休日の校内は、それでも教授や研究者が出入りし、決して人通りが絶えることはない。だが生徒を始めとした関係者たちは行儀がよく、禁じられた管理区域の森は、まるで童話の中のような明るくのどかな静けさで広がっている。
「森っていうのは、異端排除の象徴なんだよね」
「そうなのですか。ライヤさんは博識でいらっしゃいますね」
にっこりと微笑んだ政府高官の褒め言葉に、ライヤはスベッたことを自覚した。どうやら簡単に感情を表さないよう訓練を受けているらしい。それとも気持ちを押し隠しているだけだろうかと、じろじろと、無遠慮に眺めてみたものの、純血計画の要人である高級官僚は、官僚らしく威丈高に圧することなく、やわりと微笑んだ。ぺらっぺらの金属箔よりたちが悪い。
微妙な空気を漂わせたまま、車はゆっくりと森に飲み込まれていく。
その建物は森に飲み込まれたように建っていた。大きなドームの上半分は、鬱蒼とした緑に覆われている。揺れる木漏れ日にガラスで覆われている建物は水面のようにゆらゆらと輝いた。
高官がパスワードを入力する。一つのコードを認証させると、扉が開き、真っすぐな廊下が現れた。
「どうぞ、こちらへ」
軽く頭を下げた後、先導する彼に続く。
ひやりとした廊下だった。視界の端で光ったのはカメラのレンズだろう。明かりはほとんど絞られて、入り口と出口から差す光が、ほの明るく道を照らしている。心なしか息苦しい感じがして、咳払いした声が響く。
そして、通路が終わった。
空気の感触が変わる。今度は、浮遊感ばかりで吸った気にならないような、人工的な重さに。
温室の植物。大きな葉の巨木。茂みについた花。無数の植木鉢の花の蕾が、もうほころんでいる。まだ外は寒いというのに、ここはもう春。いや、いつも春なのか。
目の前を行く高官が立ち止まり、ライヤに道を譲った。ライヤは頭を軽く下げ、足を進めた。履き慣れない革靴が、感覚に薄い膜を張ったような気分にさせる。もどかしく、うっとうしい。
高官の目を感じる。キリサカの息子が、何故この計画を知るに至ったのか、ライヤは正式な文書で単なる偶然だ申し訳ないと薄っぺらい回答をしたが、それを納得するかどうかは別問題だ。何故、この計画で、何故、彼女なのか。彼女をどうして知ったのか。
簡単だ。ライヤは、空を飛んだだけだ。
ベンチに斜めに腰掛けて、床を引きずるほど長い髪で顔を覆っていた白い少女は、靴音に億劫そうに目を開け、刹那、息を止めた。
それは、憎しみに似た驚愕。
やがて細められた目がこれを現実と理解し、眉間の皺は苦笑を表した。
「よっ」
ライヤが片手を上げると、少女は身体を起こした。
「初めまして。セシリア」
「初めまして、ライヤ・キリサカ」
そして、彼女は自嘲するように言う。
「あなた、本当に存在したのね」
ライヤはおかしかった。
「オレも、君と同じように思ってた」
側にあった椅子を引き寄せて腰掛ける。つくづくと眺めた少女の存在によって、映像という媒体を通すことで薄れてしまうものがあるのだと、ライヤは実感した。手の届く距離に存在するセシリアは現実離れして美しく、全身に触れて確かめてみたいという気にさせる。
魔性。彼女がそのまま大人になれば、世界くらい簡単に滅ぼせそうだ。
「スーツと革靴は慣れないようね?」
ライヤは目を瞬かせた。
「普段履いていないでしょう? 姿勢が悪いし、靴音が変だわ。もっと実用的な靴があなたの好みなのね」
よく見てる、とライヤは内心で舌を巻いた。あまり気取った服装でムービーを撮影したことはなかったが、普段着からそう推測していたらしい。
「君は似たような服ばかり?」
「異変があると気付きやすいから。でも機能的ではないわね」
「似合ってるよ」
「ありがとう」
当たり障りのない会話が、するすると生まれる。感心した。隔離されているという割に、コミュニケーション能力が高い。
「オレの婚約者が、君に会ってみたいって言ってたよ」
「そう。どんな方?」
まるで芝居をしているような気分で、ライヤは説明した。セシリアは笑みを浮かべて聞いていた。よく知っているだろうに「可愛らしい方?」などと尋ねてくる。うんと答えるライヤの気持ちは本物だが、本当に美人なのはセシリアの方だ。
「ご結婚はいつ?」
「え? いや……」
「しないの?」
不思議そうに尋ねられてしまった。
「彼女は、きっと待っていると思うわ」
言われた瞬間、思考したのは、アヤはそういうことを彼女に吐露したのだろうか、という心配だった。
アヤに初めて会った時、彼女はベッドから抜け出したところだった。ライヤが試走させた鼠型ミニカーを、猫のように素早くすくいあげると、ライヤに向かって熱がある林檎の頬で笑ったのだ。
『かわいい』
そう言ってライヤに近付き、鼠を差し出した。
『でも、見たことないおもちゃ。どこで買えるの?』
作ったんだよ、と答えると、疑わしい顔をされた。ライヤはむっと唇を尖らせ、作ったんだ、と主張した。
『何か作ってやるよ。何がいい?』
アヤはしばらく考え、言った。
『――ドラゴンがいいな』
六歳の女の子がドラゴンはないよねえ、と、今ならライヤは笑い飛ばすのだが、しかしその時は何の疑問も抱かずに、ネットからドラゴンの画像を検索し、設計し、作成し、走るのではなくて飛ぶものを指示したことに苛々を吐き出したりしながら、またクドウ家に行ったときに、彼女の部屋に忍び込んだのだ。
アヤが、こんこんっ、と胸を悪くしたような咳をした。ぼんやりと宙を見ていた少女は「ねえ」と言ったライヤに驚き、ふわりと表情を緩めた。そんな嬉しそうな顔をされる覚えはなく、不器用にライヤは箱を差し出した。
『約束、果たしたからね』
箱を開けて、底を傾けて中身を見せると、すうっと息を飲み込んで、うん、とアヤはゆっくり笑顔を浮かべた。
『あなたは、魔法使いね』
「どうしてそう思う?」
君は、アヤの病状を知っているはずだ。
二十歳まで生きられればいい。時間が流れ行くたびに、彼女は死に近付く。人が永遠にも近く思う果てない場所にある『終わり』を彼女は傍らにしながら生きてきた。悲しむ時間はとうに過ぎたのだ。アヤの中には諦めがあり、しかし悲哀がよみがえる時があって彼女は一人で泣く。熱で浮かされながら。誰にも聞こえないところで。一人きりの部屋で。枕に顔を埋めて。
側にいるよ。そう言うのに、彼女は首を振る。ライヤにはその気持ちが分かる気がしていた。――失った瞬間が怖い。
手に入れたものからみるみる離されていく悲しみを、苦しみを味わいたくない。そんなに自分は強くない。心が引き裂かれて壊れてしまう。
セシリアは静かにライヤを見つめた。
「彼女にはあなただけだから」
静かに。静かに。
世界は息をひそめ、ライヤの耳に、アヤが呼ぶ声が聞こえる。
「彼女の世界を始めたのはあなた」
ライヤ。どうして私なの。
あなたは、魔法使いね。
「あなたが、あの子の心を生んだのよ」
『あなた、魔法使いね』
ライヤは顔をしかめた。
『ただの模型じゃないか』
『だって、わかるんだもの』
痰が絡み、熱で定まらない声だったが、きらきらと目を光らせて、アヤは言った。
『あなたはきっとすごいものを作る。それはきっと魔法になる……だれかを、たくさんのひとを、すくう魔法なのよ』
・
『世界は夢を見ているという気がする。
わたくしの世界がね。
たちの悪い空想だと、あなたたちは笑うかしら。
でもね、よく想像しているの。
わたくしはいま、夢に微睡んでいる最中で……まだ、生まれてもいないし、何も始まっていない。わたくしの人生はまだ始められてもいなくて、時間は無限にある、と。
だって、生きていると自覚しない人生なんて、生きていないも同じなんだもの。
心を震わせてみたい。魂を揺さぶってみたい。そう思っていたときに、あの鳥が舞い降りた。
何故か涙があふれたわ。
それって、心が揺れたということなんでしょう?
わたくしは、まだ生きていける。ガラスの壁を掻くような思いで、あらゆるものを呪いながら消えていくことはないのかもしれないと希望を持ったの。
その時、空を見たわ。何故かそうしなければならないと思った。
とても綺麗な空だった。ひびが入り割れた窓から、本物の空が現れて、わたくしを照らしたの。わたくしは、初めて空そのものに降れたのよ。その青を撮影してみたけれど、やっぱりデジタルはだめね。あの色にはならなかった。でも一応、画像を添付しておくわね。
綺麗だと、本当に、心から思ったの。
思えたのよ。
だからきっと、世界は変わるわ。
そうでしょう?』
・
扉を開く。アヤは窓辺に置いた椅子に腰掛け、ライヤを迎えた。メールを読んだから、ベッドから出ていたのだ。顔色は悪く、唇に色はない。透き通るような肌の色は、それでも春先の夕暮れの、明るい茜色に、紅を差すように輝いた。
ライヤはその足下にひざまずく。
「立たなくていい」
外出着の白いワンピースのスカートを持ったアヤを留めて、ライヤはその手を頂き、甲に額を押し付けた。
「君を愛してる」
陳腐だ、とライヤは自嘲した。
しかし、それは抱えてきた望みのすべてだったのだ。
「君の世界を守りたいんだ。君が大切にするものを大切にするよ。君の愛するものを愛するよ。だって、僕の心を作ったのは、今の僕を作ったのは、六歳の君だったから」
心が震えることを生きることだと言うのなら。
もう、彼女なしには生きられない。
「……君の魔法使いにしてほしいんだ」
額ずくようにして許しを請うた。彼女の手の熱さとドレスの繊維が輝いたその印象を、ライヤは今も、美しいと記憶し続けている。