警備ロボットの攻撃をかいくぐって、ライヤは敷地の出口に向かって駆け出した。自分の運動能力では、生身で研究施設をぐるりと囲む壁を乗り越えることは不可能だ。地下暮らしの男でも、知識があり、手足があるが、老体にむち打ってロボットの一体にドロップキックを見舞うと、銃を奪い取ってそれを破壊し、他に向けて撃った。
 時間稼ぎになればいい。もっといいのは命令系統たるコンピューターにアクセスして攻撃を中止させることだが、そういった指示のできるコンピューターは、たった今破壊したところだった。
 どこからか、セシリアの声が聞こえてくる。


「……空の。そらの果てから楽園を求めて、闇に包まれた儚い光点を一つ一つ確かめるようにして巨大な箱船に乗ってきた人類は、一体、どんな未来を望んだのかしら。完璧な都市? 恒久的な平和? 永遠なんてどこにもないと、創始者たる科学者たちはすでに解を得ていたというのに、それでも夢を見たのね。こんな小さな楽園を作って、神たる新人類を作ろうとした。楽園を治めるべく。永久に続けるべく。でも――変化のない未来は、未来ではないというのに」


 出口が見えた――ロボットの姿はない。ライヤは拳で、柱に取り付けられた制御装置を殴りつけ、無理矢理中身をさらけ出した。右手が軋む。手の甲、骨の部分が血でにじんでいる。装置の部分が多少薄くなっていても曲がりなりにも鉄製、そして自分の手が殴り慣れていないからだ。
「トオヤなら、こういうの簡単なんだろうけど」
 呟きながら、配線を探す。どこからか、扉の開閉を支配している回路があるはずだ。それを壊せば、扉は手動で開くはずだった。研究施設のコンピューターが使えないなら、こういう直接的な方法で命令するしかない。
 銃弾が頭をかすめる。攻撃を返して仕留めながら、無数の配線を探る。装置が一部分しか見えない以上、作業はほとんど勘に頼らなければならない。
(門を閉じさせる力を供給している配線を見つけて、その力を開く方向に変える……どれだ、どれが一番近い)


     ・


 空を見れば、煙が上がっている。遠くに銃声のようなものが聞こえ、道ばたに銃痕や空薬莢を見るようになった。UGたちは、これより奥に進撃したのだろう。総督府まで一キロほど。この跡をたどっていけば、きっと【女神】本体に辿り着くことができるはずだった。
 うまく動かない足は、それでも強く地面を蹴っていく。血まみれのドレスは、高級品だからか妙に軽い。レースがわずらわしかったが、裂いている時間が惜しかった。
 辺りはしんとして、紗夜子の息づかいだけが響くようだ。時計がないために、紗夜子は、今日は何日、何曜日の何時なのかを知らない。自分がどのくらい時間を無駄にしたのかは分からなかったが、UGたちは完璧に行動を始め、恐らく情報操作も行われ、第一階層に革命は伝わっているはずだし、第三階層者たちは脱出した後のはずだ。
 だから、早く。残されないように、駆けていかなければ。
 人の声を拾って、紗夜子は慎重になるよう意識を向けた。走る道はいつしか見慣れたものになっている。高遠家の邸宅がある付近だ。甲高い女の泣き声に聞き覚えがある気がしてスピードを上げた。
 門の前に、押し問答している集団がある。叫ぶ一人を囲んでいるようだ。まさか暴行か。そう思って紗夜子は叫んだ。
「亜衣子姉さん!」
 人々の動きが止まり、叫び声が止んだ。近付いて初めて、亜衣子の周りにいるのが、使用人やSPたちといった高遠家で仕事をしている者たちだと気付く。突然現れた場違いな、しかしこれ以上ないくらい血に汚れたドレスの紗夜子に、彼らは畏怖したように道を開けた。
「エリシア……」
「姉さん」
 いつもの険のある美貌は涙でぐちゃぐちゃに汚れていた。紗夜子が近付いていくと、亜衣子は一瞬で元の憎しみを浮かべ、右手を振り上げた。
 ぶたれる、と思った時、側にいたSPが止めた。
「っ離しなさい!」
「こんなことをしている場合ではありません! 高遠家には、もうあなたしか!」
 亜衣子の瞳に涙が盛り上がり、ううーと幼児のように唸って、泣き崩れそうになった。
「あんたのせいよ、エリシア、あんたのせいよ……! あんたのせいでお父様は!」
 父さん。その言葉に紗夜子は周囲を問いつめた。
「何があったんですか!?」
 答えたのは老僕だった。
「……屋敷中のセキュリティが誤作動を起こして、私どもを攻撃してきました。逃げるのに精いっぱいで……でも、屋敷にいらっしゃったはずの当主様が、どこにもいらっしゃらないのです」
 紗夜子は屋敷を見た。上り坂の向こうに、邸宅の屋根が見える。
 亜衣子の泣き叫ぶ声は悲痛に引きつった。
「どうして、どうしてみんないなくなるの!? 私には、私には……お父様しかいないのに……!」
 葛藤は、一瞬だけだった。
 紗夜子はぐっと拳を握りしめると、鉄製の扉を蹴り上げて開き、坂に向かって走り出した。背中に追いすがるような、老人の「お嬢様……!」という呼び声は、きっと気のせいだったに違いなかったけれど、紗夜子は初めて、自らの足で自宅へ戻ったのだ。

 庭に、薔薇の蕾が揺れている。紗夜子の義母、ローゼット夫人が、自らの名にちなんで愛した花だ。セキュリティが誤作動したということだが、静まり返るそこを、葉の鳴らすかすかなざわめきが満たしている。耳を澄まし、辺りを警戒しながら、銃の安全装置を外す。
 開かれっぱなしの扉をくぐると、銃痕のある玄関ホールを見上げた。そして、自分が長い間のぼることのなかった、王者の階段に足をかける。
 もし、記憶に違いがなければ、父の書斎は二階、東棟にあるはず。一気に駆け抜けた。
 最奥の部屋の扉を開け、刹那、祈った。
「父さん」
 部屋の左壁に、血痕がしぶきを描いている。
 タカトオは事切れていた。全身を撃たれ、シャツも、ジャケットも、ズボンも血で染まっている。壁に背を預けて、目を閉じていた。
 部屋の様子を確かめると、窓際に一脚の椅子がある。他に何の異変も見当たらないのに、それだけはやけに目についた。窓際の椅子、というものに、紗夜子の予感が警鐘を鳴らす。
 あの人が、いたのか。
 タカトオの手には銃が握られており、何者かに対抗したのは明らかだった。セキュリティの誤作動ではない、敵がいて、それに向かったのだ。そしてその後に、セキュリティが動いたのだろう。
 ふと、視線を感じて、紗夜子は部屋を見回した。本棚に収まった本は重く沈黙し、部屋のカメラは見ているだろうがこれではないと直感する。何か、機械が動いている気がする。
(なに? どこから……)
 視線を巡らせていくと、何か赤い光を捉えた気がした。小さな、ぽつんとした光だ。
 無意識に忙しなく動いてしまう視線を制して、本棚に近付く。
 置きっぱなしの本が目についた。モノクロの空が表紙になった本で、触ると、ひんやりとしている。
「『フォーリング・ヴェロニカ』」
 凹凸でつけられたタイトルはそう読めた。作者名はない。表紙を開いてみると、奥付がある。もう二十年以上前の作品らしかった。
 小さく息をつき、本を置いたときだった。
「サよコ」
 ガラスが吹き飛ぶ。
 粉々になったガラス窓、ガラス片と共に銃弾が降り注ぐ。思わず投げた本を貫く。紗夜子は前転して部屋から飛び出すと、階段を数段飛ばしに飛び降り、玄関ホールを走り抜けた。
「さ、ヨコぉおお」
 歪んだ声は、聞き覚えがある。足を止め、振り向く。
「……!」
 そこには、あらゆる金属を飲み込んだようにして変質した、巨大な固まりがあった。獣のように這い、虫のような折れた足で巨体を支える、異形の姿。
 見た目は蜘蛛に似ている。小さな象のようでもある。胴体を床にこするのは肥え太った豚のようだ。何にせよ、気味の悪い化け物には違いない。
「アなたガ最後、最後ぉおオオ!」
 それが誰か、分かってしまった。
「テレサ……!?」
 黒髪の妖艶な、美貌の【魔女】の変わり果てた姿に、紗夜子は絶句した。
 銃弾が飛んでくる。
 紗夜子は外に飛び出した。
(多分、自動修復機能。ジャンヌと戦って負傷して、その修復のために、あらゆる金属を飲み込んだんだ!)
 第一世代のジャンヌにはその機能がなかったために、彼女はああいう姿で現れて、最新型のテレサはああなってしまったのだ。恐らく、制御が働いていない。でなければああも醜悪な姿になるはずがなかった。亜衣子たちが手を加えて、重大な欠陥を残してしまったのだ。
 二階の手すりが破壊される音、巨体が落ち、ずん、と鈍い振動が伝わる。
 坂を駆け下りかけて、思い直す。
 あちらには、亜衣子たちがいる。離れていたとしても、そう遠くは離れていないだろう。亜衣子はタカトオの娘。サイガ氏を殺したテレサを近づけるわけにはいかない。
「エリシア!?」
 そこへ現れた亜衣子に、紗夜子は思いきり体当たりした。そこにガラス片が降り、下敷きになった姉は呆然と硬直している。目の前の化け物に思考できなくなっていた。
「姉さん! 逃げて!」
 亜衣子はがたがた震えている。
「さよ……」
「逃げて、早く!」


      



<< INDEX >>