざけたことを、幼児はあっさり見抜いた。婉然と笑い、テレビに向き直る。観察者は、それが不自然で、この世の歪みのように思えて、詰めた息が苦しく、瞳は涙を滲ませた。どうしてそんな気分になるのかは分からなかったけれど。
 いや、本当は分かっている。でも観察者には金が必要だった。病院にいる娘の治療費が。この、ユリウスという少年と同じ年頃の幼い娘が、この世で微笑み続けるための金が。そのために彼はユリウスを観察している。この、Sランク遺伝子保持者の子どもという、いつか狂うだろう種類の人間を。
「……娘も、同じことを聞きますよ」
 ユリウスは画面の少女を見つめたまま尋ねた。
「なんてこたえるの?」
「……『ええ、もちろん』と」
「そう」
 あなたのことも。そう言うのは容易かったが、それは真実ではなかった。
 ユリウスは、偽物の愛ですら手に入れられない子どもで、ムラキは、嘘すら言えないほど、若かった。


     ・


「…………い」
 瞳から一粒、涙があふれた。そのせいで、言葉は不明瞭になった。
「なに……?」
「大嫌い――って言ったの」
 ユリウスが得体の知れないものを見るような表情に変わっていく。紗夜子の言葉が、彼の望む愛と絶望を含んでいなかったからだった。
 その言葉は限りなく悲しく、澄んだ空のような絶望の響きを持っていたのだ。
「ユリウス」
 銀の少年を呼ぶ。
「あなたは言ってほしいんだよね。監視対象としてじゃなく、後継者だからでもなく、たった一人でいい、心から。『愛してる』って。奪われたんだよね、ううん、最初からなかったのかもしれない。あなたは第三階層者でSランク遺伝子保持者だから。でもあなたはあの言葉の意味と重みを知ってる。『愛してる』、それは、自分を救う言葉だって」
 でもね、と紗夜子はその手を突き放した。
「誰かを愛したことがない人に、本当の意味で与えられる愛なんてないんだよ」
 崩れ落ちるユリウスとは対照的に、紗夜子は立ち上がった。空気を求めるようにユリウスは喘ぐ。

「あなたはエデンだ。私たちの世界そのものだ。この、美しくて、汚くて、空虚な世界。私はきっと、ここにずっと生きていたなら、あなたが都市に君臨するのと同じようにあなたを愛したと思う。受け入れたと思う。でも、ごめんなさい。私はもう、あなたと同じじゃない」

 ようやく、分かった。父の態度が、その行動理由が。あの人は、セシリアと同じものにならないよう、第三階層から娘を遠ざけたのだ。同じもののになるならその運命を断とうと、紗夜子を殺すことを選んだのだ。

「私は、この世界が大嫌い」
 ユリウスの息が引きつる。
「だから変えるんだよ。次の世界を手に入れるために。そのために壊すの。何も残さないように、神様を殺すんだ」
 紗夜子は泣き笑った。

「さよなら、世界。それでも私はこの都市(あなた)のこと、それなりに愛してたよ」

 ユリウスは身体が震えるほど大きく喘ぎ、頭をかきむしった。
「嘘を、つくな……! 君は僕と同じだ僕と同じ、僕と同じ……!」
 選ばれた子ども。せかいにえらばれた子ども。
 空から星のかけらが降ってくる。

「世界は目も見えなければ耳も持たず思考もしない。運命は人が与えた名前でしかない。世界が誰かを選ぶことなんてない」

 無情に宣言する。

「あなたは、誰にも選ばれてなんかいないよ」

 少年の顔が歪む。泣き出しそうな子どもの顔は、瞳にみなぎる憎しみで、どす黒く染まり始める。
「紗夜子……!」
「あなたを助ける」
 世界は変わる。古い世界に取り残されてほしくない。そう願って、紗夜子は手を差し出した。
「行こう。私はそうじゃなかったけど、あなたを愛してくれる人が、きっとずっと、思いがけない数でいるから」
「いらない……」
 ユリウスは吐き出した。
「いらない、いらないいらないいらない! どうして、そんな、そんなこと言うんだ! 僕は君だけ。君には僕だけ。そう決められているんだ! そうでなければならないんだ!」
 叫ぶユリウスは、しかし、紗夜子の眼差しによって、誰がそのように定めたのかを思考し始めた。銀色の瞳は混乱に揺らぎ、留まらず、崩壊を始める。揺らぎのまま、突き動かされるようにユリウスは紗夜子に飛びかかると、押し倒した紗夜子の額に、銃を突きつけた。
「……僕のものにならないなら、いっそ」
 銃口は定まらない。しかし、引き金を弾けば全てが終わるのは明らかだ。
 しかし、それができない。
 雨のように涙が降ってくる。
 撃てば、失われる。しかし衝動が、彼の感情が、銃から手を離すことを許さない。
「ユリウス」
 紗夜子のものでない、ユリウスでもない、第三者の声がした。
 ずるり、ずるり、とかろうじて繋がっている足を引きずってやってきたのは赤い髪の女だ。紗夜子は息をのみ、ユリウスは停止した。
 髪であるはずの赤毛は焦げ付き、長さが揃っていない。手足はばらばらで、配線や骨格がむき出した。服は身につけていないに等しいぼろ。全身を覆っているはずの皮膚は皮膚ではないただの皮になってしまっている。目玉はぎょろついている。しかし、優しい。
【魔女】ジャンヌは、美しさを留めていない姿形で、歪んだ声で微笑んだ。
「止めなさい、ユリウス。間違ってるって、分かるでしょう?」
「……う」
 絶叫。
「うああああああああああああああああああああああ!!!!!」


      



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